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織田作之助

おださくのすけ

織田作之助とは日本の小説家である
目次[非表示]
  1. 日本小説家 本項で解説
  2. 1をモデルにした文豪ストレイドッグスの同名人物。詳細は織田作之助(文豪ストレイドッグス)へ。メイン画がこのキャラクター
  3. 1をモデルにした文豪とアルケミストの同名人物。詳細は織田作之助(文豪とアルケミスト)へ。


女の品行というものは、男が思っている以上に乱れているが、同時にまた、男が思っている以上に清潔だ。

生涯

1913年(大正2年)10月26日に大阪の仕出し屋(出前などを配達する業者)「魚春」に生まれる。ちなみに家は長屋でどちらかというと貧しかった。作之助が生まれた時は両親は母方から結婚を反対されていたため戸籍上は母の弟の甥ということで「鈴木作之助」となっており1926年に親が入籍したため正式に「織田作之助」となった。(ちなみに家業は後に天ぷら屋になっている。)

1931年に第三高等学校(京都大学総合人間学部の前進)に入学したが1934年に卒業試験中に吐血し白浜温泉での療養をやらざるを得なくなる。その後復学するも勉学への意欲を失い1936年に退学した。

1935年ごろ後の妻の宮田一枝に出会う。同じころに作家を志望するようになる。最初は劇作家を志望していたが、スタンダール(フランスの作家)の作品に出会ったことで小説家を志すようになる。

1939年に一枝と結婚し、現在の堺市に移り住む。この頃は新聞記者として生計を立てている。一方で作家活動も続け同年9月に『俗臭』を発表する。この作品は芥川賞候補となり作之助は注目を浴びる。7月に発表した『夫婦善哉』の評判も非常に良かったため本格的に作家活動に入る。戦時中には『青春の逆説』が発行禁止になったりしたが太宰治坂口安吾らと共に無頼派として活躍し、「オダサク」の愛称で呼ばれた。

1944年に一枝ががんで亡くなり2年後に再婚。

1944年12月に東京にて結核が原因で大量の喀血をし、同地で入院。徐々に容体は悪化し1947年(昭和21年)1月10日に33歳の若さで死去。

人物

  • 頭はよく、長屋生まれが第三高等学校に入学することは当時は非常に稀だった。


  • 大阪「自由軒」のカレーライスが大好物だったらしく、『夫婦善哉』にもそのカレーライスを登場させている。ちなみに今も店内には「トラは死んで川を残す。オダサク死んでカレーライスを残す」と書かれた作之助の写真が飾られている。


  • 死後60年後に代表作『夫婦善哉』の別府が舞台の続編があることが判明した。

  • 愛妻家であり死ぬ時まで一枝の写真と遺髪を肌身離さず持っていた。

作風

作之助は短編を得意とし、また故郷の大阪に拘りを持っており大阪の庶民を描いたものが多い。

代表作一覧

夫婦善哉
四月馬鹿
大人の童話
わが町
予言者
など

余談

彼も尾崎紅葉と同様に文豪ストレイドッグスの同名人物の方が先に大百科の作成される流れになる。彼の顛末は該当記事へ詳細を譲るが、その影響もあってテレビアニメ版で彼が登場した際にはイラスト等が大量に投稿された。

その為、このタグが占めるイラストの9割以上は文豪ストレイドッグスの彼で占められている。

関連タグ

小説家 大阪 文学 無頼派 大正 昭和 カレーライス
文豪ストレイドッグス・・・作之助がモデルのキャラクターが登場する。
文豪とアルケミスト・・・同じくモデルとなっているキャラクターが登場する。

外部リンク

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