経歴
1971年10月8日生まれ、和歌山県和歌山市出身。
ポジションは内野手、右投右打。
青山学院大学時代の1992年にバルセロナオリンピックに日本代表として選ばれる。翌1993年オフのドラフトで読売ジャイアンツと福岡ダイエーホークスが競合し、小久保が福岡ダイエーを逆指名して入団。
レギュラー定着は2年目の1995年。当時のポジションは二塁手だった。この年本塁打王のタイトルを獲得(28本塁打)し、イチローの六冠王を阻止する(六冠王という偉業自体、世界の野球全体でも1909年にMLBデトロイト・タイガースのタイ・カッブしか成しえていない)。1998年以降は三塁手へとコンバートされホークスを代表する選手に成長する。
しかし2003年のオープン戦で大けがを負い、この年一軍出場は無し。球団側はその治療費を支払うのを渋り、自腹に。高塚猛球団社長などフロントへの不信感に至り、自らトレードを志願しシーズン終了後に読売ジャイアンツに無償トレードされる(いわゆる小久保事件)。
ジャイアンツ時代は低迷するチームの中孤軍奮闘し、2006年は移籍組ながら主将に指名された。
2006年オフにFA権を行使して(親会社が変わり旧フロントが一掃された)福岡ソフトバンクホークスに復帰。松田宣浩の台頭で一塁手にコンバートされたものの、2012年までチームの中軸として活躍を続けていた。2012年6月24日に史上41人目の通算2000本安打を達成し、この年限りで現役を引退した。
野球解説業の傍ら、2013年には全日本代表監督に就任し2017年のWBCの任期満了まで指揮を執った。2021年、福岡ソフトバンクホークスに一軍ヘッドコーチとして現場復帰し、2022年から2023年は二軍監督を務め、2024年からは一軍監督を務める。