「愛されるよりも恐れられた方がずっと安全である」(マキャヴェリ)
概要
英語では necessary evil といい、古くは古代ギリシャでも同様の表現が見られ、思想界では長くに渡ってこのコンセプトが議論されてきた。
「悪」というものは、一般的には世を惑わす忌むべき存在というイメージが強い。
しかし、時と場合によっては「悪」と見做されることであっても不可避になってしまう場合もある。
必要悪を説明するときに典型的に用いられるのが、「禁酒法の例え」である。
第一次世界大戦ごろのアメリカ合衆国では戦時特有の意識の高まりから「禁酒法」が制定され、アルコール飲料そのものが一律禁止された。しかし平時に戻ればアルコールの一切の禁止というのはあまりにも非現実的であり、そこかしこで密売が横行する有様となった。
こういった「公にできないが確実に需要の存在する品」はギャングの格好の資金源となるもので、禁酒法が出来てからギャングの資金源の増加による組織拡大、それに伴う抗争の激化や警察官との争いでの死者の増大、その他さまざまな犯罪率の増加など、社会が明らかに悪い方に傾いた。
このような経緯から反禁酒法の意識が高まり続け、ルーズベルト大統領が法改正に署名をした事を切っ掛けに、多数の州で禁酒法が撤廃されていく事となった。
このように、「害がある」とされるものでも単純に無くしてしまうとそれ以上の弊害が生まれてしまうがために無くすことができない、というものは多数ある。
上の例でいえば、アルコールはハードドラッグに分類される劇物であり、アメリカでは20世紀後半の社会格差増大に伴って貧困化した中年層が絶望しアル中による死亡が増加したことが人口統計から判明しており、アルコールは現代でも悪を成している。
「どれほど必要とはされていても、悪には変わりない」のが必要悪である。
今日ではタバコもそういう流れを辿りつつあるが、これも完全に禁止してしまうとアメリカの禁酒法と同じ道を辿ってしまうことが強く予想される。
また、「悪がいるからこそ自分達の正しさが証明できる」という裏返しにもなり、強大な悪の存在によって集団の結束が促される事がある。政治における過激なイデオロギーも、言ってしまえばこういう原理である。
このように、存在しなければより強大な負の要素を招いてしまう場合に必要とされる悪が「必要悪」である。
物語においては、世を正すためにあえて悪者を演じたり、課程や手段を選ばず場合によっては法や人の道から外れてでも大願を成そうとする、はたまたふとした偶然から結果的に周囲に良い影響を与える人物や組織がこれに該当する。
物語の中の必要悪的なキャラクターはフィクションが成立するために単純化や誇張を伴っており、このキャラは必要悪だな、と安直にとらえて現実社会の必要悪と軽率に結びつけるのは危険である。
政治的現実主義への援用
古代ギリシャでは必要悪は結婚などに用いられるなど日常へのフォーカスもあった用語だが、
近世のトマス・ホッブズは政府・国家といった権威の必要性を肯定し、自然権と社会契約説を説いた。
ホッブズによれば、「自然状態(一般的な自然状態とホッブズの政治学的なそれは異なる点に注意)」の人間は他の動物と違い無限の欲望を持っていて際限のない自己保存に走る「万人の万人に対する闘争」状態にあり、強大なパワーに各人が持つ自然権をゆだねなければ各人の権利が守られないとし、絶対王政を肯定した。
ただし、こうした人間の利己性を強調しすぎる考え方を基礎に置いた点などもまた限界性を指摘されている。
例えば、他者に分け与えるなどの利他的な行動がヒトに幸福感を与えることが実証実験で示されるなど際限のない闘争という人間観に反する発見がある参考外部リンク。
アメリカ独立革命、フランス革命という二つの革命を戦い抜き、哲学者と革命家の二つの顔を持つ知識人トマス・ペインは、
「政府は最善の状態でも必要悪、最悪の状態では許容しがたいものである」
と述べ、非常に自制的・消極的でありつつも政府が統治に関わらざるを得ないことを認めているが、この奴隷解放論者でもあった思想家は出発点では政府不要論に立っていることを見逃してはならない。
「必要悪」への批判と問題点
当然だが、悪を必要だと認めることは道徳的に危険な水域に接近することを意味する。
そのため、「必要悪」そのものが根本的に否定されることも珍しくなく、しばしば哲学や社会思想の中で批判対象となってきた。
決してこの概念は万能に肯定的な表現として用いられるものではなく、農耕の開始とともに人類内に社会格差が発生して以降延々と人類種族に付きまとってきた葛藤を合理的に説明しようと試みる「仮説」の一つでしかないことには留意が必要である。
まず誤解してはならないのは、必要悪とされる事でも、「あってもしかたがないこと」「存在しないといけない」なんて事には絶対にならない事である。稀に混同が見られるが、必要悪においても「悪」その物はあってはならない事が大前提である。
さらに敷衍すると、そもそも「必要悪」という概念そのものが語義矛盾を起こしているのが真上の議論から判明する。人間社会において必要なものが「善」であり、不要なものが「悪」である。
必要悪の対義語を強引に作れば「不要善」となるが、「不要であるはずの物が善である事など有り得ない」のは自明で、対偶となる「必要悪」も破綻した概念であると結論できる。
にもかかわらず、現代社会では必要悪という言葉を積極的な悪の肯定に用いるという誤謬が洋の東西を問わず発生している。
特に悪の側に相当する者達が権力者の暗殺(殺害)等といった反社会的行動を成功させたりすると、「弱者達の代表として強者に立ち向かってくれる偉大な存在」として賞賛され減刑さえも求められる事態になる事さえある。
形式としては、「ある対象が悪いのはわかっているけど、でも必要なんだよ」式の言説が多い。ここにおいて特徴的にみられるのは、「一応悪いのは認めるけど」というエクスキューズを含むことで自分の立場を守りつつ、次なる段階として「悪を認める方が硬直的に悪を否定するよりも賢いんだよ」という風に誘導していく点である。
18、19世紀頃の用法で必要悪が含包していた、「悪はあってはならない」前提すら抜け落ちて単純な悪の積極的な正当化となり果てているのである。
日本では社会的閉塞感から、理想主義が「現実性を欠いた綺麗事」だと切り捨てられやすい一方、ニヒルに笑って現状を肯定してみせる方が自分を「クール」にショウオフできるという独特な土壌があり、世知に長けたているポーズをとるためにこうした形式の「現代的な必要悪」論が支持されやすい。
しかし、これによって立てる立場は薄っぺらな現実主義の皮を被った思考停止の域を出ず、「必要だと認め求めてしまう限り、悪やそれによってもたらされる『悲劇』は決してこの世から無くならない」という真理を重く見るべきであろう。
必要悪は善悪の根本的な前提をひっくり返してしまう。
人類は善悪や正義や真理などのストーリーを持たなければ、適切に他者とコミュニケートしたり、自我の統合をなしえず、社会的統合もなしえない種族である。何を以て善悪を分けるのかは時代や地域を跨げば変わる物の、「正義」も「善悪」もない社会というのは存在したためしがない。
「悪」を必要だと認めてしまうとその時に道徳心も失ってしまうことを戒めたい。
※以下、記事の性質上ネタバレ注意※
代表的な必要悪キャラクター
ヤッターマンが築いた王国ヤッター・キングダムにおいて、圧政に苦しむ人々を救うため、「必要悪」として三悪の後継者となった面々。
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悪役である侵略宇宙人だが、彼らの悪行が結果的に人助けになったり、研や人々との交流を経て、侵略行動に疑惑を抱く者も現れるなどそこまで悪い宇宙人ではない。主な理由としては宿敵であるはずの研に助けられた恩から殺せなかった・妹のキャロンが人質にされたにもかかわらず見捨てようとした研の代わりに彼女を人質にした強盗を成敗・両親が毎日喧嘩という家庭に嫌気を差し放火に手を染めた雄一少年に「これから毎日家を焼こうぜ。」と煽り結果的に彼とその両親を改心させる・小泉ヘレンを虐待していた上報酬目当てでビルのコンサートホールに爆弾を仕掛けた義父を制裁・時代遅れとバカにされたおさむ君の父親の自殺を「手伝ってやろうか」と挑発して結果的に思いとどまらせる・飛行機を乗っ取ったハイジャックを(行きがかりとはいえ)撃退・継母と義姉にいじめられていたルミ子をパーティに招待させたうえ三郎君との素敵な出会いまでさせる、などなど。更にはボスである魔王は宇宙船が爆発しそうな時は自分よりも部下を優先的に逃がし、地球を破壊しかねない巨大隕石アイアン星から地球を守るため研に協力したことも。正義の味方だが人質などを見殺しにするなど容赦なく冷たい泉研とはまるで正反対である。また彼らの故郷であるジュラル星はもともと平和だったが地球人が地球の植物を植えたことにより生態系が崩れ滅びかけてしまったのでその点を考慮すると地球侵略は正当行為ともいえる。もしかしたら上記のドロンボー一味(なお、初代も含む)に次いで気の毒なのかもしれない…。
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本作における主人公で、生きたいと願う者の味方。元はジーザスタウンの支配者であるグルジェフが欠陥品として処理したはずの人造人間だったが、暴力と洗脳によって人民を支配し、表面上では愛と平和を語りながらも、自分の意に沿わない人民や犯罪者を牢に入れて脳改造を施す等、とことん『正義』を権力として振りかざすグルジェフのやり方に怒り、あえて『悪』を名乗ってグルジェフ政権を打倒し、ジーザスタウンを救った。
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北斗四兄弟の長兄。文明の崩壊した世界では「世紀末覇者拳王」を名乗り覇を唱えた。当初は己の野望のために無慈悲な殺戮を繰り返す暴君としてのイメージが強かったが、彼が乱世に君臨せんとしたその真意は、暴力に満ちた世界を正すにはそれを上回る力と恐怖による支配しかないという考え故の行動だった。事実、ラオウが一時期不在だったため荒れた街では小悪党が跳梁跋扈し「拳王がいた頃の方がマシ」と街の人々に嘆かれ、拳王軍壊滅後にはさらなる巨悪が台頭するほど。また、(サウザーへの当て馬に使おうとしたとはいえ)敵対していたケンシロウを助けたり、少年には優しかったり(それ故に厳しく諭す場面も度々見られた)と、良心的な一面も見せている。しかし、力による統治は一時の平和しか生まないとも自覚していたフシがあり(そのために敢えて討たれたとユリアは推測している)、最期は自身も愛を知った末に世紀末の救世主となった義弟ケンシロウに敗北し、愛する女性と未来を託し天に還った。その行動については、ユリアも一定の理解を示す発言をしている。
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作中で世間を騒がせている怪盗。父であり先代キッドでもある黒羽盗一の無念を晴らすべく、仇となる組織の狙っている不老不死の謎が隠されたビッグジュエル「パンドラ」を手に入れようと怪盗として活躍しているが、稀に人助けをし、世間の一般市民には「権力者等に立ち向かってくれるヒーロー」として持てはやされている。反面、盗みの過程で明らかに行き過ぎているテロ紛いな破壊行為に出たり、警察を嘲笑う様な振る舞いも目立っており、加えて本人も本来の目的より泥棒行為自体を楽しんでいる面を見せる事が多く、顔立ちの似ている工藤新一に成りすまして調子に乗った振る舞いもしている等、愉快犯的な部分も目立ち、被害総額も350億円以上と洒落にならないレベルとなっている。それでもキッドを賞賛している一般市民達がいるが、そういった者達の大半は退屈な日常に「刺激」を求めているだけの無責任な輩とも言え、実際に作中でも愉快犯やテロリストと見なし嫌悪している者がいたり、『名探偵コナン』の主人公である江戸川コナンでさえ殺人容疑が掛かった際は突き放す等、製作者側もキッドが決して正義の味方では無いと示している。
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本能字学園を武力と恐怖で支配している生徒会長。生命戦維で作られた極制服の圧倒的な力で、最終的に全国の学園を手中に治めた。しかし、その真の目的は生命戦維による人類滅亡を目論む実母・鬼龍院羅暁の野望を打ち砕くため、有能な人材を選別し彼女に挑むことだった。最終的にはかつての敵であり実妹の纏流子やヌーディスト・ビーチと和解し、共に羅暁討伐に出陣する。ちなみに恐怖による支配で世直しをしようとする点では上記のラオウと共通する。
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カギ爪の男に復讐を誓う男。「復讐」のため、ただそれだけのためにその「カギ爪の男」を追うのは、決して正しい判断ではないが・・・、結果、その「カギ爪の男」は自分自身の理想のためだけに、月を墜落させ人類を滅亡の危機に追いやるという、恐ろしい野望を知ることになる。さらに敵サイドの本拠地についた時には、月がもう目の前にまで迫ってきており、人類滅亡はもう時間の問題という状態であった。そのため、例え復讐心であっても有余は無かったため、やむをえない最終手段とも言える。また、それらが無かったとしても、そもそも彼が復讐に生きる理由は「カギ爪の男に生きる理由そのものを奪われたから」…つまりは「復讐以外に生きる理由が無くなってしまったから」であり、実際作中で語られるバックストーリーから見ても本当にそうなっている為、安易に正しいか間違いかを決めてしまう事は出来ない。加えて、これを「間違い」と断言する事は「気まぐれも同然でエレナを殺害するというまごう事無き悪行に手を染めて罪の意識はおろか存在自体忘れている事さえザラにある身勝手極まりないカギ爪の男を擁護してしまうという事に帰結する」という非常に難しい部分もある。
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「読むと強くなる」(アニメでは「見ると強くなる」)というコンセプトの元、入場シーンでは某プロレスラーを彷彿とさせる仮面を付けるなど、破天荒で大相撲の伝統を平気で破壊する横綱だが、それは力士としての誇りを持ち、近年の格式や様式美等ばかりを重んじるあまりに堕楽の兆候を見せ始めた角界に喝を入れる為である。一方、「悪行」扱いされるその行動は、あくまでも「格式や様式美を軽んじている」だけで、相撲自体に関しては「一度でも負ければ引退する」と豪語し至極真っ当かつ真摯に取り組む形で行っており、日常でも他者に気を遣ったり懐の広さを見せる描写が描かれたりもする為、本質的には「必要悪」はおろか「悪人」扱いとされるべき人物では無いとも言える。
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ネタバレになるので余り詳しくは書けないが、大切な人を救う為に自身を忌み嫌われる存在へと貶め、結果的に人類を搾取者から解放した点は剣崎一真と一脈通じるものがある。しかし、その行動にはやや短絡的な上に独り善がりとも言える一面もあり、「彼女の大切な人やその友人達」が築き上げた物や生き様を軽んじる所かぶち壊しにしかねない面も目立っている。結果的に「自分が良ければ問題無い」というスタンスになってしまっている為に、「大切な人」と決別する羽目になる等、彼とは違い周囲に理解されているとは言い難い(脚本家自身にも指摘されている)。 | |
『存在しなければより強大な負の要素を招いてしまう』という点においてはまさに代表格。悪事を働く事があるものの、結果として向かい側の店にライバル意識を燃やし、勝つことになると我が子の意見を無視するラーメン屋の主人等が改心するなど、人助けに繋がる事が多い。また、タイガーやグラモといった自分たち以上の悪党や、社会的には真人間とされているが目的の為なら手段を択ばず、どんな悪辣な行為をも辞さないブルル公爵やゴメス署長などと対峙してはしばしば彼らを懲らしめる事にまで至っている。時としては母親や財宝、美女や城が絡んだ時などに無条件で人助けをすることもある。そのためかゾロリと敵対している者達、及びその関係者にはエルゼ姫やイヌタクのような良き理解者もいる。 | |
ONEPIECEの主人公にして海賊・麦わらの一味の船長である。作中での彼の行動原理はいたってシンプルであり彼が敵と見なすのは"冒険の邪魔をした者""仲間や友達を傷つけた、又は大切にしない者""海賊王になる夢の障害となる者""食の恨みを買った者""恩を仇で返す者"である。海賊として一切法には縛られてはおらず、前述した敵に回ったものに対しては容赦がなく、場合によっては世界政府の機関へのテロ行為や世界貴族への暴行すら辞さない。しかし多くの場合においてその町の住民や国家を結果的に救うことが多く、冒険を終えて出航するときには多くの感謝の声に見送られることも多い。また、世界政府への攻撃についても、作中の世界政府にも黒い部分が数多く描写されており一概に悪行とは言いきれない部分が多い。 | |
『Fate/hollow ataraxia』に登場するアヴェンジャークラスのサーヴァント。彼は拝火教(ゾロアスター教の通称)における悪神ではなく、とある村において、何の罪も犯さず、さりとて大きな功績も持たなかった平凡な青年。彼は村におきた一つの教え、何処にでもあるような取り決めから人身御供に選ばれ、結果として英霊の座に登録された。教えとは、悪を定める教えである。その村では、日々の苦しさ、貧しさに耐えるために教えを必要とした。『私たちの生活がいっこうに楽にならないのは、原因となる悪がいるからだ』青年は「村人たちの善を脅かす悪」「物事がうまくいかない元凶」「無条件で貶めてよい何か」―――即ち必要悪として選ばれ、山の頂に幽閉され、この世の地獄に落とされた。とある集落で世界中の人間の善意を証明するためにその名を押し付けられ、「この世全ての悪の原因である悪魔」として周囲から扱われたダレカである。 |
関連タグ
各媒体における必要悪とされるキャラクターの一覧。
哀しき悪役:大半が必要悪となる悪役
復讐勇者:主にライトノベル界隈で見かける異世界転生、異世界転移系『復讐もの』の中には勇者として迎えられたり、活躍をしたにもかかわらず舞台となる世界が「そこに住む人間は道徳ゼロな輩がほとんどを占めている」、「努力しても無駄」、「努力は報われない」、「正直者はバカを見る」な堕落した世界で周囲(特に王族等の特権階級や仲間)が国家ぐるみで徹底的に貶めたり、平然と人権侵害する圧政で平民達に数多くの酷い仕打ちをしたり、モンスター側が実は「正義」及び「被害者」だと判明したりした事から必要悪として闇堕ちし、人間を辞めて魔王と化すという王道ファンタジー作品へのアンチテーゼな作品が存在する。
諸悪の根源・絶対悪:必要悪とは対照的な純粋悪。ただし、必要悪に該当する者もこうなった原因が判明するまでは同類と非難されている。
漆黒の意思:全てがそうとは限らないが、多方はこちらにもよく同様にカテゴライズされる。
ヤン・ウェンリー:彼の名台詞の一つに「悪の権化なんて3流のTVドラマにしか存在しない…だけど、人間は自分が悪であるという認識に耐えられるほど強くはない。だから、それぞれの正義を信じて、それを他人に押し付けようとして戦うのさ」とある事から必要悪の必要を肯定するポリシーを持っていると解釈出来る。
杉下右京:必要悪ですら否定的であり「必要な悪などこの世に無い」ポリシーを持つ。「必要悪への批判」を体現するわかりやすいキャラクターである。しかし劇中で真実の追及の為とはいえ違法捜査を行うなどダブルスタンダード的な側面も持つ。
マキマ:「必要な悪というのは常に国家が首輪をつけて支配しているもの」としている。言い換えると、悪が必要というロジック自体国家が人民を上から押さえつけるのに役立てるための正当化であるという批判的思考を示している。
インプレゾンビ:SNSに於ける迷惑行為の1つだが、貧困層にとっては犯さなければ生き残れない極限状態に陥っており、仮に根絶した場合、彼らを見殺しにするのも兼ねている。正に概要での「単純に無くしてしまうとそれ以上の弊害が生まれてしまう」に当て嵌まっている。