概要
1962年7月29日生まれ。徳島県鳴門市出身。右投左打。ポジションは捕手及び外野手(ライト)。
1994年から1998年まで、登録名はそのままで、電光掲示板の表記のみ「はた」に変更していた。
経歴
徳島県立鳴門高校在学時は捕手として甲子園に出場。法政大学に進学後、在学中の1984年にロサンゼルスオリンピック日本代表に選出され、金メダルを獲得した。
同年のドラフト会議でヤクルトスワローズに2位指名され、捕手として入団。
1988年からは八重樫幸雄から正捕手の座を勝ち取り、レギュラー入りした。
しかし1990年に名捕手として知られた野村克也が監督に就任すると転機が訪れる。
野村は秦のリードや配球について疑問を抱いており、初めは控え捕手だった飯田哲也、次いで入団したばかりの古田敦也を育成する方針に切り替えた。特に同年の開幕戦で読売ジャイアンツと対戦した際のリードについて野村が秦に質問すると、秦の回答が野村を納得させる物ではなかった為、捕手失格の烙印を押されてしまう。
しかし強肩と打撃センスについては高く評価しており、同年6月に外野手にコンバートされると、以降はライトのレギュラーに定着。
1997年には稲葉篤紀や真中満の台頭でレギュラーから外れるが、代打の切り札として活躍。しかし同年末に複数のプロ野球選手による脱税が発覚すると、秦も関与していた事が判明。刑事事件としては不起訴処分になったものの、コミッショナー処分として1998年のシーズン開幕から3週間の出場停止と制裁金が課された。処分が開けた後は全く活躍出来ず、同年オフに戦力外通告を受けた。
1999年に日本ハムファイターズに移籍するが同年オフに退団し、千葉ロッテマリーンズにテスト入団。2000年シーズン終了と共に現役を引退し、そのまま2軍打撃コーチに就任。
2001年シーズン開幕後半月で1軍打撃コーチに配置転換されるが、9月に2軍に再転換され、同年オフに退団。
解説者業を経て2005年から中日ドラゴンズのコーチに就任。2006年シーズン終了後に退団。
2008年からはMLB中継解説者業の傍ら独立リーグ・BCリーグ群馬ダイヤモンドペガサスの初代監督に就任。2011年まで務めた。
2012年から2017年までと2019年には読売ジャイアンツでコーチを務めた。
背番号変遷
背番号 | 使用年 | 所属チーム | 備考 |
---|---|---|---|
26 | 1985年〜1998年 | ヤクルトスワローズ | 選手 |
3 | 1999年 | 日本ハムファイターズ | 選手 |
31 | 2000年 | 千葉ロッテマリーンズ | 選手 |
77 | 2001年 | 千葉ロッテマリーンズ | 2軍打撃コーチ |
77 | 2001年 | 千葉ロッテマリーンズ | 1軍打撃コーチ |
77 | 2001年 | 千葉ロッテマリーンズ | 2軍打撃コーチ |
82 | 2005年〜2006年 | 中日ドラゴンズ | 1軍捕手コーチ |
88 | 2008年〜2011年 | 群馬ダイヤモンドペガサス | 監督 |
82 | 2012年〜2013年 | 読売ジャイアンツ | 1軍バッテリーコーチ |
82 | 2014年 | 読売ジャイアンツ | 2軍バッテリーコーチ |
82 | 2014年〜2015年 | 読売ジャイアンツ | 1軍バッテリーコーチ |
102 | 2016年〜2017年 | 読売ジャイアンツ | 3軍バッテリーコーチ |
89 | 2019年 | 読売ジャイアンツ | ファームバッテリー兼打撃コーチ |