北杜夫
きたもりお
北杜夫(きたもりお)は日本の小説家。戦後を代表する小説家の一人で、エッセー『どくとるマンボウ航海記』で一斉を風靡するようになる。他の代表作に『楡家の人びと』など。
本名は斎藤宗吉(さいとうそうきち)で、歌人として名高い医者、斎藤茂吉の二男。だが、親の七光りと思われることを嫌い、素性はずっと隠していた。北杜夫のペンネームは文芸に目覚めたときに当時、北の大都市(その頃、札幌はまだまだ田舎)といわれた杜の都仙台にいたことと、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』(トニオ・クレーガーの独語読み)のトニオをもじり、北杜二夫(きたとにお)としたが、日本人らしくないので北杜夫とした。それから、色々ペンネームを変えて小説を投稿しようとしていた際に北杜夫で売れたので、出版社からその名前のままにしてくれと要請されたため北杜夫で落ち着いた。
東京、南青山の生まれ。斎藤家は父・茂吉をはじめとして医者一家であり、彼も幼少時は天才児として知られた一方で文学には全く興味を抱かなかった。文学に興味を持ち始めたのは中学からだが、当時はむしろ昆虫博士になることを夢見ていた。戦時中は旧制松本高等学校で寮生活を送り、生涯の友辻邦生にフランス文学を独逸語の先生(後の翻訳家)望月市恵からドイツ文学の薫陶を受ける。また、折を見て北アルプスに登り高山植物や動物などの自然と向き合い内省に耽る。結局、父・茂吉の意思で医師以外の道を進むことを許されず、東北大学の医学部に進学し、戦後しばらく仙台で暮らす。後に慶應大学病院のインターン生を経て精神科医となり、甲府にも1年勤務。また、この頃からトーマス・マン(『トニオ・クレーガー』に影響。他に魔の山が有名)に影響され本格的に文学に興味を持ったが、投稿しても全くの鳴かず飛ばずであり、売れない三流作家として親と一緒に暮らす居候の日々が続いた。その頃芥川賞の候補にも2回選出されたものの、「無駄な努力」だとか「論外」だとか散々な評価だった。
外国、特にマンの祖国ドイツへ行きたい一心(当時はまだ海外旅行自由化前)で水産庁のマグロ調査船、照洋丸に船医として乗り組んだことで人生に転機が訪れる。航海を経て帰国後に十二指腸潰瘍を患ってしまい、その際に半ば気分紛らわせで面白おかしく記録を書き綴った『どくとるマンボウ航海記』が1958年に出版されると記録的なヒットを遂げ、一躍時の人となる。その印税は当時として増刷するたびに100万円(今なら2000万ぐらい)に上り、その印税だけで都内の一軒家を買ったほどであった。結婚もして生活に余裕が出ると小説家としてコツも掴み、脂も乗り始めて「谿間にて」で評価を得てくると、1960年には『夜と霧の隅で』で審査員全員が推薦(10名中8名が高評価)という前代未聞の評価で芥川賞受賞。1963年には代表作、『楡家の人びと』を発表すると三島由紀夫に大絶賛され、小説家として一躍その地位を築いた(ただし、どくとるマンボウのせいで、医者としての信頼性を失ってしまい、医科の道は難航したと後の短編に書かれている。それも小説家の道を進むようになったきっかけである)。
しかし、三島由紀夫の自刃事件がきっかけで自分自身が躁鬱病(双極性障害)を発症。70年代には突然喜劇映画を作りたいと言って、無謀な株価投資が祟り1億ともいわれる巨額の借金を抱えてしまった。その後、女性週刊誌の仕事も受けたりして、借金はなんとか完済。
日本文学界での貢献者として評価もされ、1996年には日本芸術院会員となる。2004年からは日経新聞にて『私の履歴書』という自伝の上梓を始めた。だが、2012年にインフルエンザ予防接種がきっかけで体調が悪化、気道閉塞で死去してしまうという、医学に若き人生を翻弄され、医学で財を成し、最後には医学に命を奪われるという、なんとも数奇な生涯となった。
大江健三郎、開高健らと並ぶ戦後を代表する小説家として名高く、近現代日本文学史の書籍にもその名を出すことが多い。また、かなり作風が幅広く、濃密な純文学から読み心地の軽いエッセー、更には児童文学やSFまでなんでも書きこなした。多芸、多趣味であり、生業の医学的知識はもちろんのこと、ドイツ語も堪能でドイツ文化も知識も豊富。登山(アルピニストとしてヒマラヤ登山経験もあり)、乗馬も盛んに作品に登場する。また、幼少時から熱烈な昆虫マニアであり、昆虫に対する知識は同氏の小説のあちこちで垣間見ることができる。大の漫画好きでもあり、小学館漫画賞の審査員もしていたほか、大の阪神タイガースファンとしても知られていた。
また、自らを『マンボウ・マブゼ共和国』の国家元首を自称していた。
前述したように自身が精神科医であると同時に、立派な双極性障害(当時の名称は躁うつ病)患者だった。この病気のことを世間一般に広く認知させた人物、といってもいい。躁期とそれ以外の時期で書く随筆の文章や内容がひと目見て明らかに違う、のが特徴。
躁期のハチャメチャ言動は(自ら著作で赤裸々にぶっちゃけるから)有名で、先述のエピソード「無謀な株取引で破産」や「マンボウ・マブゼ共和国独立」などはその病気の結果だと言える。
(「マブゼ」はフリッツ・ラング監督のドイツ映画に登場する狂人を装って悪事を働く犯罪者博士のことで、躁病中の北は自らをどくとるマブゼと称し、悦に入っていた)
当然のことながら人間関係にも影響し、ある時三島由紀夫に「躁期で筆が滑りまして‥‥」と言い訳したところ、相手が大の弁解嫌いな性格だったこともあって「文学に躁も鬱もない!」と激怒されたことがある。しかし当人はその後躁病がますます悪化し、三島宅に電話をかけて「文学と躁うつ病は大いに関係がある。今度言い合ったら負けない!!」と、本人が不在だったので電話に出た夫人に当たり散らしたりもした。また当時の文壇の大御所だった川端康成に対しても「躁期でいささか常軌を外した」状態で失礼な内容の手紙を送り、一時期機嫌を損ねさせていたことがある。
その一方でうつ期は全く生気がなくなり、終日自室ベッドでゴロゴロして原稿も殆ど書けなくなるため、本人としては弊害は多々あれど活力気力がみなぎる躁病をできれば治したくない、躁期がくるのを今か今かと待ち望んでいた節すらある。‥‥確信犯? であろうか。
北自身、この持病を公表した理由を「精神病患者に対する世間の誤解を無くしたかった」としている。これについてはプラスの効果(医者が病名を告げる際「北杜夫さんと同じ病気」と説明することで、患者の不安を和らげる)があった一方、年少読者からのファンレターに「『あんな奴の本なんか読むとお前まで〇〇〇〇になるぞ』と友人に言われた」と書いてあったのを読んで悲しくなったこともあったという。
躁病期以外の普通の精神状態では本人曰く「かなり人見知りをする性格」で、対人関係でもあまり積極的に出られず、失敗をくよくよ悩む小心者だったという。ただし若い頃から大の酒好きで、酔っぱらうと病気とは関係なく(ひどい癇癪持ちだった父親の血を受け継いだのか)暴言を多発するなどの問題行動はしょっちゅう起こしていた。北と初めて会った時の三島が「才能があろうがなかろうが、あんな無礼な奴は俺は絶対に認めん!」と声を荒げる程に。
実体験に基づいた小説が多い(そのため小説のネタバレを随筆でされてしまうことも多いので、注意が必要?)。
- どくとるマンボウシリーズ(エッセイ風の自叙伝。特に『どくとるマンボウ航海記』、『どくとるマンボウ青春記』は大ベストセラーとなった。ほかにも『マンボウ氏の暴言とたわ言』『マンボウ酔族館』など。)
- 楡家の人びと 医者一家のホームドラマ的長編文学作品で、戦前戦後に栄枯盛衰を辿った斎藤一家がモデル。三島由紀夫が大絶賛していたことでも知られ、北の名を一躍高めた。
- 夜と霧の隅で 芥川賞受賞作品。ナチスドイツ時代に行われていた精神科医療(あのロボトミーにも触れている)を採り上げている。精神科医の視点から優生学、優生保護法から始まりジェノサイドに至る事実を淡々と描く。
- 幽霊―或る幼年と青春の物語―
- 輝ける碧き空の下で ブラジル移民のエピソード
- 白きたおやかな峰 ヒマラヤ登山経験(北は医者として日本の登山隊に同行)をモチーフにした私小説。タイトルは語法としては不自然(形容動詞+な、は日本語としてありえないと三島が指摘、北はそれを知っていて採用した)であり、それが元で三島由紀夫と口論になり、一時は不仲説が囁かれた。
- さびしい王様 子供向け文学を装った大人向け小説。
- 人工の星 第五福竜丸事件に想を得た初期の“未来小説”。芥川賞候補にもなったが「完全に無視された」。当時この作品のことを知らなかった星新一が後に読み、絶賛したことで有名。
- 怪盗ジバコ ややオリジナル的なユーモアスリラーで、続編も作られた。また本作は東宝+渡辺プロダクションの提携合作でクレージーキャッツのチーム主演で『クレージーの怪盗ジバコ』として映画化され、東映アニメーションでも『どくとるマンボウ&怪盗ジバコ 宇宙より愛をこめて』として単発コラボアニメも製作された。
など