堀田善衛(ほったよしえ)とは日本の小説家。富山県高岡市出身。伏古港にあった廻船問屋の御曹司でもあり、親戚も有名人物が多い。史実に即した現代小説を書くことを得意とした。
概要
慶應大学法学部に所属した頃から詩文に目覚め、雑誌を中心に名が売れる。また、語学で才を花開かせたため戦時中には上海で資料室に赴任。戦後引揚げ船によって日本に戻り、大学や現地で培われた翻訳業を中心に生計を立てていた。1951年には『広場の孤独』にて芥川賞を受賞。当時はそこまで芥川賞が評価されていなかったため、大きく名が売れたわけではなかったが、『奇妙な青春』『海鳴りの底から』あたりから名が売れ始める。
舞台を世界に移し、政治活動を伴いながらも日本文学を世界に広め、また世界の文学を日本に広める運動を盛んに行い、サルトルなどとも交流する国際文化人であった。1977年には代表作『ゴヤ』を発表。1998年に脳梗塞によって死去。享年80。
有名になった理由
日本では知る人ぞ知る作家なのだが、業界には彼のファンがかなり多い。過去の史実を見つめ直し、それを現代に投影することに長けていたからで、国際化が進んでいく中、日本の役割は何なんだろうと思い悩んだ若者が、右翼でも左翼でもない彼の生き様、人生観に共感するようになっていった。
中でも、堀田が国内で有名人になった理由は、彼を絶大に尊敬していた人物に宮崎駿が挙げられるからに他ならなく、戦後、焦土と化した日本を見て悄然としていた中、同氏の『広場の孤独』に目を通し「心の芯」と感じるようになり、自分が思い悩んだときはいつも人生の羅針盤となっていたと語っている。また、同氏の作品を読んでいなければラテン文化にそこまで目は向かなく、風の谷のナウシカや天空の城ラピュタの発想はなかったと言い切っている(もっとも、江戸川乱歩など他にも影響を受けた好きな作家は多いが、一番影響を受けた作家は堀田善衛だと毎度のように断言している)。ナウシカの映像化も一度堀田の面談を受けてから、アドバイスも受けて自信を得たのだという。また、鈴木敏夫と意気投合したのも同じ堀田善衛ファンだったことも多少関係している。鈴木は堀田に面会したことがあり、期待通りの人格者だったので尚更心酔したという。そして、幾度となくサプライズで、宮崎が世間に大きく名が売れる以前、本人への激励メッセージ寄稿をお願いしたりしていた。
ちなみに、宮崎駿は同氏の『方丈記私記』をどうやっても映像化したかったらしく、神奈川近代文学館には描き下ろし絵コンテまで展示された。そして、その一部シーンが『君たちはどう生きるか』でオマージュとして再現されているのでは?という感想を視聴者に与えている。
主な作品
- 広場の孤独 …芥川賞受賞作品。また『漢奸』も候補作の筆頭となった。
- 海鳴りの底から …天草の乱をモチーフにした歴史小説。堀田が評価され始めた最初の作品。
- ゴヤ …スペイン滞在中に描いた大作で、堀田の代表作の一つ。大佛次郎賞、ロータス賞受賞。
- 方丈記私記 …戦時中の混沌を方丈記になぞらえた作品。毎日出版文化賞受賞。
など。また映画モスラの原作となった『発光妖精とモスラ』を中村真一郎、福永武彦と共同で著しており、主人公の少年は堀田をモデルにしていることから、王蟲のモデルはモスラ説がまことしやかに出ている。