現役時代は巨人のV9を支えた名捕手。複数の球団コーチを歴任を経て、1986年から西武の監督。1994年の引退までの間リーグ優勝8回、日本一6回の西武黄金期を打ち立てた。
概要
本名「森昌彦」。
大阪府豊中市で生まれたが、戦時中に岐阜県岐阜市へ疎開、以後過ごすことに。
県立岐阜高等学校時代に第36回全国高等学校野球選手権大会出場。(準優勝だった1949年以来5年ぶり3回目、この時は1回戦で敗退。)
東京大学も狙える頭脳を持っていた(学校は今も岐阜で上位の進学校である。)が家庭の事情で断念、1955年に読売ジャイアンツへ入団。国松彰(後に一軍打撃コーチ、二軍監督、ヘッドコーチを務めた)と馬場正平(後のジャイアント馬場)らが同期だった。
現役時代はV9時代の正捕手として活躍し、配球の緻密さや記憶力の高さなどから「V9の頭脳」の異名で呼ばれた。その間に当時、南海ホークスの捕手であった野村克也と知り合う。野村とは現役~監督時代を通して所属が重なることはなかったが、徹夜で野球のことを語り合うなど盟友的な関係となった。現役時代の日本シリーズではそのリードから、MVPに選ばれた事もある。また、野村が行っていたささやき戦術もまた、森は使っていた捕手の一人でもあった。
1974年に現役を引退後は野球解説者の期間を挟みながら、ジャイアンツの先輩であった広岡達朗と行動を共にし、ヤクルトスワローズと西武ライオンズのコーチを歴任。その間、広岡の管理野球を支える立場にあった。ここにはジャイアンツ引退後、就任する予定だった長嶋茂雄との不仲があったとされている。
1984年中に広岡との仲が悪くなり、コーチを辞任。一度解説者に戻るが、1986年に広岡の後任の監督として西武に再び所属することとなった(その頃に登録名および芸名を現在の「森祇晶」に改名)。それ以降は1994年までにリーグ優勝8回、日本一6回の西武黄金時代を打ち立てた。
なお、2001年に横浜ベイスターズの監督となったが2002年に最下位となり辞任。チームも暗黒時代に突入したため横浜森監督時代はファン・球団・本人ともに黒歴史な模様。
現在はアメリカ合衆国の永住権を取得、2003年からハワイに移住。
2022年、妻の出身地である福岡県に移住した。翌年には母校に数十年ぶりに訪れている。
実兄・森和彦も岐阜高等学校から1950年に阪急ブレーブスに入団。
1949年の夏の甲子園では準優勝したが、プロでは一軍公式戦に出場する事は出来ぬまま、1952年限りで引退。
引退後は松下電器産業(現・パナソニック)を1992年の定年退職まで勤め、その後ウィーンに半年間移住した後、趣味のクラシック音楽鑑賞が縁で、「音楽企画ドルチェ」に入社しチーフプロデューサーとして1998年まで勤務した。
評価
日本のプロ野球の歴史に残る名将・名捕手であったということは疑いようのない事実であり、森を凌駕する実績を挙げたのは、師匠である川上哲治(リーグ優勝、日本一はV9含めて11回)くらいである近年の名将とされる落合博満、野村克也でも日本一連覇の実績がないので、森・川上の前には霞むと言えよう。
選手・コーチ・監督時代で出場した日本シリーズには1961年から1992年まで敗退経験はなく、その間の日本一になった回数は何と20回を数えた。
しかし、必ずしも森は賞賛ばかりの人間では無い事もまた事実である。
現役時代に試合では、投手が打たれてもサインを出した自分の責任を認めず、投手の欠点や投球ミスを首脳陣に報告したので、投手陣の不満は多かった。また長嶋は森の事を終生毛嫌いしており、あれだけ優れた実績を残した森を一度たりともコーチとして招聘しなかったことからも明らかだった。
コーチ時代の森CIAやKGBとまで言われた嫌われっぷりから、かつてコンビを広岡達朗からも批判されることが多く、「巨人の監督は長嶋や王のように華のある人がやらなければならない。」とまで言われたほどだった(当人もコーチ時代はこんなことやりたくないと思っていた様子)。
また、監督になってからのその勝ちっぷりから人気があったとは到底言えず、当時の西武堤オーナーからも3年連続日本一になった後の3位になった89年には「やりたければどうぞ」と吐き捨てるように言われた事なども挙げられる。
こうした点については広岡からの「知識はあるし選手を見る目も確かだったが、森の欠点は指導することができなかったことだ」という部分からもあるように選手の運用には長けていたが、選手育成には向いていなかったという点については否定出来ないだろう。実際1994年を最後に西武は97年までリーグ優勝から遠ざかるが、その間に主力の衰えや流出などから若手育成にシフトする事となる。
恩師の川上からも「意の広岡(達朗)、知の森(祇晶)、情の藤田(元司)」と分類しており、森に対しては「ある程度できあがっているチームには森のような監督の知力を使えば常勝チームになる」と評価している。これらは広岡の分析とも合致しているといえよう。そのため完全に世代交代などが急務になっていて、西武での野球が忘れられなかった2001年の横浜のチーム状況ではそもそも西武での大成功を収める下地が出来ていなかったとも考えられるだろう。
2016年に逮捕された清原和博は高卒1年目から出て来て活躍を見せていたが、当時打撃コーチを務めていた土井正博によれば「清原を二軍スタートさせようと言い張ったのは森さん自身。ところが堤義明オーナーのバックアップがあると知ったら、ガラリと態度を変えて、自分が我慢して使ったと言う。毀誉褒貶の激しい人だった」としており、森の甘やかしから清原が増長するきっかけを作ってしまったと非難する意見が噴出した事もあった(当の本人は森を恩師と感じている様子)。
フィクション作品において
V9時代の正捕手とあって、巨人の星や侍ジャイアンツで登場するが、両作品では扱いが大きく異なり、巨人の星では正捕手の座を伴にほとんど譲らず、結果、一軍公式戦で星が投げる大リーグボールをほとんど受けた捕手(伴は2号初試合で森の負傷で、途中交替で公式戦初出場)となっており、ほとんど大リーグボールを苦もなく受けていた。一方の侍ジャイアンツでは番場蛮の魔球が取れずに八幡に試合出場を許し、魔球を受けるべく特訓する姿もあった。
関連タグ
伊東勤 西武黄金時代の正捕手で森の愛弟子。野村克也にもヤクルト監督時には古田敦也という愛弟子が存在しており、92年の日本シリーズは古田対伊東の対決とも言えた。元・千葉ロッテマリーンズ監督・中日ドラゴンズヘッドコーチ。
清原和博 監督一年目で入団した当時黄金ルーキーと言われた選手。当初は打てずにいたが、森が我慢強く使い続け、ルーキー年で31本塁打を放ち、その後も西武の4番として活躍
秋山幸二 清原・デストラーデとのクリーンアップAKD砲は脅威と言えた。身体能力の高さでも知られ、日本シリーズでのバク転パフォーマンスは有名。元・福岡ソフトバンクホークス監督
工藤公康 晩年は「ハマのおじさん」で知られたが、森監督当時は「新人類」と呼ばれ「いまどきの若いものは・・・」の代名詞的存在ともなった。前・福岡ソフトバンクホークス監督
渡辺久信 元祖トレンディエース・・・だった人。工藤と共に、隔年エース(実際そこまでではないのだが)と知られ、毎年どちらかが活躍することが通例というイメージが付きまとった。元・埼玉西武ライオンズ監督。
辻発彦 西武黄金時代の二塁手。1996年にヤクルトスワローズに移籍、引退後ヤクルト・横浜・中日ドラゴンズでコーチを務め、2002年には森監督の元でコーチもした。2017年から2022年まで埼玉西武の監督。