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概要編集

1920年、知人の紹介で松竹蒲田撮影所に小道具係として入社する。1922年頃から池田義信の助監督につく。


1930年、成瀬は城戸四郎が赤穂春雄名義でシナリオを書いた短篇ナンセンス喜劇映画『チャンバラ夫婦』で監督デビューを果たす。


『妻よ薔薇のやうに』(1935年)では批評家から高い評価を受けて『キネマ旬報』ベスト1に選ばれる。この作品は“Kimiko”という英題で1937年にニューヨークで封切られ、アメリカで興行上映された初の日本映画となった。


戦後は、映画芸術協会を設立、フリーの立場で東宝、新東宝、松竹、大映などで監督することになる。


1951年、林芙美子原作、原節子上原謙主演の『めし』が高い評価を受けた。東宝復帰後の1955年に監督した『浮雲』は一般に成瀬の最高傑作とされている。


成瀬の遺作は1967年、司葉子加山雄三主演の『乱れ雲』であった。

1969年、成瀬は直腸癌のため63歳で没した。


作風編集

成瀬は女性映画の名手として知られており、とくに高峰秀子とのコンビによる多数の作品を手がける。


他に戦前では水久保澄子忍節子入江たか子岡田嘉子、戦後では若山セツ子杉葉子久我美子高峰三枝子木暮実千代香川京子淡島千景新珠三千代草笛光子有馬稲子団令子水野久美淡路恵子司葉子星由里子といった女優が彼の映画で輝きを放っている。

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