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生没年 1849(嘉永2)年~1920(大正9)年

階級 海軍軍医総監(少将相当)


概要編集

薩摩藩出身。長じてから藩の蘭方医である石上良策に師事し、戊辰戦争に藩の軍医として従軍。

維新後は開成所(現東京大学)と鹿児島医学校(現鹿児島大学)で西洋医学と英語を学び、1872(明治5)年に海軍に入った。

1875(明治8)年から5年間イギリスへ留学し、帰国後も海軍医療の中枢で活躍。

1883(明治16)年に最高職である海軍衛生部長、1885(明治18)年に軍医官最高位の軍医総監へ昇進。1888(明治21)年に日本初の医学博士(4名)のうちの1人となる。

1892(明治25)年予備役となって海軍を去り、1905(明治38)年にこれまでの功績により男爵へ叙された。


海軍在籍中の1881(明治14)年、自らが学んだ英国医学を教育する「成医会講習所」を開設した。また翌15年に貧困層向けの病院として「有志東京病院」を開設。明治18年には看護教育のための「有志共立東京病院看護婦教育所」を設立した。

明治20(1887)年、美子皇后より「慈恵」の文字を賜り、現在も続く東京慈恵会医科大学、東京慈恵会医科大学付属病院、慈恵看護専門学校となった。

脚気との戦い編集

当時陸海軍双方を悩ませた兵士の脚気問題に対し、イギリスの栄養学を参考に日本で初めて臨床試験を行い、海軍での脚気問題を解決に導いた。


「人間は炭素と窒素の摂取割合が崩れると脚気になる。だから炭水化物だけではなくタンパク質も食べなければならない。」という理論を実証したものだった。


当時、海軍軍人の食事は上官ほど肉などを食べられ、下士官は給与から天引きする形で食べる事ができた。その結果、少しでも実家に多くお金を送ろうと、ご飯だけ食べて肉も魚も食べない軍人が多く発生した。


その事実を突き止めた高木は、海軍階級に関わらず強制的に上官と同じ肉や魚を使った食事を食べさせ、脚気による死者が大量発生した航路と同じ航路を辿ったが結果は脚気患者、死者数ともにゼロという快挙を成し遂げた。


本当の原因はビタミンB1不足によるものであるため、理論は間違っていたが、結果的に脚気の原因が食事にあることを突き止めたのである。


一方陸軍では森鴎外を筆頭にドイツ医学界の主流説だった細菌説を支持した結果、日清日露両戦争で戦死者以上に脚気による死者を出すこととなった

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