概要
ビタミンの欠乏症の一種。ビタミンB1(チアミン)が不足することによって起こる病気(栄養失調)である。
神経が障害を起こすため、食欲不振や倦怠感、足のむくみ、しびれなどの症状が現れる。重症になると心不全を起こし、死亡することもある。
ビタミンB1は穀物の果皮や胚芽に多く含まれるため、日本など精米した米(白米)を主食とするアジア地域に多かった。他、キャッサバの根にはビタミンが少ないため、これらを主食とするアフリカや南米でも、脚気の多発する地域がある。
小麦は胚乳が脆く、米のように高い度合いまで精白することが難しいため、またトウモロコシは胚芽ごと製粉するのが一般的であるため、どちらも脚気は発生しにくい。
歴史
従来、日本では白米は高価であり、庶民はなかなか口にすることができず、玄米として食べたり、麦や粟などと混ぜて米を食べていたため、結果としてビタミンが補給されていた。
しかし、江戸時代になると、人口が爆発的に増えた江戸や大坂では、周囲の木材を取り尽くしてしまって薪の値段が上がり続け、そのため煮炊きに時間がかかる玄米よりも、すぐに炊ける白米のほうが経済的になった。そのため、これらの大都市では、庶民も白米を食べる食習慣が根付いた結果、脚気が庶民層にまで広がり「江戸患い」「大坂腫れ」とも呼ばれた。
江戸では蕎麦が流行ったが、これはビタミンB1が含まれる蕎麦を食べて脚気を予防する側面もあったようだ(もちろん、当時はまだビタミンという概念は無かったが、それでも人々は経験的に脚気の原因が食習慣であると気づいていた)
明治以降、陸軍と海軍で白米が給食されたため、軍隊では脚気が猛威をふるう。さらに大都市部だけでなく地方でも白米食の習慣が広がり、脚気患者の激増は深刻な社会問題となった。
1910年に鈴木梅太郎がビタミンB1を発見したが、大正期に入り脚気はむしろ増加し、結核とならび二大国民病といわれた。大正時代末期は0-4歳の幼児死亡原因の約半数が脚気によるものだったという。これはビタミンB1の抽出が困難でビタミン剤が高価であり、もともと消化吸収率がよくない成分であるため、発症後にビタミン剤を投与しても手遅れになることが多かったためである。
ピークの1923年には脚気死亡者数が約2万7千人となったが、日中戦争が勃発すると食糧事情の悪化から白米禁止令や食糧配給制が実施され、これに伴い死亡者数は減少した。1941年には死亡者数が6千人台となった。
戦後は栄養改善法の施行(1952年)、吸収率のよいビタミンB1誘導体を錠剤化したアリナミンの登場(1954年)、これらに続く保険薬ブーム、さらには学校給食の実施や栄養強化食品の奨励などにより、それまで手の打ちどころがなかった脚気は、たちまち日本から姿を消していった。
しかしジャンクフードが流行り出した1970年代に再発し、さらに経口摂取できない患者の輸液中にビタミンB1が含まれていなかった事もあり、死者が出るほどの事態にまで発展した。現在では多くの加工食品にビタミンB1が添加されており、厚労省の通達で輸液にもビタミンB1が添加されるようになったことから、脚気はめったに見られない。