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経歴編集

1962年4月10日生まれ。茨城県結城市出身。

栃木県立小山高校時代は甲子園未出場。

明治大学に進学すると、大学4年時(1984年)のロサンゼルスオリンピック野球日本代表選手に選ばれ、金メダル獲得に貢献する。

同年のドラフト会議では目玉選手とされ、ヤクルトスワローズ日本ハムファイターズ西武ライオンズの3球団競合となり、抽選の結果ヤクルトが指名権を手に入れた。

ちなみに、広澤を外した西武は大久保博元を指名し、日本ハムは河野博文を指名したが、その2人は後に広澤と巨人でチームメートになる。ドラフトの同期に秦真司(2位)がいる。


ヤクルト時代(広沢克己)編集

ヤクルトでの背番号は、大杉勝男の引退(1983年)で1年間欠番になっていた8を与えられた。

当時の土橋正幸監督の元で我慢強く起用され、1年目から18本塁打を記録するなどレギュラーに定着。

前年に入団した池山隆寛と共に「イケトラコンビ」と呼ばれる。ちなみに、広澤のあだ名である「トラ」の由来は浪曲師の広沢虎造にちなんだもので、阪神ではない。(但し後述の通り阪神に入団する。)


関根潤三監督時代にはボブ・ホーナーなどの外国人選手が一塁を守ったため、外野手に転向。

1988年にはキャリアハイの30本塁打を放ち、外野手として初めてベストナインに選ばれるなど、チームの顔に成長した。


野村克也が監督に就任した1990年からは4番打者を任されるようになり、'90年には2度目のベストナインに輝き、1991年は3度目のベストナインに加えて初の打撃タイトルとなる打点王を獲得。

1992年は球団14年ぶりのリーグ優勝に貢献するが、日本シリーズ西武ライオンズに敗れた。

1993年は一塁手として初めて、通算4度目のベストナインと2年ぶりに打点王を獲得しヤクルトのセ・リーグ連覇、そして前年届かなった日本一に大きく貢献した。

1994年も中心打者として安定した成績を残すも、フリーエージェント(FA)を宣言し、5年契約で読売ジャイアンツに移籍する。


巨人時代(広沢克)編集

巨人では原辰徳が8を背負っていたことから、背番号は80と大きい番号となった。

巨人初年度の1995年落合博満が一塁のレギュラーだったため、主に左翼を守っていた。

1996年より登録名「広沢克」に変更(読みは同じ)。しかしオープン戦での怪我が原因で出遅れた。この年は11.5ゲーム差を逆転してリーグ優勝した、所謂メークドラマの年だったが、広沢自身はあまり貢献出来なかった。

1997年からは吉岡雄二近鉄移籍に伴い空いた背番号10に変更。

落合の代わりにFA移籍してきた清原和博が一塁を守ったため、主に右翼を守った。この年はヤクルト時代の打棒が復活したが、100試合出場は結果的にこの年が最後となってしまった。

1998年には高橋由伸が入団し、結果的に広沢はレギュラーを失ってしまう。

5年契約の最終年にあたる1999年は心機一転の意味で登録名を「広澤克実」に変更。

しかし、序盤戦での故障が原因でわずか16試合の出場に終わり、この年限りで巨人を自由契約となった。


阪神時代(広澤克実)編集

1999年のシーズンオフに野村が監督を務めていた阪神タイガースに移籍。巨人⇔阪神間の移籍は現在でも稀な事例である。(同年には阪神を自由契約になったダレル・メイが巨人に移籍している。)

阪神での背番号はかつて掛布雅之が背負っていた31


野村阪神時代は一塁手のレギュラーを外国人と争う形になっていたが、次第に代打起用が増えるようになったが、2001年には通算300本塁打を達成した。

2002年からは明治大学の先輩でもある星野仙一が監督に就任。一塁はジョージ・アリアスが主に起用されたため、代打での出場が主となったが、ここぞの勝負強さで存在感を出した。

前年限りで長冨浩志と同学年の秋山幸二が引退したため、41歳となった2003年球界最年長選手となった。

この年も代打での出場が中心だったが、8月にはスタメン出場もしていた。

そしてこの年、阪神は広澤自身がプロ入りした1985年以来18年ぶりにリーグ優勝を飾り、広澤も優勝を花道に現役引退を決めていた。


福岡ダイエーホークスとの対決となった日本シリーズでは、3勝3敗の第7戦、1-6で迎えた9回裏2死に代打で出場すると、この年に新人の和田毅からホームランを放ったが、これが現役時代最後のホームランとなった。


通算成績は実働19年間で1736安打306本塁打985打点打率.275を記録した。


引退後編集

引退後は野球解説者として活動。

2006年には阪神の一軍打撃コーチとして3年ぶりに現場復帰したが、2008年には13ゲーム差を逆転される歴史的なV逸の責任を取らされる形で監督の岡田彰布、コーチの吉竹春樹と共に辞任した。


以後は再び野球解説者として活動している。


関連動画編集

ヤクルト時代の応援歌

右へ左へ場外へ 放り込め広沢

肩も強い大物だ 勝利呼べ広沢

※後に小早川毅彦に流用。


巨人時代の応援歌

男広沢 広沢 打てよメガトンホームラン

熱く燃えろ 熱く燃えろ ぶちこめホームラン


阪神時代の応援歌

勝負だ一発吠えてくれ スタンド目指して狙い打ち

広澤 広澤 広澤克実


2003年の日本シリーズ第7戦・現役最後のホームラン


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