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概要編集

本名:斉藤 清作(さいとう せいさく)(1940年〈昭和15年〉11月23日 - 1985年〈昭和60年〉7月24日)。宮城県仙台市新田(現宮城野区)出身。


元日本フライ級王者。俳優活動では太古 八郎、多胡 八郎、多古 八郎、タコ 八郎などの名義も用いた。


高校卒業後上京し、様々な職を転々とした後、笹崎ボクシングジムに入門。左目の障害を隠し、視力表を丸暗記してプロテストに合格、1960年9月、プロボクサーとしてデビューした。


目の障害を対戦相手に悟らせないため、相手の攻撃をあえて受けて迎撃に持ち込むスタイルや、自らのダメージを悟らせないために相手の攻撃が自らに効かない無意味なもののように装う「ささやき戦術」による心理戦を駆使して闘った。しかし、この一種の痩せ我慢を極める形の戦術は、文字通り自身の寿命と引き換えての戦いであり、当然のことながらデビューより早い時期からパンチドランカーの症状を呈していた。


1962年、第13代日本フライ級チャンピオンとなった。髪型を河童のように刈り込んだことから「河童の清作」の愛称で呼ばれた。以降、2回の防衛を果たす。しかし、この頃にはパンチドランカー症状はいよいよ本格的になっていった。


1964年4月2日、3度目の防衛戦で敗退し王座陥落。これを期に現役を引退した。


引退翌日、同郷のコメディアン・由利徹に弟子入り。パンチドランカーに苦しんでいた斉藤は現役時代から第二の人生としてコメディアンを志向しており弟子入り志願は王者になる以前から行っていたものの、時の人となっているボクサーの弟子入り志願は由利からは(斉藤がパンチドランカーに苦しんでいた事も知らなかったため)悪い冗談にしか思えず「王者になったら弟子にしてやる」と返していた。しかし斉藤が本当にチャンピオンになり防衛も果たして引退したため、由利はやむなく自らの言葉の責任をとる形で斉藤を弟子とし「太古(たこ)八郎」の芸名を与えた(のちに斉藤自身が「太古」の文字を覚えて書くことができなかった事から、この部分をひらがなに変えた)。


内弟子となるものの、この頃にはボクサーとして闘ってきたがゆえのパンチドランカーの症状は末期化しており、以降、生涯をかけて記憶力や生理機能の低下に度々悩まされるようになる。この症状から度々、師匠とその家族より介護の手を借り負担をかけてしまったため、のちにはこれを気に病み、師匠の家を出て事情を知る友人たちの家を渡り泊まり歩き多くの人の手をかけるようになった。しかし友人たちは、たこの素朴で温厚かつ人の良い礼儀正しい謙虚さを気に入っており、それゆえの友情と人情で彼を支えていった。


コメディアン転身後、友人関係の繋がりで団鬼六に見込まれて、ストリップ劇場やキャバレー、ピンク映画に出演すると、これを見た山本晋也に気に入られ彼が監督する作品に多数出演。


その後1977年の高倉健の主演映画『幸福の黄色いハンカチ』に出演し、俳優としてのたこの名が広く知られるようになった。高倉はたこ(斉藤)の現役ボクサー時代のファンだったのである。


1985年7月24日の午前10時20分頃、たこは神奈川県足柄下郡真鶴町の岩海水浴場で飲酒した後に海水浴をして、心臓麻痺によって急死した。この訃報は『笑っていいとも!』(たこは当時、この番組のレギュラー)によって全国に伝えられる事となった。


関連タグ編集

ボクサー コメディアン 俳優


パンチドランカー


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