概要
経歴
1968年(昭和43年)11月26日生まれ。徳島県鳴門市出身。
現役時代は西武ライオンズに所属し、「魔球」と称されたシンカーを駆使した投球術で西武の黄金期を支えた。ソウルオリンピック野球の銀メダリスト。
県立鳴門高校時代は甲子園への出場経験が無く、卒業後は松下電器(現・Panasonic)に入社し同社野球部に所属。同年に開催されたソウルオリンピックで日本代表入りを果たした。なおこの時の代表選手には後に西武で同僚となる石井丈裕や日本人メジャーリーガーのパイオニア野茂英雄がおり、彼らと共に先発ローテーションを構成している。またバッテリーを組んだキャッチャーとして古田敦也がいた。
1989年(平成元年)にドラフト1位で西武ライオンズに入団。
1990年(平成2年)には鹿取義隆とともにダブルストッパーを務め、主にセットアッパーとして鹿取の最多セーブ投手獲得を支えた。
1992年(平成4年)はシンカーのキレが今ひとつだったが、初の二桁セーブを挙げた。
1993年(平成5年)にはキャリアハイとなる53試合登板、防御率1.18の成績を残している。
1994年(平成6年)は2年連続で50試合に登板し、防御率2.39と安定した成績を残している。
1995年(平成7年)はオールスターゲームに初選出を果たし、防御率が2年振りに1点台(1.92)を記録し、奪三振率も9.73と高かった。
1998年(平成10年)は西口文也に次ぐ先発2番手として期待されたが、前年を下回る7勝に終わったが後半戦中継ぎに回りリーグ優勝に貢献した。
2000年(平成12年)4月30日の西武ドームでの対千葉ロッテマリーンズ戦で1000投球回を達成。
2004年(平成16年)9月上旬に球団から引退を打診され、9月21日の西武ドームでのロッテ戦を最後に現役を引退した。
引退後は主に編成や指導者として活躍し、2005年(平成17年)にはライオンズジュニアチーム監督、2007年(平成19年)〜2010年(平成22年)にグッドウィル(西武2軍)及び埼玉西武ライオンズへの改称後は1軍コーチを務め、一度編成部門を担当した後2013年(平成25年)〜2018年(平成30年)に2軍監督及びコーチを担当。2019年(平成31年)からは松井稼頭央の2軍監督就任に伴い再びフロント入りし、編成ディレクターに就任した。
背番号
背番号 | 使用年 | 所属チーム | 備考 |
---|---|---|---|
16 | 1990年〜2004年 | 西武ライオンズ | 選手 |
86 | 2007年 | グッドウィル | 投手コーチ |
86 | 2008年〜2009年 | 埼玉西武ライオンズ | 1軍投手コーチ(ブルペン) |
86 | 2010年 | 埼玉西武ライオンズ | 1軍投手コーチ(ベンチ) |
86 | 2013年〜2015年 | 埼玉西武ライオンズ | 2軍監督 |
86 | 2016年 | 埼玉西武ライオンズ | 1軍ヘッド兼投手コーチ |
87 | 2017年〜2018年 | 埼玉西武ライオンズ | 2軍監督 |
エピソード
シンカー
潮崎の代名詞である「シンカー」は前述の通り「魔球」と称されている。1999年(平成11年)には「高速シンカー」も習得した。
他球団のみならず西武の選手達からも「真似出来ない」「打てない」と言われている。
なお潮崎はシンカーの原点を水島新司の野球漫画の代表作『ドカベン』で里中智が決め球として使う「さとるボール」であると語っている。
高津臣吾
潮崎在籍時の西武は黄金期であったが、セ・リーグではヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)が黄金期を迎えていた。
当時ヤクルトの若手投手だった高津臣吾は決め球を持っておらず野村克也監督から決め球を習得する事、日本シリーズで西武とヤクルトが対戦した後には潮崎のシンカーを習得する事を命じられた。高津は野村監督の期待に応えてシンカーを独学で習得。以後これを決め球とし、ヤクルトの守護神として君臨した。
古田敦也
その高津と現役時代にバッテリーを組み、高津のヤクルト1軍監督就任後毎年臨時コーチとして春季キャンプに参加する古田だが、ソウルオリンピックでは日本代表キャッチャーとして潮崎ともバッテリーを組んでいた。古田も潮崎のシンカーが強く印象に残っていたようで、現在でも変化球関連の話題で潮崎の名を挙げる事がしばしばあり、自身のYouTubeチャンネル『フルタの方程式』にゲストとして呼んだ事もある。
また2023年(令和6年)にアリゾナ・ダイヤモンドバックスのトーリ・ロブロ監督(2000年にヤクルト在籍)の要請で臨時コーチを務めた際、変化球のキレが今ひとつだった投手達にアドバイスの為潮崎のシンカーの映像を見せたところ、現役メジャーリーガー達が驚きを隠せなかった様子が『フルタの方程式』で公開されている。古田は「潮崎のシンカーには皆喰いつく」と語り手応えを感じていた。