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概要編集

1924年(大正13年)に松竹蒲田撮影所に入社。


1929年(昭和4年)、佐藤春夫の小説『売笑婦マリ』を下敷きにした自作の脚本による『彩られる唇』で監督デビューする。しかし、次に撮った『友愛結婚』などが興行的に失敗し、以降5年間再び助監督生活を送ることになる。


1935年に『三人の女性』で監督再デビューする。

1941年、東宝へ入社。戦中は国策映画『若き姿』などを監督。


戦後はしばらくスランプを味わっていたが、森鷗外の名作を映画化した『雁』でスランプを脱出。1955年に織田作之助の代表作を映画化した『夫婦善哉』を発表、高い評価を受け豊田の代表作となった。以降は東京映画が活動の中心となる。


谷崎潤一郎原作『猫と庄造と二人のをんな』、川端康成原作『雪国』、志賀直哉原作『暗夜行路』、永井荷風原作『濹東綺譚』など多くの文芸作品を発表した。また、1956年には東宝と香港の邵氏父子の共同製作の『白夫人の妖恋』も製作。

また1958年には『駅前』シリーズの第1作となる『駅前旅館』を撮り、のちに後期の2本の同シリーズ作品も監督しシリーズの終焉に花を添えた。


1977年11月13日、俳優・北大路欣也の結婚披露宴中に心臓発作で倒れ急逝。71歳没。

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