概要
大正時代を代表する小説家の一人・芥川龍之介の業績を記念して、友人であった菊池寛が1935年に直木三十五賞(直木賞)とともに創設し以降年2回発表される。
宣伝目的と批判されることが多いが、菊池自身が「当然、宣伝を兼ねてます」と初っ端から批判者の出鼻を挫いていたりする。
とはいえ、既に知名度を得ていた川端康成、三島由紀夫、坂口安吾などの大御所を選考基準から外す方針があったため、当初はまるで注目されず、戦後まもなくに受賞した安部公房や遠藤周作に至っても、受賞時は全く注目されなかったと振り返っている(世間で売れ始めたのは後の代表作からである。そのため文学史では著者によって扱いが分かれている)。
転機が1955年の石原慎太郎「太陽の季節」であり、一気に同賞がマスコミに採り上げられ、世間に注目を浴びるようになった。また、その前後に井上靖、遠藤周作、安部公房、堀田善衛、安岡章太郎、吉行淳之介、小島信夫、庄野潤三、開高健、大江健三郎、北杜夫らが相次いで受賞し、日本文学界の担い手となったため、小説家の梁山泊となった時期があった。
中でも1957年下半期の開高健と大江健三郎の一騎打ちはよく語り草になっている。それで、ほぼ特例の形で大江は次回も選考対象となり、次回に圧倒的得票で大江が芥川賞受賞となった。
意外な受賞者として、まだ純文学作家だった松本清張などがいる。
なお、複数回受賞は出来ず、また、一度受賞したら直木賞の候補からも除外される。
該当者なしの年もあれば同年度に二人受賞した例も何度かある。
太宰治が受賞を切願したが、遂にとれなかった賞でもある(意外だが、太宰は一切の文学賞受賞作がない)。他に意外にも受賞歴がない作家として村上春樹(2回候補には上がったらしい)も挙げられるが、これは同氏が早い段階で海外に視野が向いて長編小説メインになったためである。
また井伏鱒二、伊藤桂一等純文学の作家として名をなしていた作家が直木賞受賞、逆に松本清張や宇能鴻一郎等の様に大衆文学のつもりで描いた作品が芥川賞を受賞する例も起きた。
第119回(1998年上半期)受賞作「ゲルマニウムの夜」で大衆文学の作家とみなされた花村萬月(1289年デビュー)が受賞したのをきっかけに選考基準を見直す結果になった。
(ちなみに「ゲルマニウムの夜」は「王国記」シリーズとしてシリーズ化された。)
また1950年代までは柴田錬三郎「デスマスク」(第25回・1951年上半期)、北川荘平「水の壁」(第39回・1958年上半期)など芥川賞と直木賞の両方で候補に挙がった作品もあった。
主な受賞者一覧
※作品は受賞作(太字)及び代表作。
火野葦平:「糞尿譚」「麦と兵隊」
安部公房:「壁 S・カルマ氏の犯罪」「砂の女」「箱男」
堀田善衛;「広場の孤独」「ゴヤ」「方丈記私記」
松本清張:「或る『小倉日記』伝」「砂の器」「天城越え」
安岡章太郎:「悪い人」「海辺の光景」「幕が下りてから」
遠藤周作:「白い人」「沈黙」「海と毒薬」「深い河」
小島信夫:「アメリカン・スクール」 「抱擁家族」「美濃」
庄野潤三:「プールサイド小景」 「夕べの雲」 「絵合せ」
大江健三郎:「飼育」※2.「死者の奢り」「万延元年のフットボール」
北杜夫:「夜と霧の隅で」「楡家の人びと」「どくとるマンボウ航海記」※3.
三浦哲郎:「忍ぶ川」「繭子ひとり」
田辺聖子:「感傷旅行 センチメンタル・ジャーニィ」
村上龍:「限りなく透明に近いブルー」「コインロッカー・ベイビーズ」「イン・ザ・ミソスープ」
池田満寿夫:「エーゲ海に捧ぐ」
高橋三千綱:「九月の空」※4.
尾辻克彦(赤瀬川原平):「父が消えた」
吉行理恵:「小さな貴婦人」※1.
唐十郎:「佐川君からの手紙」※5.
池澤夏樹:「スティル・ライフ」※6.
川上弘美:「蛇を踏む」
辻仁成:「海峡の光」※5.
花村萬月:「ゲルマニウムの夜」
町田康:「きれぎれ」※5.
吉田修一:「パーク・ライフ」
金原ひとみ:「蛇にピアス」
西村賢太:「苦役列車」
黒田夏子:「abさんご」(最年長受賞)
※1.吉行淳之介・吉行理恵は兄妹で吉行エイスケ・あぐり夫妻の子供。
※2.大江健三郎は1994年ノーベル文学賞受賞。しかも今では芥川賞を取れなかった『死者の奢り』の方が評価が高かったりする。
※3.北杜夫は父は歌人の斎藤茂吉、兄は随筆家の斎藤茂太。三人とも精神科医であった。また、既にどくとるマンボウ航海記で時の人となっていた北杜夫が、小説においては新人という扱いで受賞している(本人のエッセイによると、二十代から小説投稿は行っていたが全く名が売れていなかったとのこと)
※4.高橋三千綱は漫画原作者としてかざま鋭二、内山まもるらに提供。
※5.芸能人の受賞者。唐十郎は俳優、辻仁成・町田康はともにミュージシャン、又吉直樹はお笑い芸人。