経歴
「村田兆治」は登録名であり、本名は「村田長治」。
福山電波工業高校を経て、1967年のドラフト1位で東京オリオンズ(→ロッテオリオンズ→千葉ロッテマリーンズ)に入団。
1年目の1968年は調子が振るわなかったものの翌1969年に頭角を現すようになり、1970年にはリーグ優勝を、1974年にはプロ野球日本一をそれぞれ経験した。1981年には19勝で最多勝利のタイトルも獲得。
NPB通算215勝を挙げ、コーチ兼任で臨んだ1990年に現役引退。選手引退後は、1995年〜97年に福岡ダイエーホークス(現在の福岡ソフトバンクホークス)で投手コーチを務めた。
ちなみに、選手引退した理由は「先発完投が出来なくなったから」であったらしく、後年に古田敦也とテレビ番組の企画で対戦した後の対談で古田に「今からでも現役復帰できるんじゃないですか」という発言に対して「先発出来ないからイヤだ」と答えていた(さすがに別の場所で古田に「まだ通じる気か」とツッコまれていたが、実際ワンポイントなら通用しそうなあたりなんともいえない。後に、「疲労が回復するのに時間がかかる体質であり中継ぎ・抑えの適性がなかった」と告白している。)余談だが、彼がコーチ時代のホークス投手陣は大変に不甲斐なかったので「(抑えられない投手たちに代わって)お前が投げろ」とヤジられたこともある。
マスターズリーグや公式戦始球式などでは齢五十を過ぎてなお130km後半の速球を投げる(63歳で135kmを記録)など、老いてその剛腕は衰えぬ球界の鉄人。球のスピードだけに目を奪われがちだが、2016年の始球式で投げた際には131kmを記録したどころか球を受けた捕手が思わずボールを投げ返そうとしたくらいのノビやキレがあるようだ。当然ながらこんな真似をやってのける還暦過ぎの投手は世界的にも珍しいらしく、この始球式の様子はFIXスポーツ(アメリカのスポーツ専門チャンネル)でニュースにもなった。
- 2020年の始球式では球種を見てバッターが反射的に見送り、振り忘れるという珍事があった。現役選手さながらの球を投げるから起こることである。
2022年11月11日に自宅から出火。意識不明の状態で緊急搬送されたが搬送先の病院で死亡が確認された。直接の死因は一酸化炭素中毒と見られる。享年74(満72歳没)。
人物
プレースタイル
ゆっくり、かつ大胆なモーションで投げる「マサカリ投法」と、そこから繰り出されるノビのある直球とすさまじい落差のフォークボールが代名詞。入団1年目に自身の「上体が突っ込みすぎる」欠点に気づき、克服するために自らが編み出し、4年を掛けて完成させたという。
だが、あまりにモーションが遅すぎて、相手バッターに球種を読まれてしまうこともあった。
が、彼もそれに対抗して投球モーションの途中で握りを変えるという離れ業を編み出している。
野村克也曰く「フォークとわかって構えていても俺には打てなかった」。
トミー・ジョン手術の先駆け
1982年に右肘を痛め、有効な治療を求めて全国を回ったものの改善策が見つからず、当時アメリカ合衆国で最先端であった靭帯再建手術(トミー・ジョン手術)を翌年受けた。この手術は1979年に三井雅晴が日本人で初めて受けたものであるが、自身の復帰後の活躍からNPBでもトミー・ジョン手術を受ける投手が増えた。
1985年には開幕から11連勝を記録し、最終的にシーズン17勝5敗の結果でカムバック賞を受賞した。
珍記録
通算暴投数148は日本記録で、2位の石井一久の111個を30個以上も引き離している。とはいえ、バッテリーの袴田英利捕手は彼のすさまじい落差のフォークをしばしばノーサインで取ってたらしいので、仕方ないといえば仕方ない。
実は、このバッテリーの投球の組み立ては基本的に村田が行っている。袴田の「一軍でやりたい」という望みに対し村田は「ならオレのフォークをノーサインで捕れ」と応じ、以後袴田の身体を張った捕球がゲームで見られるようになった。袴田が左手の指を骨折したことも何度かあったという。もちろん、そんな袴田の捕球に絶対の信頼を置いていた。
性格
「昭和生まれの明治男」。上記の通り、現役時代はロッテのエースとして「先発完投」のスタイルにこだわってきた。
引退後も気持ちは現役のままで度々カッとなりやすく、現役引退後の2022年9月には羽田空港で携帯電話が金属探知機に引っ掛かった事で腹を立て、女性検査員に暴行を加え逮捕されるトラブルもあった(のち釈放)。