経歴
1980年代
大府高校から1981年のドラフト1位で読売ジャイアンツに入団した。
同期入団は3位に吉村禎章、5位に村田真一がいる。背番号は54。
2年目の1983年に一軍デビューを果たすと対阪神タイガース戦で初登板初完封と早くも大器の片りんを見せる。最終的に12勝1セーブ(9敗)の成績を残し、83年の新人王を獲得した。
尚、この年と翌1984年、ストレートが当時の日本最速スピードとなる155km/hをマークしている。特に84年の155km/hは終速表示であったため「日本人で最初に160km/hをマークするのは槙原では?」と騒がれた。
巨人では同期の吉村(55番)、1学年上の駒田徳広(50番)と合わせ、「50番トリオ」と呼ばれた。3人は後に背番号を変更している。(吉村:「55」→「7」、駒田:「50」→「10」)
1985年4月17日の阪神戦(甲子園)では、三番ランディ・バース、四番掛布雅之、五番岡田彰布の3人にバックスクリーンへと連続してホームランを打たれた。これが世に言う「バックスクリーン3連発」である。
このバックスクリーン3連発と後の敬遠球サヨナラ安打のイメージから阪神に弱いというイメージがついているが、実際はその逆で阪神戦は通算38勝10敗(うち完封が10度)という阪神キラーだった。
背番号が17に変わった1987年は10勝6敗の成績でリーグ優勝に貢献。
同年の日本シリーズではチームは敗れたものの、優秀選手賞を獲得。
本拠地が東京ドームに変わった1988年はリーグ最多の4完封を記録したが、自身は10勝13敗と負け越した。
1990年代
1歳下の斎藤雅樹、1986年に入団した桑田真澄と共に三本柱と呼ばれた槙原だが、斎藤・桑田が多くの投手タイトルを獲ったのに対し、槙原はタイトルに恵まれなかった。1988年は187奪三振でリーグ最多だったが、運悪く当時は表彰されなかった。(1991年より表彰)
勝利数も1993年シーズンの13勝が自己最多記録だった。
1993年のオフにはこの年に導入されたFAを行使しようとしたが、監督の長嶋茂雄が熱心に引きとめ残留を決意。この際に長嶋は薔薇を17本(槙原の背番号に因んだもの)用意したが、実際は20本だった。3本多いのは、長嶋の現役時代の背番号に因んだものだと言われている。
1994年の5月18日に福岡ドームで行われた広島戦では、プロ野球史上15人目となる完全試合を達成。
この完全試合は、ドーム球場初・平成時代初・20世紀最後という記録が付いている(※平成時代での完全試合達成者は槙原のみとなったため、「平成時代唯一の完全試合達成者」となった)。当然槙原本人も思い出に残る試合にこの完全試合を挙げている。
西武と戦った同年の日本シリーズでは2勝を挙げて日本シリーズMVPを獲得し、充実したシーズンとなった。
なお、斎藤も桑田も完全試合・ノーヒットノーラン・日本シリーズMVPは達成していない。
1998年からは抑えに転向するも、同年驚異的な成績を残した佐々木主浩(横浜)には及ばなかった。
また、1999年6月12日には、新庄剛志に敬遠球を打たれてサヨナラ負けを喫した。
その後は肩を故障し、2001年に斎藤・村田と共に現役引退。また、長嶋監督も退任した。
通算成績は159勝128敗56セーブ。113完投35完封2111奪三振。
引退後は野球解説者として活動中。
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佐々木朗希 28年後に完全試合を達成した投手。