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曖昧さ回避編集

  1. 実在した歌人
  2. 文豪とアルケミスト』に登場するキャラクター →斎藤茂吉(文豪とアルケミスト)

概要編集

斎藤茂吉とは、歌人であり精神科医。

1882年5月14日 山形県生まれ

農家の三男に生まれるが、14歳の時、東京の開業医 斎藤紀一の養子になるため上京、斎藤家で厄介となる。医学を学ぶため進学。1910年東京帝国大学医科大学卒業。31歳で紀一の娘 輝子と結婚。斎藤家の婿養子になる。ただ性格や価値観の違いから夫婦仲は良くなかった。

歌人としては、

1906年 伊藤左千夫の門下となる

1913年 第一歌集『赤光』刊行

1921年 歌集『あらたま』刊行

歌だけではなく、柿本人麿の研究も行った。

1951年 文化勲章を受章。1953年2月25日死去


エピソード編集

歌人として成功し、そのファン達からは生前から神格視に等しい熱烈な崇拝を受けた人物だったが、後年文筆家になった息子達(長男の精神科医・茂太と次男の宗吉=北杜夫)や弟子達によってそのあまりにも人間臭すぎる実像が様々明かされている。


外面はいいが内面はとてつもない癇癪持ちで、些細なことですぐに大爆発した。ある時病院回診を終えて車へ乗り込む際に「先生、今日はノーネクタイですか?」と言われ、「院長がネクタイを締めていないのを誰も注意しないのは何事か!!」とあたり構わず雷を落としまくった(ネクタイをうっかり忘れていたのは茂吉本人である)。


かなりの食いしん坊で、(贅沢はしないが量については)ひどく吝嗇だった。戦時中の疎開先で料理を振舞われた際「隣の者の皿の方が大きいから代えてくれ」と言い出し、代えられるとまたしげしげと見比べて「やっぱりさっきの方が大きい」と駄々をこね、結局元通りになった。

また食料品の貰い物は「俺専用だ」として、他の家人には決して食べさせなかった(孫と飼い猫を除く)。「茂吉に食べてもらうために送ってくれるものを他の者が食べては申し訳ない」というのが理由、ならぬ屁理屈。


昆虫学者や文学者志望だった次男の宗吉を強硬に医学の道へと進ませ、医学部進学後も成績が悪かったり授業をサボリがちなのを口うるさく手紙等で説教していた。しかし長男茂太の著書には「(茂吉は)あまりかんばしからぬ成績(卒業試験順位が132人中131番)で大学をどうやら卒業し」「医学には不熱心だが歌作には反対にきわめて熱心」だったとある。この親にしてこの子あり。

若い頃は「尻の穴から煙を吐く」程の大の煙草好きで、病院内で吸うと師の先生に怒られるので便所の中で隠れて吸っていた。後年自分がそれを止めてから、息子達が父親に隠れてこっそり煙草を吸うのを臭い等で敏感に察知し、烈火の如く怒っていた。やはり因果は繰り返される、のか。


バチカンに行った際、ミケランジェロの天井壁画を観るためサン・ピエトロ寺院の床に寝転び、係員に注意されたことがある。またエジプトピラミッド見物をした際には乗ったラクダが後ろ足から起き上がる動物だということを知らず、同行日本人の中でただ一人その背中から転げ落ちた。


主な作品編集

歌集『赤光』

「みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる」

「死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」

「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて垂乳根の母は死にたまふなり」


関連タグ編集

歌人 短歌

北杜夫...次男

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