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概要編集

(1912年3月11日 - 2008年9月26日)。

「元祖神主打法」「初代トリプルスリー」と呼ばれている。


1931年に第17回全国中等学校優勝野球大会に出場。

1934年明治大学に進学。二年生で明大史上初の首位打者(打率.390)。また1シーズン3本塁打、1試合13塁打(本塁打2、三塁打・二塁打各1本)の記録を作った。


1934年、大学卒業後は野球部のない大同電力に就職。

1937年、六大学出身のスター選手を揃えたクラブチーム日本一の強豪・東京倶楽部に所属。東京倶楽部は翌1938年シーズン前に解散。


その後、2年間兵役に服し、復員した1940年から戦時下の1942年まで南海でプレー。

1942年には打撃三部門(打率・本塁打・打点)で全て2位。


1947年からは広陵の後輩・白石勝巳が創部して監督を務めていた植良組(別府市)に、白石の巨人復帰による後任を頼まれ選手兼任監督として在籍。チームはその後解散。


1949年大陽ロビンス(1950年から松竹ロビンスに改名)に37歳で7年ぶりにプロ球界に復帰した。

1950年に史上初のトリプルスリー(打率.319 39本塁打 34盗塁)を達成してリーグ優勝に大きく貢献した。


1951年オフに大洋に移籍。

1954年に一旦は引退した。


1956年に東映フライヤーズの選手兼任監督として三度目のプロ野球復帰。

1956年4月19日の大映戦で最年長サヨナラ本塁打(44歳1ヵ月)、10月4日の西鉄戦(駒澤)では最年長サヨナラ安打(44歳6ヵ月)をマーク。

1957年、45歳5ヶ月で本塁打を打ち、史上最年長記録となった。同年限りで現役を引退。


監督は1960年まで5年間務めた。

その後は近鉄のコーチ(1962年 - 1964年)を経て1965年から1966年の2年間近鉄の監督を務めた。


1981年に競技者表彰で野球殿堂入り。

2008年9月26日に急性心不全のため死去。96歳没。

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