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江夏豊

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えなつゆたか

江夏豊とは、阪神タイガース、広島東洋カープなどで活躍した元プロ野球選手。投手。左投左打。

背景は暗く、観客もスコアボードも闇に沈み、江夏ただ一人が光に浮かび上がっている。

今まさに、左手を振り下ろした瞬間だ。

右足はしっかりと土をつかみ、ひさしの奥の目は、キャッチャーミットに吸い込まれてゆくボールを見つめている。マウンドに漂う土煙の名残が、ボールの威力を物語っている。生涯で最も速い球を投げていた江夏だ。

縦縞のユニフォームの肩越しに背番号が見える。完全数、28。

                       ――小川洋子著『博士の愛した数式』より抜粋

概要

1948年5月15日、兵庫県尼崎市生まれ。

1966年、大阪学院大学高等学校から、この年の第1次ドラフト会議において、阪神タイガース読売ジャイアンツ東映フライヤーズ阪急ブレーブスの4球団から1位指名を受けての競合抽選の結果、指名権を獲得した阪神へ入団。


高校時代から変化球が投げられず、1年目は変化球を習得できないままシーズンに突入したが、それでも225奪三振を記録し、負け越しはしたものの12勝(13敗)を挙げた。

2年目となる1968年には中学時代の砲丸投げでついたクセを矯正され、制球力が向上。変化球も習得したことで投球の幅が大きく広がり、驚異的なペースで三振の山を築き上げ、稲尾和久の353を大きく上回るシーズン401奪三振のNPB記録を樹立。1974年にノーラン・ライアンがMLB記録となる383を記録しているが、江夏の記録はそれをも上回っており、認定こそされていないが世界記録である。この年を境に、江夏は村山実に代わる阪神のエースとなり、球界を代表する投手となっていった。

1973年8月30日の中日ドラゴンズ戦では、史上59人目となるノーヒットノーランを達成。この試合で江夏は松本幸行と延長戦まで投げ合い、11回裏に松本からの初球をライト側ラッキーゾーンに運び「自らサヨナラホームランを放つ」という劇的な形での達成であった。後にも先にも、日本プロ野球で延長戦ノーヒッターを達成しているのは江夏だけである。


先発からリリーフへの転向

1976年、江夏は当時阪神の監督だった吉田義男と仲が悪かったこともあり、フロントの一方的な主導によって南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)とのトレードに出される。

移籍1年目は阪神時代と変わらず先発要員だったが、当時の江夏は血行障害や心臓疾患の悪化に加えて、服用していた痛み止めの副作用の影響で体重が増加するなどの要因が重なり、既に先発完投など無理な体となっていた。試合中に発作を起こして動けなくなり、周囲を慌てさせたこともよくあったという。

しかしながら、江夏の投球そのものは素晴らしかったため、「短いイニングなら」と考えた野村克也選手兼任監督は江夏にリリーフへの転向を打診する。当時の日本球界ではリリーフ専任の投手は二流、三流という風潮が強く、プライドが高い江夏は最初は野村の提案を拒否していたが、野村の粘り強い説得と、「野球界に革命を起こそう」という言葉に感銘を受け、リリーフへの転向を承諾した。後年、江夏は「革命という言葉がなければリリーフ転向を受け入れなかっただろう」と語っている。

移籍2年目の1977年6月から江夏は本格的にリリーフに転向し、この年19セーブを記録。新しく設立された最優秀救援投手賞を獲得し、パリーグの初代セーブ王に輝いた。同年オフ、野村の解任に伴い、金銭トレードで広島東洋カープに移籍する。カープでもリリーフエースとして活躍し、1979年・1980年の2年連続日本一に大きく貢献。1979年にはNPBで初めてセパ両リーグでセーブ王を獲得した投手となり、またリリーフ投手では初となるシーズンMVPを獲得した。


1980年オフ、大沢啓二監督の希望により、日本ハムファイターズ(現北海道日本ハムファイターズ)にトレード移籍。大沢監督の全幅の信頼の下、19年ぶりの優勝に大きく貢献。シーズンMVPを獲得し、江夏はセパ両リーグでシーズンMVPを獲得した最初の選手となった。1982年には通産200勝を達成し、名球会に入会。同時期にプロ野球史上初めて全12球団からセーブを記録した。


1983年オフ、大沢の勇退に伴い江夏も放出されることになり、西武ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)にトレード移籍するのだが、西武では広岡達朗監督との間に確執が生じ、7月12日の登板を最後に江夏の一軍登板はなく、通算3000奪三振まであと17、史上初の通算200セーブまであと7(※)と迫っていたが、この年限りでの現役引退を表明した。


※日本でセーブが公式記録として採用されるようになったのは1974年からで、江夏は1973年までに数字にして37セーブに相当する登板を果たしている。


遅すぎたメジャー挑戦

1984年のシーズンをもって現役を引退することになった江夏だが、同じ年に引退した田淵幸一と異なり球団主催の引退試合は行われず、名球会と有志によって江夏のために「たった一人の引退式」が執り行われた。この引退式の挨拶で江夏はメジャーリーグ挑戦を表明する。

「江夏豊、36歳。本当にバカな男かも分かりません。でも、日本に帰って来た時には、たったひと言“ご苦労”。それだけ、言ってやってください。」

集まった観客や報道陣にそう告げて江夏は渡米し、翌1985年、ミルウォーキー・ブルワーズの春季キャンプに参加した。海の向こうからやってきた中年太りの日本人ルーキーに好奇の目が集まる中、江夏はメジャーの選手たちと渡り合い、最終選考まで残ったが、最後の最後で調子を落として打ち込まれてしまい、加えて36歳という年齢もネックとなり、メジャー契約を勝ち取ることは出来なかった。

球団からはマイナー契約を持ち掛けられていたが、メジャー一歩手前の3Aではなく2Aでの契約だったため、江夏は「3Aならともかく2Aなら残る気はない」と断り、自身の現役生活に改めてピリオドを打って帰国の途についた。

なお、当時のブルワーズの監督は江夏のメジャー挑戦について「彼はあと10年早く来るべきだった」とコメントしたと言われている。


また、この時江夏と最後までメジャーの一枠を争ったメキシコ人のテディ・ヒゲーラは、この年は15勝、翌年は20勝を上げる活躍を見せ、一躍メジャーリーグを代表する投手に上り詰めた。

翌年の日米野球でメジャーリーグ選抜軍の一員として来日したヒゲーラは、江夏とプレーしていた時はアンダーシャツ(ユニフォームの下に着る肌着)を普段着替わりにし、ビールを買う金も持ち合わせていないような困窮ぶりだったが、そのヒゲーラは高級ブランド品を全身に身に纏い、まるで別人のような生活ぶりであった。

解説者として球場入りしていた江夏はそれを見て「これがアメリカンドリームか」と驚いていたが、ヒゲーラは選手として成功を収めてもなお江夏のことを忘れておらず、江夏を見るやいなや真っ先に駆けつけて握手を求めてきたと言う。


オールスターゲーム9連続奪三振

江夏豊を語る上で欠かせない伝説の一つ。

1971年7月17日に西宮球場で行われたオールスターゲーム第1戦に先発した江夏は、3イニングで対戦した全パの打者9人全てを三振に打ち取った(オールスターゲームでは1人の投手が投げられるのは3回まで)。2018年現在、オールスター戦で1試合9連続奪三振を記録した投手は江夏だけである(なおルール上は三振→振り逃げを繰り返せば、10連続以上奪三振は可能)。

更に、この試合で江夏はホームランを打っているほか、全セは江夏の後を受けた四人の投手の継投でノーヒットノーランを達成している。この試合以降、2016年に大谷翔平が打つまでオールスターで投手によるホームランは記録されていなかった(その大谷も指のマメが潰れた影響で当該試合には登板しておらず、当該試合に登板した投手によるホームランという意味では江夏が最後である)。

また、江夏は昨年のオールスター戦で5連続奪三振、翌日の試合で1奪三振を記録しており、この3試合で記録した15連続奪三振はオールスター記録である。ちなみに、江夏の連続奪三振記録に終止符を打ったのは、後に南海でチームメイトとなる野村である。


江夏の21球

オールスター9連続奪三振と並んで江夏豊を語る上で忘れてはならないのが、この「江夏の21球」である。

スポーツノンフィクション作家であった山際淳司1980年文藝春秋から発行された「Sports Graphic Number」創刊号に掲載したプロ野球ノンフィクション作品の題名であるが、この作品が広く知名度を獲得したことにより、現在では題材となった試合の場面そのものを指して「江夏の21球」と呼ばれることも多い。


1979年11月4日大阪球場で行われたプロ野球日本シリーズ第7戦、近鉄バファローズ広島東洋カープの9回裏の攻防である。

両チーム3勝3敗で迎えた第7戦は、小雨が降る中で試合が進み、7回表を終了した時点で4対3と広島がリードしていた。広島・古葉竹識監督は万全を期すため、絶対的なリリーフエース、江夏を7回裏からマウンドへ送っていた。迎えた9回裏、近鉄の攻撃。この回を抑えれば広島は優勝、球団史上初の日本一となる。ところが、同じく初の日本一を目指す近鉄もただでは終わらなかった。先頭の6番打者・羽田耕一が初球に安打を放って出塁し、にわかに場面は緊迫。

だが、江夏は、7番打者アーノルド、8番打者平野光泰、9番打者代打佐々木恭介、1番打者石渡茂の4人の近鉄打線をたった21球でねじ伏せ、広島を優勝へと導いた。


これが俗に言う「江夏の21球」である。


人物

首脳陣との対立や確執が多く、数々の球団を渡り歩いたことから、「孤高のエース」「一匹狼」というイメージを強く持たれている。

江夏はファンの間でも今なお『20世紀最高の投手の一人』との呼び声が高く、広島・日ハム時代に大車輪の活躍を見せてチームを優勝に導いたことから『優勝請負人』の異名も取った。Yahoo!JAPANが企画した「20世紀日本プロ野球ベストナイン」の投手部門では、沢村栄治金田正一稲尾和久ら往年の名投手を抑えて1位に選出されている。

子供の頃には、近所の子供達と粗末な道具で野球を楽しんでいた。そんな折に兄から「お前は左でやれ」と左利き用のグラブを買い与えられ、右利きであったにもかかわらず強制的に左利きへと矯正されたという。

引退後はプロ野球解説者や評論家として活動する傍らで、俳優やタレントとしても活躍していた。

しかし、1993年3月に覚醒剤所持の現行犯で逮捕され、2桁グラムの所持が販売目的の量とみなされたため、裁判で2年4ヶ月の実刑判決(執行猶予なし)を受ける。1995年4月に仮釈放された後、解説者・評論家に復帰。マスターズリーグにも参加している。

山際や野村、衣笠祥雄といった支えてくれた人物がいたとはいえ、刑務所の中で自省し、出所後は現役時代のトロフィーを全て捨てるなどして過去の自分を断ち切ることで、人間としてやり直すことに成功したことが知られる数少ない人物である。後年の清原和博の薬物事件の際は「江夏を思い出した」と言った書き込みも散見された。


関連項目

背景は暗く、観客もスコアボードも闇に沈み、江夏ただ一人が光に浮かび上がっている。

今まさに、左手を振り下ろした瞬間だ。

右足はしっかりと土をつかみ、ひさしの奥の目は、キャッチャーミットに吸い込まれてゆくボールを見つめている。マウンドに漂う土煙の名残が、ボールの威力を物語っている。生涯で最も速い球を投げていた江夏だ。

縦縞のユニフォームの肩越しに背番号が見える。完全数、28。

                       ――小川洋子著『博士の愛した数式』より抜粋

概要

1948年5月15日、兵庫県尼崎市生まれ。

1966年、大阪学院大学高等学校から、この年の第1次ドラフト会議において、阪神タイガース読売ジャイアンツ東映フライヤーズ阪急ブレーブスの4球団から1位指名を受けての競合抽選の結果、指名権を獲得した阪神へ入団。


高校時代から変化球が投げられず、1年目は変化球を習得できないままシーズンに突入したが、それでも225奪三振を記録し、負け越しはしたものの12勝(13敗)を挙げた。

2年目となる1968年には中学時代の砲丸投げでついたクセを矯正され、制球力が向上。変化球も習得したことで投球の幅が大きく広がり、驚異的なペースで三振の山を築き上げ、稲尾和久の353を大きく上回るシーズン401奪三振のNPB記録を樹立。1974年にノーラン・ライアンがMLB記録となる383を記録しているが、江夏の記録はそれをも上回っており、認定こそされていないが世界記録である。この年を境に、江夏は村山実に代わる阪神のエースとなり、球界を代表する投手となっていった。

1973年8月30日の中日ドラゴンズ戦では、史上59人目となるノーヒットノーランを達成。この試合で江夏は松本幸行と延長戦まで投げ合い、11回裏に松本からの初球をライト側ラッキーゾーンに運び「自らサヨナラホームランを放つ」という劇的な形での達成であった。後にも先にも、日本プロ野球で延長戦ノーヒッターを達成しているのは江夏だけである。


先発からリリーフへの転向

1976年、江夏は当時阪神の監督だった吉田義男と仲が悪かったこともあり、フロントの一方的な主導によって南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)とのトレードに出される。

移籍1年目は阪神時代と変わらず先発要員だったが、当時の江夏は血行障害や心臓疾患の悪化に加えて、服用していた痛み止めの副作用の影響で体重が増加するなどの要因が重なり、既に先発完投など無理な体となっていた。試合中に発作を起こして動けなくなり、周囲を慌てさせたこともよくあったという。

しかしながら、江夏の投球そのものは素晴らしかったため、「短いイニングなら」と考えた野村克也選手兼任監督は江夏にリリーフへの転向を打診する。当時の日本球界ではリリーフ専任の投手は二流、三流という風潮が強く、プライドが高い江夏は最初は野村の提案を拒否していたが、野村の粘り強い説得と、「野球界に革命を起こそう」という言葉に感銘を受け、リリーフへの転向を承諾した。後年、江夏は「革命という言葉がなければリリーフ転向を受け入れなかっただろう」と語っている。

移籍2年目の1977年6月から江夏は本格的にリリーフに転向し、この年19セーブを記録。新しく設立された最優秀救援投手賞を獲得し、パリーグの初代セーブ王に輝いた。同年オフ、野村の解任に伴い、金銭トレードで広島東洋カープに移籍する。カープでもリリーフエースとして活躍し、1979年・1980年の2年連続日本一に大きく貢献。1979年にはNPBで初めてセパ両リーグでセーブ王を獲得した投手となり、またリリーフ投手では初となるシーズンMVPを獲得した。


1980年オフ、大沢啓二監督の希望により、日本ハムファイターズ(現北海道日本ハムファイターズ)にトレード移籍。大沢監督の全幅の信頼の下、19年ぶりの優勝に大きく貢献。シーズンMVPを獲得し、江夏はセパ両リーグでシーズンMVPを獲得した最初の選手となった。1982年には通産200勝を達成し、名球会に入会。同時期にプロ野球史上初めて全12球団からセーブを記録した。


1983年オフ、大沢の勇退に伴い江夏も放出されることになり、西武ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)にトレード移籍するのだが、西武では広岡達朗監督との間に確執が生じ、7月12日の登板を最後に江夏の一軍登板はなく、通算3000奪三振まであと17、史上初の通算200セーブまであと7(※)と迫っていたが、この年限りでの現役引退を表明した。


※日本でセーブが公式記録として採用されるようになったのは1974年からで、江夏は1973年までに数字にして37セーブに相当する登板を果たしている。


遅すぎたメジャー挑戦

1984年のシーズンをもって現役を引退することになった江夏だが、同じ年に引退した田淵幸一と異なり球団主催の引退試合は行われず、名球会と有志によって江夏のために「たった一人の引退式」が執り行われた。この引退式の挨拶で江夏はメジャーリーグ挑戦を表明する。

「江夏豊、36歳。本当にバカな男かも分かりません。でも、日本に帰って来た時には、たったひと言“ご苦労”。それだけ、言ってやってください。」

集まった観客や報道陣にそう告げて江夏は渡米し、翌1985年、ミルウォーキー・ブルワーズの春季キャンプに参加した。海の向こうからやってきた中年太りの日本人ルーキーに好奇の目が集まる中、江夏はメジャーの選手たちと渡り合い、最終選考まで残ったが、最後の最後で調子を落として打ち込まれてしまい、加えて36歳という年齢もネックとなり、メジャー契約を勝ち取ることは出来なかった。

球団からはマイナー契約を持ち掛けられていたが、メジャー一歩手前の3Aではなく2Aでの契約だったため、江夏は「3Aならともかく2Aなら残る気はない」と断り、自身の現役生活に改めてピリオドを打って帰国の途についた。

なお、当時のブルワーズの監督は江夏のメジャー挑戦について「彼はあと10年早く来るべきだった」とコメントしたと言われている。


また、この時江夏と最後までメジャーの一枠を争ったメキシコ人のテディ・ヒゲーラは、この年は15勝、翌年は20勝を上げる活躍を見せ、一躍メジャーリーグを代表する投手に上り詰めた。

翌年の日米野球でメジャーリーグ選抜軍の一員として来日したヒゲーラは、江夏とプレーしていた時はアンダーシャツ(ユニフォームの下に着る肌着)を普段着替わりにし、ビールを買う金も持ち合わせていないような困窮ぶりだったが、そのヒゲーラは高級ブランド品を全身に身に纏い、まるで別人のような生活ぶりであった。

解説者として球場入りしていた江夏はそれを見て「これがアメリカンドリームか」と驚いていたが、ヒゲーラは選手として成功を収めてもなお江夏のことを忘れておらず、江夏を見るやいなや真っ先に駆けつけて握手を求めてきたと言う。


オールスターゲーム9連続奪三振

江夏豊を語る上で欠かせない伝説の一つ。

1971年7月17日に西宮球場で行われたオールスターゲーム第1戦に先発した江夏は、3イニングで対戦した全パの打者9人全てを三振に打ち取った(オールスターゲームでは1人の投手が投げられるのは3回まで)。2018年現在、オールスター戦で1試合9連続奪三振を記録した投手は江夏だけである(なおルール上は三振→振り逃げを繰り返せば、10連続以上奪三振は可能)。

更に、この試合で江夏はホームランを打っているほか、全セは江夏の後を受けた四人の投手の継投でノーヒットノーランを達成している。この試合以降、2016年に大谷翔平が打つまでオールスターで投手によるホームランは記録されていなかった(その大谷も指のマメが潰れた影響で当該試合には登板しておらず、当該試合に登板した投手によるホームランという意味では江夏が最後である)。

また、江夏は昨年のオールスター戦で5連続奪三振、翌日の試合で1奪三振を記録しており、この3試合で記録した15連続奪三振はオールスター記録である。ちなみに、江夏の連続奪三振記録に終止符を打ったのは、後に南海でチームメイトとなる野村である。


江夏の21球

オールスター9連続奪三振と並んで江夏豊を語る上で忘れてはならないのが、この「江夏の21球」である。

スポーツノンフィクション作家であった山際淳司1980年文藝春秋から発行された「Sports Graphic Number」創刊号に掲載したプロ野球ノンフィクション作品の題名であるが、この作品が広く知名度を獲得したことにより、現在では題材となった試合の場面そのものを指して「江夏の21球」と呼ばれることも多い。


1979年11月4日大阪球場で行われたプロ野球日本シリーズ第7戦、近鉄バファローズ広島東洋カープの9回裏の攻防である。

両チーム3勝3敗で迎えた第7戦は、小雨が降る中で試合が進み、7回表を終了した時点で4対3と広島がリードしていた。広島・古葉竹識監督は万全を期すため、絶対的なリリーフエース、江夏を7回裏からマウンドへ送っていた。迎えた9回裏、近鉄の攻撃。この回を抑えれば広島は優勝、球団史上初の日本一となる。ところが、同じく初の日本一を目指す近鉄もただでは終わらなかった。先頭の6番打者・羽田耕一が初球に安打を放って出塁し、にわかに場面は緊迫。

だが、江夏は、7番打者アーノルド、8番打者平野光泰、9番打者代打佐々木恭介、1番打者石渡茂の4人の近鉄打線をたった21球でねじ伏せ、広島を優勝へと導いた。


これが俗に言う「江夏の21球」である。


人物

首脳陣との対立や確執が多く、数々の球団を渡り歩いたことから、「孤高のエース」「一匹狼」というイメージを強く持たれている。

江夏はファンの間でも今なお『20世紀最高の投手の一人』との呼び声が高く、広島・日ハム時代に大車輪の活躍を見せてチームを優勝に導いたことから『優勝請負人』の異名も取った。Yahoo!JAPANが企画した「20世紀日本プロ野球ベストナイン」の投手部門では、沢村栄治金田正一稲尾和久ら往年の名投手を抑えて1位に選出されている。

子供の頃には、近所の子供達と粗末な道具で野球を楽しんでいた。そんな折に兄から「お前は左でやれ」と左利き用のグラブを買い与えられ、右利きであったにもかかわらず強制的に左利きへと矯正されたという。

引退後はプロ野球解説者や評論家として活動する傍らで、俳優やタレントとしても活躍していた。

しかし、1993年3月に覚醒剤所持の現行犯で逮捕され、2桁グラムの所持が販売目的の量とみなされたため、裁判で2年4ヶ月の実刑判決(執行猶予なし)を受ける。1995年4月に仮釈放された後、解説者・評論家に復帰。マスターズリーグにも参加している。

山際や野村、衣笠祥雄といった支えてくれた人物がいたとはいえ、刑務所の中で自省し、出所後は現役時代のトロフィーを全て捨てるなどして過去の自分を断ち切ることで、人間としてやり直すことに成功したことが知られる数少ない人物である。後年の清原和博の薬物事件の際は「江夏を思い出した」と言った書き込みも散見された。


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