概要
山口県立岩国工業高校を卒業後、新日鉄光へ入社。しかし、1994年に新日鉄グループ野球部の再編で休部することになったため、新日鉄君津へ転籍する。
西武時代はプロ初登板こそ先発だったが、先発では結果が振るわなかったため1年目の途中からリリーフへ転向。
その後、セットアッパーとして定着し、2002年と2003年には最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得する。
選手時代は左足を高く上げるピッチングフォームで、189センチの長身から繰り出す150キロ超えのストレート、落差の大きいフォークボールが武器だった。
通算奪三振率は10を超える一方、二塁への送球が右中間を破る暴投になるなど、コントロールはあまり良くなかった。
また、一時期は髪を肩あたりまで伸ばしていたこともある。
2005年オフ、ポスティングでタンパベイ・デビルレイズに移籍。
2006年、移籍後初登板となったオープン戦では、わずか3球で降板。診断の結果、右肩を脱臼しており、さらに全治1年だということが判明。
2007年にデビルレイズから解雇され帰国。ポスティングを受けながらメジャーリーグでの出場がない初めての日本人選手になってしまった(メジャーリーグ傘下のマイナーリーグでの出場もなかった)。
2009年、独立リーグであるベースボール・チャレンジリーグの石川ミリオンスターズにコーチとして入団。その後、肩の調子が良くなり現役復帰できそうだということで選手兼任として登録されるも、この年の公式戦登板はなかった。
2010年、選手としては一旦引退し、監督に就任。監督としては在任した5年間すべてで前・後期のどちらかで地区優勝を果たし、さらにリーグチャンピオン3度、独立リーグチャンピオンも2度達成している。
また、非公式戦ではあるが、2012年9月には米独立リーグとの国際交流戦で登板しており、翌2013年には選手兼任監督として現役復帰することが発表された。
2014年、現役引退とともにミリオンスターズも退団。
2015年、二軍投手コーチとしてライオンズに復帰。
2017年6月25日、ヤフオクドームでの試合前に体調不良を訴え、福岡市内の病院に入院。
6月27日には病気療養のためコーチ業の休養が発表されるも、6月28日に劇症型溶連菌の感染による敗血症(当初の発表では多臓器不全、のちに壊死性筋膜炎だったことが判明)のため死去。享年42。
同年9月2日、ミリオンスターズ主催の追悼試合が行われ、試合後に彼の着けていた背番号34を永久欠番に制定したことを発表。
また、11月20日にはライオンズのコーチ時代に着けていた背番号89を準永久欠番にする方針であることが発表された。