経歴
1970年生まれ。高校時代は強打の捕手として鳴らし、「東の江藤、西の谷繁」と呼ばれた。
1988年のドラフト5位で広島東洋カープに入団。同期には野村謙二郎(1位)がいる。
広島時代
1年目の背番号は51。1年目は一軍未出場だったが、ウエスタンリーグでの活躍が認められ、2年目から背番号が33に変わった。ちなみに、江藤の次に背番号51を付けるのが、翌年入団する前田智徳である。
2年目の1990年に一軍初出場。当時は達川光男が正捕手だったこともあり、内野と外野を守っていたが、3年目の1991年に内野手に転向し、リーグ優勝に貢献。三塁手のレギュラーに上り詰める。
1993年には34本塁打で本塁打王のタイトルを獲得し、初めてベストナインにも選ばれた。
1995年は39本塁打で2度目の本塁打王に輝き、106打点で打点王も受賞した。
1999年にFA宣言し、読売ジャイアンツに移籍した。当時巨人では長嶋茂雄監督が33番を付けていたが、「江藤くんに33番を譲り、私は3番(永久欠番)を付けます。」と発言した。
巨人時代
移籍1年目の2000年は主に6番打者として32本塁打を放ち、リーグ優勝と日本一に貢献。
リーグ優勝を決めた9月24日の中日戦では、0-4の9回裏にこの年最多セーブを受賞したエディ・ギャラードから同点満塁本塁打を放った。そして次打者の二岡智宏が2球目をライトスタンドに放って優勝を決めた。
2002年を境に徐々に成績が下がり、さらに2004年からは小久保裕紀の加入も重なりほぼ代打要員となった。
2005年オフに豊田清がFAで巨人に移籍し、その人的補償で西武ライオンズへ移籍する。FAでの入団と人的補償での移籍を両方経験した初めての選手となった。
ちなみに、日本テレビ「ズームインサタデー」では「いい人江藤」と呼ばれていた。
西武時代
2006年に通算350本塁打を達成した。
2008年には代打での出場が主だったが、指名打者としても出場し7本塁打と健在をアピール。チームはこの年リーグ優勝と日本一、さらにアジアチャンピオンにも輝き、これにより江藤自身は3球団でリーグ優勝・セパ両リーグで日本一を経験した。
2009年限りで現役引退を表明。同年に緒方孝市が引退したため、1991年のV戦士は前田だけになった。(前田は2013年に引退。)
通算で364本塁打を放ったが、サヨナラホームランは1度も打ったことがなく、サヨナラホームランなしでは最多の本塁打数である。
現役引退後
2010年より巨人のコーチに就任して以後巨人一筋でコーチを歴任し、2018年に三軍監督に就任。
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ホームランの瞬間は2:07から。