概要
宮城県出身。東北高、東北福祉大を経て1991年ドラフト1位で横浜大洋ホエールズに入団。同期入団に三浦大輔らがいる。
1993年から先発ローテーションに食い込み、1996年には最多奪三振のタイトルを獲得。佐々木主浩のメジャー移籍もあり2001年・2002年には抑えを務める。
2005年に自由契約となり、メジャーリーグへ移籍。直近の成績があまり芳しくなかったことからなかなか契約がまとまらなかったが、2006年2月7日にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約。最初はAAAからのスタートだったが、それまでクローザーだったエリック・ガニエが故障離脱したことによりメジャー昇格。セットアッパーからクローザーに上り詰め、以降クローザーとしてメジャーで活躍した。
2007年には伊良部秀輝、五十嵐亮太、山口和男を抜いて日本人メジャー最速となる99mph(約159km/h)をマークした。
2009年はボストン・レッドソックス、2010年はアトランタ・ブレーブス、2011年はミルウォーキー・ブルワーズでプレーした。
2012年はアリゾナ・ダイヤモンドバックスに所属するも、ケガで精彩を欠いた。
この年のオフに東北楽天ゴールデンイーグルスと契約、入団。2005年以来の日本球界復帰となった。同年の日本シリーズでも登板。15年のブランクを経て出場、横浜と楽天の2球団で投げて日本一、といういろいろ珍しいことになった。2015年に引退。
楽天時代は40歳を超えてなおストレートが150km/h以上を記録したこともあり、投手陣の中でスピードはトップクラスであった。また楽天の救援陣が頼りない(防御率3点台の青山浩二や小山伸一郎が相変わらず主戦級)中、一番頼りになる存在であった。というより、青山や小山の方が先に引退しそうとさえ言われていた(小山は同じく2015年に引退)。
後年ではアメリカ球界で抑えに専念してから突然覚醒したことを指して「プロ入り当初から抑えに専念していればもっと活躍したのでは?」とその潜在能力を惜しまれることも多かった。先発完投型投手を要求する風潮が抜けきっていなかったアメリカ球界挑戦前の時代背景と当時の大洋(横浜)の台所事情から開花が遅れた一例と言える。にもかかわらず先発起用の1996年シーズンに最多奪三振のタイトルを獲得したのは流石としか言いようがない。
引退後は解説者となる一方でサンディエゴ・パドレスで球団運営を学ぶなどした。
2020年には東京ヤクルトスワローズで投手コーチを務めたが1年で退団。
2022年には古巣・横浜DeNAのコーチに就任する。
フィクションでの扱い
前述の佐々木主浩は高校・大学・プロ野球の先輩(2学年上)であり、4コマ漫画『ササキ様に願いを』では終始パシリ役としてチェリオ(時にはマックスコーヒーやタブクリア)などを買わされに行っていた。なお実際にはそこまでの扱いではなく、むしろ「佐々木が面倒を見ている立場」といった方が近いらしい。