概要
1950年代半ばからお笑いユニット“脱線トリオ”の一人として有名になり、解散後は喜劇役者、またコメディアンとして東北弁を駆使した言い回しや持ちギャグを用いてお茶の間を沸かせた。
来歴
1930年小学3年次にレビュー劇団を見て感動。1940年(昭和15年)、18歳の時に家出して上京し、1942年(昭和17年)劇団ムーランルージュに入団。入団時の芸名は南啓二。
翌1943年(昭和18年)に大日本帝国陸軍に応召し、中国華北地方へ赴任。
1945年(昭和20年)に帰国し、ムーランルージュに復帰。当時の芸名は宇留木三平。
1951年(昭和26年)にムーランルージュ解散に伴い芸名を由利徹に改めた。芸名の由来は「無理通る」であり当初はそのままムリトオルとするつもりだったが、新東宝文芸部の先輩から「大物になったときに困るだろう」と一文字変えた由利徹と命名された。
1956年(昭和31年)に新宿のストリップ劇場で出会った南利明・八波むと志とともに『脱線トリオ』を結成。1961年(昭和36年)の脱線トリオ解散後は引き続き南利明や佐山俊二と組むなどしていたが、単独での活動が主となっていった。
その後、実写映画版「サザエさん」シリーズ、「クレージー映画」シリーズ、「トラック野郎」シリーズなどにレギュラー出演した。
1973年(昭和48年)からは、『時間ですよ』(TBS系)や『寺内貫太郎一家』など久世光彦演出・プロデュースによるテレビドラマの常連でもあった。
1974年(昭和49年)からは『がんばれ!!ロボコン』に町田巡査役で出演(メイン画像)。
代表的な弟子としてたこ八郎が挙げられる。たこ八郎が高校時代にボクシングをしていたことを知った由利は「日本チャンピオンになったら弟子にしてやる」と告げたところ、本当にフライ級のチャンピオンになったため一番弟子になった。
志村けんも弟子入りを試みたが、当時4人の弟子を抱えていた由利は断り、志村の「喜劇役者を目指すには大学に行った方がいいですか?」という質問に「その4年間は時間の無駄だ」と答えたという。志村の変なおじさんに代表される変態キャラの芸風に由利の影響がうかがえるとの声もある。
主なギャグ
- 「オシャ、マンベ」
「オシャ」で下半身に力を入れ、「マンベ」で股を開く。
元々は「網走番外地」出演を記念してロケ地の長万部町を宣伝するために始めたものだったが、氏を代表するギャグとなったため葬儀の際には長万部町から弔電が届いたという。
ここから派生して両手で股を閉じる「合わせてクッチャン!」というギャグのほか、股間の前で両手のひらを斜めに交差させる「メマンベツ!」という北海道ネタがあった。
- 「胸毛もあるのよ」
自身の胸毛が濃いことをネタにしたギャグ。
奇しくも南利明は響きの似た「ハヤシもあるでよ」が大流行した。
- パントマイムのギャグ「裁縫芸」
- 「チンチロリンのカックン」
1959年にはこのギャグを題材にした映画「カックン超特急」(新東宝)の主演を務め、「コメディ映画の新境地」と絶賛されたという。
- 「どーしてそうなのヨ」
※上記の「オシャ、マンベ」、「チンチロリンのカックン」などのギャグはそのまま当時の流行語となった。
晩年
1983年(昭和58年)、故郷・石巻市から市民栄誉賞を受賞。「学校の成績はビリで警察にも補導された自分が」と感慨深げに授賞式に参加した。
1993年(平成5年)、勲四等瑞宝章受章。
1999年(平成11年)5月20日午後9時30分、肝臓癌のため(世田谷区内の病院)で死去。78歳没。晩年には自身の総決算的な公演を佐藤B作、柄本明、斎藤晴彦らと共に行うという構想を練っていたが実現しなかった。
関連タグ
カール(スナック菓子):1978年放送のCMでカールおじさんの声を担当。