森鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日 – 大正11年7月9日)は、明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、劇作家、陸軍軍医,官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級・医学博士・文学博士。本名は森林太郎(もり りんたろう)。
石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。東京大学医学部卒業。第一次世界大戦以降、夏目漱石と並ぶ文豪と称される。
文人・森鴎外
ドイツ留学からの帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表。同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。西洋風のサロンの雰囲気を好んでいた鴎外は自ら一派をなすことはなかったが、幸田露伴、与謝野晶子・鉄幹夫妻、樋口一葉ら多くの文人と親しく付合った。その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより、一時期小説執筆から遠ざかった。小倉時代に墓巡り(探墓)という趣味を得て、これは後の歴史小説へとつながる。
日本の文学者としては、谷崎潤一郎と並ぶ名文家として定評がある。その論理的かつ簡潔な文章は、日本語の現代文(口語体)の成立に大きく寄与した。
明治42年、夏目漱石の活躍に刺激されて小説執筆を再開、雑誌『スバル』に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。漱石と並ぶ反自然主義の旗手とみなされる。これ以降の小説は口語体で書かれている。乃木希典の殉死に示唆を受けて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、歴史小説・史伝に傾倒し「阿部一族」「高瀬舟」などの歴史小説や史伝「澁江抽斎」などを執筆した。
晩年は国語帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長、臨時国語調査会長などを歴任した。
軍医・森林太郎
大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツで4年過ごした。
帰国後は最終的に軍医総監(中将相当)に昇進するとともに陸軍軍医の人事権をにぎるトップの陸軍省医務局長にまで上りつめた。
軍医としては、公衆衛生の分野での先駆的提案が特筆される。伝染病が蔓延していた都市に下水道を普及させること、また建築規制により都市環境を改善することを論じる。明治時代の当時は不潔な貧民を追放して都市を清潔にするべしといった乱暴な議論(後述する高木兼寛による「貧民散布論」が代表的)が盛んであったが、貧民の生活を放置することは国家の基盤を危うくするものだと主張。貧困層の居住地区の生活環境を改善することを提案した。
脚気論争
日本陸軍に脚気を蔓延させる原因を作った人のひとり。
軍医時代、陸海軍の兵食改革に際して『白米と玄米のどちらがより良いか』について、玄米・麦飯推進派の海軍軍医高木兼寛と激しいつばぜり合いを演じる。ドイツ仕込みの理論派である鴎外は脚気病原菌説(ドイツ医学界の主流説)を主張し、たんぱく質の不足による脚気発病説を唱えた麦飯派に対し論争で優位に立った。
後世の認識(ビタミンB1の欠乏が原因)からすると理論的にはどちらも間違いであるが、麦飯を配給すると脚気が減少するという相関関係は、当時も明らかになっていた。これをあえて無視し報告や要望を握りつぶした鴎外には、脚気惨害の悪化に大きな責任があったと批判されている。
とはいえ、当時軍隊では「白米が食える」というのが大きな売りとなっており、福利厚生や士気の維持、さらには輸送や保存の問題(麦は米よりも傷みやすい)から、やすやすと麦飯に切り替えることはできない事情があった。
さらに陸軍では、主食の米は支給品だが副食類は購買形式だったことから、本来なら自身の栄養補給のため副食を買う給金の一部さえ「白米が食えるだけでも贅沢だ」として、家族への仕送りに回す者が続出したことも一因と見る向きもある。
また、脚気の原因が解明された後も日本の国民病となっていた脚気問題はなかなか解決しなかった。最終的に脚気が解消されたのは、アリナミンが普及した昭和29年以降であったことを付記しておく。
近年の研究では、学術論争の一つに過ぎなかったはずの「脚気論争」が、やがて学閥論争に発展して遂には軍閥抗争の域まで波及し、その火消しとして軍部が発端である森と高木に責任を押し付けるようなかたちにした――という見解が濃厚になりつつある。
その他
森茉莉(娘、小説家・随筆家)
不律(アカツキ電光戦記/彼の経歴等が多数インスパイアされている 森の次男の名前)
なお腹違いの於兎(おと トラは中国ではこうも書く)に至るまで、「東洋、西欧で通用する」名前を、というコンセプトで付けられた名前なので、実はいわゆる「キラキラネーム」とは微妙に異なる。マリー フリッツと来て次女 が杏奴(あんぬ)で三男が類(るい)でも異なる。
関連タグ
博物館明治村・・・鴎外が2年間、英国から帰国した漱石が約3年半住んでいた借家が移築されている。