もしかして
概要
直木三十五(1891-1934)とは主に大正末期から昭和初期に活躍した日本の小説家及び評論家である。大阪府出身。本名:植村宗一。「合戦」や「南国太平記」など数多くの時代小説を残しており歴史小説家として知られている。それ以外にも時局小説、現代小説や、大衆文芸を中心とした文芸評論や随筆なども数多く残している。また、あまり知られていないが「聯合映畫藝術家協會」を結成して無声映画の制作にも主に脚本として積極的に携わっておりそのうち「一寸法師」という作品で監督をしている。なお、没後の翌年に友人の菊池寛により『直木三十五賞』(通称:直木賞)が設置された。
略歴
1891年、古物商であった父・植村惣八、母・静(しづ)の長男として生誕。
1911年、早稲田大学入学に伴い上京。その後学費が払えず除籍処分になる。
1916年、同棲相手であったと仏子須磨子の間に長女(木の実)が誕生。
1918年、トルストイ全集刊行会(のち春秋社)を創設。
1919年、雑誌『主潮』を発行。また、鷲尾雨工とともに冬夏社を興すが、半年で倒産。
1923年、関東大震災後、帰阪して、プラトン社に入社する。川口松太郎と二人で『苦楽』誌の編集を担当。この頃から大衆小説を書き始める。映画の世界にも関心が深く、マキノ省三と共同で映画製作も手掛ける。
1929年、『週刊朝日』に連載した「由比根元大殺記」を連載開始。
1930年、『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に連載した『南国太平記』などで、大衆流行作家として地位を確立。
1934年、結核性脳膜炎で東大病院にて没。享年43歳。
1935年、菊池寛により『直木賞』が創設される。
(引用元)
代表作
- 合戦
- 南国太平記
- 楠木正成
- 心中きらら阪
- 仇討十種
- 由比根元大殺記
ペンネームの由来
活動初期の頃は「植村宋一」というペンネームを使っていたが、31歳を迎えた頃から名前に三十一、植を分解した直木を組み合わせて「直木三十一」というペンネームを利用するようになり、以後年齢に合わせてペンネームを変えていくことになるが三十五歳になってから「直木三十五」というペンネームに落ち着きそれ以降変えることは無くなった。(三十六計逃げるに如かずと茶化されることが嫌だったや菊池寛に止めるように忠告されたなど諸説あり)
参考サイト及び外部リンク
関連タグ
直木三十五(文豪とアルケミスト)…文アルのキャラはこちら。