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もしかして:R・高峰秀子


概要編集

本名:松山 秀子(まつやま ひでこ)、旧姓:平山(ひらやま)。愛称は「デコちゃん」。


1924年(大正13年)生まれ。北海道函館市出身。地域にて多角経営をしていた料亭の娘であったのだが、実の母親の死去をきっかけに活動弁士であった叔母(父親の妹)であった志げ(初代・高峰秀子)のもとへと養子に出され、養母が拠点としていた東京へと転ずる。


1929年(昭和4年)に養父(養母の内縁の夫)に松竹蒲田撮影所へと遊びに連れていかれたが、オーディションの行列の最後尾に置いてきぼりにされてしまうも、それがきっかけで子役デビューし(もちろん養父母は最初から秀子を子役にするために撮影所に連れてきたのであるが)あれよあれよという間にノリと勢いで天才子役スターとして活躍して「日本(東洋)のシャーリー・テンプル」とまで呼ばれるほどに名を馳せた。その後東宝、新東宝を経てフリーとなる。


ただ、人気や仕事の多忙と引き換えに学校(小学校)に行かせては貰えず、脚本は養母たちとの読み合わせで憶えていた。秀子は文字や計算を可愛がってくれる役者仲間や監督たちから、親や会社には内緒で教わっていたという。本人は時に「小学校中退」を自称する事すらあった。

しかし秀子の行く末を心配した学校の先生がおり、その先生から"個人的に"本(教科書など)を借り受けて親に隠れて読んでいた。この経験から、のちに秀子は類い希なる読書狂に育っており、のちのエッセイストとしての活動を支えた博覧強記の教養と知見は膨大な読書量によって独学で得たものである。


松竹から東宝(正しくはその前身会社)への転籍も、本人的にはギャラの云々よりも東宝が「ウチに来たらきちんと勉強させてあげる。学校(女学校)にも行かせてあげる。人並みの(役者仲間じゃない)お友だちも作れるようにしてあげる」という約束をしてくれたからであったが「人気絶頂の高峰に仕事をセーブさせて人並みの青春を送らせる」などという判断を当時の映画業界ができるはずもなく(しかも高峰の養父母は転籍を条件に東宝へ多額の借金までしていたため、高峰は嫌でも東宝の言うままに働かねばならなかった。ちなみに当時の役者の待遇としてコレは普通だった時代である)高峰は女学校に在籍はさせてもらえたがマトモに登校させてもらえない日々が続き、その挙げ句に担任にキレられ「このままでは他の生徒の迷惑になる」「学校を取るか仕事を取るか、どっちかにしろ」と責められ、せっかく入った学校を強制退学させられる羽目となった(家族によって負わされた東宝からの借金を持つ高峰に、こんな「あるようで実はない」詭弁の選択肢を呈する事は事実上の退学強制に他ならない)。

この時に高峰は学校の校庭に蹲り学校に行きたいと人知れず泣いたそうである(が、もちろん東宝も学校も、そんな少女の血を吐くような嘆きを聞き入れる事は無かった)。この退学騒動によって高峰は「自分は学校に行ってはいけない人間なんだ」と思い込んでしまい、ここからさらに独学を志向するようになった。

ちなみに高峰を学校から追い出した担任教師は(名指しこそ憚られるが)前後、女子教育の専門家として高名な政治家・運動家になっている。


木下惠介成瀬巳喜男監督作品に常連出演したほか、小津安二郎豊田四郎稲垣浩五所平之助など日本映画界を彩る巨匠監督の名作に数多く出演した。


1955年(昭和30年)に、木下惠介の弟子であった松山善三と結婚。結婚時のパニックを抑える事を目的に、木下の手配で結婚記者会見を行う事となり、以降、80年代頃まで芸能人の結婚記者会見は定番となった。


1979年(昭和54年)に女優を引退し、その後はエッセイストとして活動。


2010年(平成22年)12月28日午前5時28分、肺がんにより東京都渋谷区の病院で死去。86歳没。


夫妻に実子はいなかったが、プライベート含めて深い親交のあった雑誌記者を養女として招いており、松山夫妻の各種権利管理は、この養女が継承している。


関連項目編集

女優 子役

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