解説
志村けん(1950年2月20日 - 2020年3月29日)は、日本のコメディアンである。
本名・志村康徳(しむら やすのり)。東久留米高等学校(現・東京都立東久留米総合高等学校)卒業。渡辺プロダクションを経て、死去するまではイザワオフィスに所属していた(現在もイザワオフィスのホームページで、死去したいかりや長介、仲本工事と共にスケジュールが更新され続けている)
台湾、中国などでも「日本の喜劇王」として知られ、絶大な人気を誇っていた。また、アメリカの「ピープル」誌やCNN(ワーナー系ニュースチャンネル)は、ハリウッドの喜劇スター「ロビン・ウィリアムス」に例えている。
愛称はケンちゃん、しむけん。
人物
経歴
厳格な教師だった父の元に3人兄弟の末っ子として育ち、兄たちは東村山市職員となるという比較的お堅い家庭だったが、父が喜劇中継番組にウケていたのを見て、お笑いの世界に憧れを抱くようになる。
高校卒業直前の1968年にザ・ドリフターズ(以下、ドリフ)に入門、いかりや長介の弟子になり、当初は加藤茶のボーヤ(付き人)を仕事として修行を積む。
実は映像デビューはこの年に果たしており(映画『ドリフターズですよ!冒険冒険また冒険』のモブ役)、さらに同作の挿入歌『ズッコケちゃん』のイントロ部は志村で始まるという抜擢を受けている。
志村はこのころ兄弟子と『マックボンボン』というお笑いコンビを結成。このマックボンボンは大いに当たり冠番組まで作られた。ところがネタのストック不足などから、その人気は所謂一発屋的なものに留まり、番組はリニューアルを挟むも3ヶ月で打ち切りとなってしまう。この出来事にショックを受けた兄弟子が失踪したため、志村は再びボーヤとして苦難な日々を歩むこととなった(実はこの間に自衛隊上がりの付き人と組み直している。が、性格が合わず短期間でこのコンビは終了したという)。
1974年の荒井注脱退と入れ替わりに、同グループの正式なメンバーとなる。当初いかりやは、自分や荒井と同年代のメンバーを入れようとし、また週刊誌などの報道では、ブルース・リーのモノマネなどで付き人の中では一番知名度のあったすわ親治の昇格が濃厚だと報じるメディアが大多数を占めていたが、加藤の強い後押しもあり、若手の志村が抜擢された。
加入直後は「見習い」として、荒井注が抜けるまでの数ヶ月間、『8時だョ!全員集合』において6人体制でコントを行っていた。
その後、荒井と入れ替わりで正メンバーとなるが、当時はマックボンボン時代の芸能活動しかなく、世間的には全く無名の志村に対して、絶大な人気を誇っていた荒井注の存在感は大きかった。一方、荒井とキャラがまるで異なるうえ、張り切りすぎた志村は空回り気味で、観客からのウケがあまりよくなかった。
- ちなみに見習いメンバーに昇格した際、『全員集合』で初めて演じたのは、「お釜をプレゼント」という文言に釣られてやってきた荒井注に、プレゼントとして渡されるオカマ役の一人であった。
当時は自身でも「これじゃ笑えない」と語るほど芽の出ない時期であり、実際観客からの反応も悪く、「誰だこいつは」という反応が多かった。「他の付き人を昇格させた方が良かった」とまで言われ、レギュラーデビューから2年程の間、今では信じられない程に志村は苦しい時期を過ごした。
しかし、余興のネタを元に作り上げた東村山音頭が大当たりとなり、子どもたちからの支持が爆発的に上昇、大ブレイクを果たす。以降、それまでウケなかった「おまえ、それはないだろう~」「怒っちゃや~よ」という持ちネタや、「カラスの勝手でしょ」などの替え歌ギャグが次々とヒット。加藤茶と双璧をなす、チームのエース格となっていった。
『全員集合』終了後はプロデューサーから、加藤茶と共に後番組となる『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(TBS)のメインMCを託された事を皮切りに、のちのちにわたり『志村けんのだいじょうぶだぁ』(フジテレビ)を始めとする数々の冠番組を任されることとなる。志村はこれらの番組を通して様々な芸人と組み、ドリフでのものとは一味違ったコントを展開した。
元々、各メンバーとは年齢の差が大きかった為(昔の感覚なら、約20歳年上ないかりや・高木とは親子ほどの歳の差)、加藤茶以外(加藤とは7歳違いで、弟分として可愛がられていた)とのプライベートでの積極的な付き合いはあまりなかったとも言われる(と言いつつ仲本工事やスタッフらと競馬のノミ行為がバレて謹慎の憂き目にあっていたりするが…………)。
しかし、自身の番組においては長年の相棒である加藤含め、しばしば自ら呼びかけてドリフメンバーと共演していた。
俳優業には手を絶対に出さない主義であったが、唯一高倉健主演の映画「鉄道員(ぽっぽや)」には、高倉からの強いオファーがあり例外的に出演している。逝去年となる2020年には、本腰を入れて俳優業に挑戦する予定だった。
すでに『加トケン』での探偵シリーズにおけるシリアス回や『だいじょうぶだぁ』のサイレント劇ではシリアスな演技を披露していた。これは「笑わせるのは難しいけど、泣かせるのは簡単だ」という理由からだったとか。さらに、晩年に製作されたNHKの「となりのシムラ」では「普通のドラマのような雰囲気を醸し出しつつ、その中で笑えるコメディ」という路線を切り開き、俳優としての才能を見せていた。
家族
生涯独身だった為子供はいないと思っている人も多いと思われるが、実は一人だけ子供がいると自著の中で語っている。
著書「変なおじさん」の中で「ただ唯一、付き人時代に同棲していた一般女性とのあいだに一子を儲けた」と告白している。その時の事を著書でこう綴っている。
「何かの拍子で子供が出来ちゃった。まだ子供なんかふざけんなって時代だったから、どうしようか困ってしまい、向こうの親にも散々怒られた。結局親父の退職金の残りをおふくろから借金して、それで先方に謝りに行ってなんとか収めてもらった」
少なくとも志村けん自身には結婚の意思はあったそうだが、
結局周囲の人々の猛反発にあった結果泣く泣く2人は別れる事に。
時代がそれを許さなかったのだろうが、時として時勢は残酷なものである。
後年、様々な手段を使って探すも見付からなかったと言う。その後の消息は志村自身は全く消息が掴めなかったと述懐している。
子供が男の子だったか女の子だったかは不明である
なお子供は生きていれば50歳前後であると推定される。
youtubeで息子を名乗っている人物が居たが年齢からして偽者と思われる。
私生活・人柄
いかりやの薫陶を受けてきた影響があるのか、同世代のみならず、歳が一回り以上離れた芸能人仲間らにも優しく接し、慕われていた。後輩が困っていれば親身になって相談を受けたり、助言を授けることもあり、時には彼らに多額なお金や高額な贅沢品(数十万から数百万円単位)を気前よく寄贈することもあった(特に彼と関わりがあった女子には、ブランド品や高級車などを気前よくプレゼントした)。
志村にはこれといって『弟子』と明言している人物はいなかった。だが、周囲からは師匠と呼ばれることも多く、結果としてその姿勢から学ぶ人間が多かった。
どちらかと言えば志村が「面白い」と思った人間を自身のコント番組に呼ぶのが主であり、田代まさしや桑野信義、優香などを筆頭とした、畑違いなジャンルから選出されたメンバーは、大体そういう流れで志村の下に付くようになっている。
ところがコントで見せる下品で素っ頓狂なキャラクターとは異なり、私生活ではシャイで控えめな人物だったとされる。
トーク番組に出るようになった頃、最初は変なおじさんなどのコントキャラの格好をして出演していた。これは自分のことを真面目に語るのが照れくさく、何かに扮していないと話せないからだったという。そのため晩年になるまではトーク番組で出演することは少なかった。
健康を気にしながらも飲み歩くのが好きだったが、大騒ぎするタイプではなく静かに飲む方だったという。ただし、田代まさし曰く、あまりに飲み過ぎて失敗することもあったという。
駆け出しの頃はキャバレーよりも居酒屋を特に選んでいたらしく、人間観察を兼ねていたともいわれる。
なおオカマ芸を極めるために、若い頃は新宿二丁目のゲイバーにも繰り出すこともあった。
人が笑うのを見るのが好きというように、自身もお笑いが好き。若手を集めたコント番組などを仕切ることも多く、若手のネタを見て爆笑する姿も多く見られた。
母親は志村の出世を喜んでおり、逝去するまで「嫁はまだか」「孫はまだか」と待ち望んでいたという。志村は「孫を見るまでは死なないっていうから結婚もしない」とよく言い返していた。
3歳年上の長兄は東村山市職員で、次兄も含めて非常によく容姿が似ていることから話題となり、度々メディアに取り上げられていた。特に声色は次兄の方が似ている。
若手時代はロングヘアーがトレードマークだったが、年齢的に見ると、ドリフメンバーでは最年少にもかかわらず一番髪の毛の後退が早かった人物でもある(更に言えば二人の兄よりも早かった)。そのため80年代から90年代にかけては後ろに髪を縛って目立たなくしようとしていたと思われることも。完全に薄毛から逃れられなくなると、周囲からいじられることも多くなっていった。
新型コロナウイルスへの感染と急逝
6日、テレビ朝日の『あいつ今何してる?』の撮影の収録には元気に参加していた。
2020年3月17日に倦怠感を訴え、19日には発熱と呼吸困難が出るなど症状が重くなったため、自宅に往診に来ていた医師の勧めもあり、20日に都内の病院に入院する。しかし翌日21日には更に呼吸状態が悪化し、人工呼吸器を装着するための麻酔処置を受けて以降は意識不明の状態が続いていた。
23日には新型コロナウイルスの検査の結果「陽性」であることが判明し、25日には志村の罹患と入院が公式に発表された。
70歳という高齢であり、同年1月に胃のポリープ手術で療養していた。そのうえ、数年前に肺病を患ったことから禁煙は始めたものの、それまでは一日3箱吸うほどのヘビースモーカーであった。また飲み歩くのも好きで、若い頃からほぼ毎日飲酒しており、健康に気を使うようになってからもこれだけはやめられなかった。
これらの事情から元々かなりハイリスクの状態にあり、容体が厳しいとの報道も飛び交っていた。
研ナオコを始めとして、多くの友人・知人が応援コメントを発表しており、彼自身も主演予定だった映画を自ら降板し、療養に専念していた。
25日には、より高度な医療設備を備えた新宿区の国立国際医療研究センター病院に転院、ECMO装着などハイレベルな治療を受ける。しかし意識が戻ることのないまま、3月29日の深夜23時過ぎ、肺炎の病状が悪化して息を引き取った。
自身の舞台「志村魂」の地方公演の予定が組まれていたことに加えて、後述の朝ドラ出演や映画の主演が決定するなど、俳優活動にも本腰を入れてかかろうとしていた矢先の悲劇だった。 翌日、ニュース速報で志村の訃報が出た瞬間、国民に大きな衝撃が走った。
志村の死は、感染発表から僅か6日でのことであり、軽症から急激に症状が悪化する「新型コロナウィルス感染症」の恐ろしさを、国民に深く印象付けた。
生涯独身だった志村の身を案じ、病院には長兄ら親族が駆けつけ、兄夫婦の息子たちも、回復した叔父と再会できる日を楽しみに励まし続けていた。しかし感染の危険が伴うことから、その最期までタブレットの映像越しで闘病の様子を確認することしかできなかったという。
まだ詳細がよく分かっていなかった新型コロナウイルスに対する感染予防策の行政上の指導もあり、通夜・葬儀の日取りは遺体をそのまま火葬場に運んで直葬した後になり、遺体と直接対面することも叶わなかった。翌日には、志村の遺骨が兄たちのもとに届いたが、彼らが待ち望んでいた弟との対面は、家の玄関先での遺骨の手渡しというあまりにも皮肉で悲しい形での実現となった。
葬儀については遺族の意向により、身内のみでの密葬で行われた。
事務所から公式に訃報が出されたのは翌朝10時前後であり、芸能界の大先輩の突然の訃報に、朝昼のワイドショーに出演していた芸能人たちは、みな一様にショックを受けていた。志村と何度も共演経験のある近藤春菜は生放送で号泣した。
事務所の声明を受けて志村の訃報は速報として全国に伝えられ、日本国民に衝撃を与えた。ファンからは「近い親戚が亡くなるのと同じくらい辛い」、「親近感を例えるならば親戚で笑わせてくれる面白いおじさん。それくらい悲しい」と広い世代から無念の声があった。そして国民はつい最近まで元気にテレビに出ていた志村の命を一瞬で奪った新型コロナウイルスの恐怖を脳裏に刻み込まれた。
生前の志村は、前述にもあるように控えめで極めて温厚な人物であったが、近隣住民には積極的に挨拶を交わしたり、地元のイベントに顔を出すなど東村山市民とも交流を図っていた。このため、近隣住民のみならず、志村との交流経験のある市民や面識はなくとも志村を慕う市民たちからは、その死を惜しまれ、一時は志村の自宅や実家への献花が絶えなかった。
ドリフターズのメンバーにはイザワオフィスから訃報が伝達されたが、全員一様にショックを受けていたという。
メンバーでは歳が近く、特に親しかった加藤茶は「ドリフの宝、日本の宝を奪ったコロナが憎いです。皆さんも身近に感じて、気を付けてくださるようお願い致します」 とコメント。追悼番組では気丈に振る舞い、弔事を読んで笑いも取っていたが、放送後は妻に「志村が40年以上一生懸命やってきたことが、たった2時間で終わってしまうのかと思うと苦しく悲しい」という旨を漏らしたり、家ではその死を受け止めきれず、涙を時折流していたという。
仲本工事は「ドリフも順番に逝く歳になったとは思ったけど、一番若い志村が長さんの次になるとは……。非常に悔しいです」 と語った。
高木ブーは志村けんの逝去前には「元気になってまた4人でドリフをやろう」とコメントしており、没後は「志村早すぎるよ、俺より先に逝くなんて。3年前に、久しぶりにドリフでコントやった時、『高木さんも80歳過ぎて、頑張っているんだから、自分も頑張らなきゃなぁ』って言っていたよね。また一緒にコントやりたかったのに。心よりご冥福をお祈り申し上げます」と話した。追悼番組ではコメントを熟考しすぎて黙り込んでしまい「寝ていただろ!」と加藤に突っ込まれたが「志村は死なないの」と最後に締めを飾った。
師であるいかりやは72歳で亡くなったが、志村はそれよりも2歳早い逝去となってしまい、天国で再会すればさぞや盛大に悔し泣きをして「バカヤロー!!」と散々責め立てるに違いない。とSNS上で言われている。
また、二人の兄は先の通り逝去時点では存命で、新年会などで顔を合わせていた。
そして僅か2年後の2022年5月11日には『バカ殿様』でも共演し、プライベートでも親しく後輩芸人としても特に可愛がっていたダチョウ倶楽部の上島竜兵が死去。
SNS上では天国で志村さんが「バカヤロー!!」と叱り飛ばすに違いないといったTLが上がった。
更に同年10月19日には仲本工事までもが前日18日の交通事故による負傷が元で急逝してしまう。これにより2024年現在ザ・ドリフターズのメインメンバーで存命なのは加藤茶と高木ブーの二人のみとなった。
彼の死は日本の芸能界のみならず諸外国でも衝撃は大きく、アメリカでは「ジャパンのチャップリン」、ヨーロッパ・韓国・タイのメディアでも大きく報道され、台湾の蔡英文総統からも志村に敬意を表して、「志村けんさん、国境を超えて台湾人にもたくさんの笑いと元気を届けてくれてありがとうございました。天国でもたくさんの人をきっと笑わせてくれることでしょう。ご冥福を心からお祈り致します」と、日本語によるお悔やみのコメントが発せられた。
更にスポーツの世界でも、現役時代に「アイーン」を使用した横浜DeNAベイスターズのアレックス・ラミレス監督、同世代の福岡ソフトバンクホークス・王貞治球団会長、高校のサッカー部の後輩にあたる川崎フロンターレ・中村憲剛選手らがコメントを発表している。
各局の追悼番組
- NHK・・・志村が『ファミリーヒストリー』『鶴瓶の家族に乾杯』『となりのシムラ』に出演した回・看板番組を放送。
- フジテレビ・・・ドリフの既存メンバー3人と研ナオコ、いしのようこをスタジオに招き『ドリフ大爆笑』『志村けんのバカ殿様』『志村けんのだいじょうぶだぁ』の名シーンを放送。更に『ダウンタウンなう』に出演した回を放送。
- TBS・・・『中居正広の金スマ』に志村が出演した回を未公開シーンを含めたうえで再放送。
- 日本テレビ・・・『天才!志村どうぶつ園』の内容を差し替え。
- テレビ朝日・・・『志村けんの激ウマ列島』・『志村けん聞録』の傑作選を『ありがとう志村けんさん 全国に笑顔を運んだ旅』というタイトルで放送。
- 24時間テレビ・・・2020年8月22日・23日の日本テレビ系チャリティー番組「24時間テレビ43 愛は地球を救う」内で、ドラマ「誰も知らない志村けん―残してくれた最後のメッセージ―」が(22日の夜枠に)放送された。「天才!志村どうぶつ園」のテレビディレクター(演:ジャニーズWESTの重岡大毅)を中心に、番組企画段階から始まり仕事を共にしたスタッフや共演者たちが見た志村けんの素顔や人柄をドキュメンタリー風に再現したドラマとなっている。志村けん役は相川裕滋(ドラマの始めにあるテロップや演者の雰囲気より)が演じ、顔を直接映さず横や後ろなどのアングルで映したり、光で顔を隠したり、ピントをぼかしたりと徹底的に顔を見せない演出が話題となった。また本人出演で嵐の相葉雅紀、ダチョウ倶楽部の上島竜兵と肥後克広など、志村けんと縁のある芸能人たちとのエピソードも紹介される。
いずれの番組も視聴率が高く、多くの国民に愛されたコメディアンが失われたショックは大きかった。
死後
- 一部報道では「行き付けの飲食店が、自粛要請により苦境に立たされていたのを見かね、多額の金を落としに来訪していた」と伝えられた。なお、志村の接触先については各機関が調査を行っている。
- 自身のタイトルである『天才!志村どうぶつ園』はタイトル名を変えずに放送を9月まで継続、16年間続いた長寿番組として幕を閉じた。後任のMCは相葉雅紀に受け継ぐことになり、後に『みんなの動物園』へと変わった。なお園長の肩書きは永久欠番として扱われていた。
- 『志村でナイト』は予定通りに終了。もともとはその後出演者の一部を入れ替えた上で『志村友達』を放送する予定だったが、彼の死去により番組内容を変更し、深夜時代のコントを振り返る番組となった。志村の深夜番組シリーズとしては珍しくゴールデンでは特番が組まれたことも。
- 映画『キネマの神様』に出演予定だったが、生前に新型コロナウイルス肺炎発症の為出演辞退し、その後に逝去した為、俳優としての映画出演は幻となった(後に親交ある沢田研二が志村の役を受け継ぐ事に)。なお連続テレビ小説『エール』は生前、収録に参加しており、逝去後志村の出演をカットせず放送され、初登場した5月1日の放送ではOPで追悼テロップが表記されていた。ちなみに第1話が放送された数時間後に志村の訃報が速報で伝えられた。
- 芸に使ったカツラ含む衣装や小道具、本人の私物の展示及び、年表や実物大バカ殿様人形、タライ落とし撮影ブース、開催都市の有名店や志村本人が愛用していたブランドのコラボ商品を取り扱うグッズショップひーちゃんの高級ブティックと言った志村けんのありとあらゆる記録が集まった『志村けんの大爆笑展』が開催された。当初は大阪、東京、宮城、石川の4箇所での開催だったが、大好評のあまり、更に4県での追加開催が決定。さらに仲本工事が多くの会場で一日店長を務めている。
- 『ドリフ大爆笑』や『志村けんのバカ殿様』などは志村の逝去後も総集編として不定期で特番が放送されており、前者は3人のドリフメンバーと若手や中堅のお笑い芸人達が当時のコントを再現や現代風にアレンジしている。
- 死後、生まれ故郷の東村山市にて市民と行政が手を組んで「志村けんさん銅像プロジェクト」をクラウドファンディング実施。
期間中、日本のみならず世界中から約6000人程の支援が集まり、1977年に東村山市の名を広く知らしめた功績を称え市が感謝状を送られたのをきっかけで植えられた志村けんの木の前に青銅像が2021年6月に完成し、袴を着てのアイーンのポーズをしたその姿と功績が末永く残る形となった。
生まれてから死ぬまで一貫してコメディアンと独身を貫き、誰にも真似できない喜劇や数多くの独創的なキャラクターを生み出した彼は多くの後輩や芸能人、更には日本中の大人から子供まで愛され、慕われ、笑われながら、伝説の笑いを残し70年にわたる笑いの人生に幕を下ろし、いかりやと荒井の待つ天国へと旅立っていった。
評価
『東村山音頭』でのブレイク以降は、派手で強烈なギャグを放つ子ども達のスターとして人気を集めた。
『全員集合』が終了し、ソロでの活躍が目立つようになってからも、お笑いの研究を終生怠らず、独自な笑いを確立する。しかし番組の長寿化などによりマンネリ化が進むと「志村と共演者の内輪的な馴れ合いになっている」という批判も寄せられた。ただし、これについては"偉大な大先輩"である志村に対し、後輩側の芸人たちが萎縮してしまっていた、という事情もあった。
- 志村本人は「突っ込みの時にもっと叩いてこい」と発破をかけていた。これは志村自身が、「全員が先輩というドリフターズメンバーの中において、突っ込みを容赦なく入れていた」経験からくる助言だった。加藤茶曰く、なんとボーヤ(付き人)時代からやっていたといい、加藤はその意気込みを高く評価していた。ところが突っ込みを買っていた田代まさしの逮捕以降代わりのダチョウ倶楽部などからは「恐れ多くてできません」と断られてしまい、志村は複雑な気持ちを晩年まで抱えていた。
- このためなのか、浜田雅功が共演時に見せる過激な振る舞いについては「オレを殴れるのは浜ちゃんだけ」と好意的に評価し、「事前にちゃんと挨拶に来ているから、お互いにわかったうえでやっている」としている。事情を知らない番組の共演者が浜田の志村に対する突っ込みに苦言を呈し志村が浜田を庇う、といった事もあったらしい。
- 一方で若手を軽んじることはなく、若手の芸を積極的に褒めたり普通に楽しむ姿を見せたりして、彼らからも多くを学んでいた。
- 生涯コントにこだわっており、晩年はコント番組そのものが少なくなっていたことから雛壇芸人やクイズ番組が闊歩するバラエティ業界に苦言を呈することもあった。氏の没後、視聴率調査のリニューアルや制作体制の変化(コロナウイルスの感染防止から、雛壇系のバラエティ番組の製作が難しくなった)から『有吉の壁』に代表されるコント番組やコント芸人が台頭するようになった。テレビのお笑い界ではベテラン芸人が居座る状態から「死んでもらわないと困る」と冗談交じりに言われることが多いせいか、何とも言えない皮肉である。
- 別局での単発番組では一風変わったものを提供する一方、「バカ殿」や「変なおじさん」など、自分の有名なギャグキャラについては大事に演じていた。特に婆さんキャラ「ご存知!じいさんばあさんのばあさん」「ひとみ婆さん」を演じた志村はばってん荒川・桑原和男と並んで有名だった。
- 仲本工事は加藤と志村を比較して、加藤は意識せず笑いを醸しだし、自然に周囲の空気を和ませる存在であるのに対し、志村は誰よりも新しい笑いに貪欲であったとして「加藤は天才、志村は秀才」と評している。
主なギャグ
ブレイク後は多くのギャグを生み出している。
志村をスターダムにのしあげた有名なネタ。現在はやや風化しているが、志村の歌唱曲と言えばこれというファンも多い。
故郷である東村山が作った音頭をアレンジしたもの。本来は存在しない「東村山○丁目」について歌い上げる。
三丁目と一丁目はいかりやと志村が作詞(二丁目は語呂の悪さor多忙に付き存在しない)した。番地が変わるごとに志村の衣装と曲調も変わる。
最も盛り上がるのが一丁目で、下品な格好(例:股間に白鳥の首を付けたチュチュ)となった志村が「イッチョメイッチョメ、ワーオ!」と客を囃し立てていく。これには観客も手拍子とともに大盛りあがりだった。
- カラスの勝手でしょ
『七つの子』の替え歌。元は子どもが歌っていたのを見てそれを拾ったとのこと。七つの子の本来の歌詞を市民達から忘れさせるほどに強烈な替え歌ギャグだった。
他にも志村は童謡の替え歌を多く行っていたが、ここまで影響力を与えたものは他にない。流石に飽きた志村が一度やめた所、視聴者から「子供が寝ない」と苦情が殺到したという(今ならば「親御さん、それはないだろう 子どもの勝手でしょ」とでも言うだろうか)。
- お前、それはないだろう
志村にとっては最古参レベルのギャグで、メンバー加入直後から使用。いかりやに反撃する時のギャグとして使われた。東村山音頭が流行る以前はまったく注目されなかった。強気に言い返すバージョンが主だが、殿様口調で声を震わせながら言うバージョンも有名。全員集合全盛期以降はあまり使わなくなったこともあり、現在ではあまり知られていない。
- アー・ミー・マー
一人称の変格「I・MY・ME・MINE」とビートルズの曲「I Me Mine」から着想を得たギャグ。日本人の使う英語の発音の拙さを逆手に取ったもので、実際PTAから目くじらを立てられた。
- アイーン
本人が「ただのポーズ」と語る、志村を代表するネタ。コントで怒られる際によくとっていた「怒っちゃやーよ」のポーズが発祥の説もある。実は発音に関しては後輩芸人がそれっぽいものを付けたもので、テレビ番組でそれが広まったことを受けて志村が取り入れた。
- うれしいなあ
ダンス系ギャグ。「カッコイイ」、「痺れる」などと褒められると「嬉しいなあ」と言って立ち上がる。そして、へっぽこな雰囲気のBGMとともに両腕をハキハキと振った後、右手を頭の上で開いてからもう一度「嬉しいなあ」と照れる。妙にキレのいい振り付けとニヤけた志村の顔が笑いをそそる。元々は持ちネタの一つだったが、後年はバカ殿で使うギャグとして用途を絞っていた。また、最後のポーズで「照れるなあ」と言うバージョンもある。
実は志村発のもの
最初はグー
現在でも当たり前のように使われているじゃんけんの「最初はグー」を考案したと本人が語っている。曰く、全員集合時代に飲み代を払う際、誰が代金を出すかをじゃんけんでいつも決めていた。しかし酔いが回りすぎて皆じゃんけんのタイミングが合わず、そこで志村が最初はグーと合図したのが始まり。これが何度か続き、面白いからネタとしてやってみようとなったのが、仲本工事とのじゃんけん決闘である。(最初はグー!→またまたグー→いかりや長介頭がパー!→正義は勝つ!→ジャンケンポン!で馴染み深い世代も多いかもしれない。)
ビデオ投稿コーナー(First Youtube)
バラエティ番組での「家庭用ビデオカメラによる素人が撮影した面白映像投稿コーナー」の発案者である。全員集合が終わり、カトケンを始めるとなった際に、志村が番組の目玉として提案したのが始まり。
当時はまだまだビデオカメラが一般に普及していない時代で、スタッフからは「ネタが集まらないから上手くいかないだろう」と反対の声が強かったが、志村は自分の案をあえて押し通した。
結果的には、面白アクシデントなどを中心に投稿が増え、番組の名物コーナーとして成長していった。これを見た他番組は勿論、海外のテレビもこの当時は斬新だったやり方に追随し、テレビの定番コーナーとして定着するようになったと言われている。
後にこの企画はアメリカのテレビ会社にフォーマットが買い取られ、現在でも続く長寿番組として人気を博すこととなった。現在では素人の動画投稿の先駆けとして「First Youtube」と称され、現在まで続くネットへの「個人撮影動画投稿」の原点とみなされている。
友人・交流関係など
志村はドリフターズの他、自身で「志村ファミリー」と称する、所謂「たけし軍団」のようなものを構築していた。ただし一般的に言われる◯◯一門などと比べるとそこまで厳格なものではない。志村曰くドリフターズでの影響から、誰かを必ず側においてコントするという。
加藤茶
志村が生前「師匠」とまで称した、ドリフターズでの先輩にして最高の相棒。
「志村は俺がどんな風にボケても必ず上手く突っ込んでくれる」と加藤が言うように、コントの打ち合わせをすればツーカーで話せていた程息が合っていた。ちなみに、このエピソードから「カトケンコンビは加藤がボケで志村がツッコミ」とされがちだが、コントでの役割はころころ変わっており、志村がボケても超一流な点も評価している。
加藤の嫁である綾菜は、志村について「年の差婚について否定的な目を向けられることもあった。その中で志村は報道では「馬鹿にしていた」とされていたが、綾菜曰く「ひっそりと祝福してくれた」とのこと。さらに生前は会えない時期でもしばしば電話でやり取りしていたという。加藤が追悼番組の弔辞で『大好きな志村』と言ったように、志村から電話がかかってくると、加藤はいつもニコニコしていた」と綾菜は語っている。
いかりや長介
志村は途中からソリが合わなくなり、生前にいかりやのことを快く語った場面は少ない。が、いかりやの方は志村のことを非常に気にかけていて、いかりやの死去前にはドリフメンバー、特に志村と加藤の存在に感謝するメモを残している。志村自身はわだかまりから「いかりやさんはリーダーだが師匠は加藤さん」とかつてコメントしていた。しかし、『金スマ』でいかりやの思いを知った後は「自分の師匠として間違いはなかった」と、いかりやの師としての影響力を認めている。
沢田研二
志村とは長年の親友。よくコントで共演し、息が合ったコンビネイションを発揮している。本来なら志村が主演することになるはずだった映画『キネマの神様』において、彼の遺志を継いで主演の1人を務める事になった。
研ナオコ
コメディエンヌとして志村とは長年の良きパートナー。新婚三択込みの夫婦コントや「バカ殿」シリーズなどで、お茶の間を長きにわたって沸かせ続けた。「けん♀♂けん」としてデュエットCDを発売したこともある。
プライベートでも家族ぐるみで交際があり、志村の愛犬の1匹「イチロー」は、志村の父の愛犬とナオコの愛犬の間に生まれた子どもだった。死後に放送された志村友達スペシャルでは、ドリフ大爆笑のOP再現で志村けんの代役を担当し、薄毛のヅラまで被っている。
田代まさし
志村けんの弟子と言えばこの人。笑いの才能を見出されて誘われ、コメディアンとしての道を歩む。彼が盗撮や薬物事件で捕まるまではコントの相棒として非常に重宝されていた。
バカ殿のコントで「ツーカーの仲」というネタがあるが、志村的にはそれほど見込んでいたのかもしれない。
しかし数度逮捕されるうちに、後輩の面倒見が大変良い志村ですら距離を置き、死ぬまで再会はなかったようである。それでも志村は自身の「だいじょうぶだぁ」「バカ殿」のビデオソフトから彼の出演部分をカットしないよう依頼していたなど、完全な拒絶には至っていない。
死後、田代は「自分が死ねば良かった」「あの世でまた会えたらコントをやらせて欲しい」と明暗が極端なコメントを寄せた。
ファンの間では、今でも志村の相棒と言えば加藤茶とこの田代を推す声が多く、実際、志村に暴力的なツッコミや掛け合いができるのは主に田代で、この点から信頼されていたと見られる。
桑野信義
『バカ殿』や『だいじょうぶだぁ』などに出演した最古参の存在。特にバカ殿では東八郎の死後に筆頭家老の役を受け継ぎ、現代まではまり役として認識されていた。舞台にも出演するなど、弟子を自認する人間としてずっと志村に付き従ってきた。プライベートでの交流はあまり取り沙汰されないが、志村も頭角を表していた桑野には信頼を置いていたようである。志村の訃報はやはりショックが大きかったようで、ツイッターでは困惑の声を寄せている。
ダチョウ倶楽部
田代の後釜として抜擢、志村けんに見出されてからは『だいじょうぶだぁ』などにも出演するようになり、三人様々な役柄を当てられるようになった。特に上島竜兵は志村に頭が上がらず、いじられ役であることもあってよく目にかけられていた。ダチョウ倶楽部は志村のことをよく「師匠」と呼んでいた。
優香
後期のコメディエンヌとして有名な相手。可愛い系の美貌を生かしたコントが多く、『バカ殿』では「おバカ姫」こと「優香姫」として殿の幼馴染として出演するなどし、「だいじょうぶだぁ」では志村が扮する中年や変なおじさんの被害者などをよく演じた。ちなみに志村が死去した数ヶ月後に第1児を出産した。
いしのようこ
志村が「よく笑うから」という理由で『だいじょうぶだぁ』の参加を打診した。本人は受けるつもりがなかったが、「勉強のつもりで数ヶ月付き合って欲しい」として半ば強引に番組へと引き入れた。
しかし決めたはずの期限を越えても卒業させてもらえず、長らく『だいじょうぶだぁ』のバラドルポジションとして君臨した。一時期同棲していたなどの報道もあるが定かではない。いずれにせよ、結果的に志村ファミリーの中では、研ナオコと同じく古参な女優となった。
その他、共演が多かった人物
柄本明
本業は俳優だが、志村との二人コントを度々行っていた。芸者コントが特に有名である。柄本は最初志村からコントの相手を指名された時は「試されているようで怖かった」と明かしている。なお、志村が俳優業には当初は手を出さない主義だったのに対して、柄本は志村以外とは一切コントはやらない主義である。実は、この二人がやるコントはほとんどアドリブだという。逝去の報を聞いた柄本は大きく落胆し、「話せる様子ではない」と関係者から返答が来る程だった。
吉幾三
彼も志村との共演が多く、ドリフ時代からお決まりとなる「本当にお酒を飲みながらのコント」などを行っている。バカ殿では「怪しい霊媒師」「津軽のお殿様」として登場して猥談混じりのトークとコントを行っていた。志村の死後はすっかり意気消沈し、追悼コメントにもその落胆ぶりが現れていた。
浜田雅功
先の通り「自分を唯一殴れる相手」として信頼を置いていた相手。『ダウンタウンDX』『芸能人格付けチェック』では何度も殴ったり、「志村」「お前」「ハゲ」呼ばわりするなど苛烈ないじり方をすることも多々あった。若かりし頃は相方の松本とともにバカ殿出演を果たしている。最後の共演となったのは2019年のバカ殿であり、ドッキリ仕立てのコントで殿の代役として登場。当時は単なるネタにすぎないものだったが、皮肉な事に志村の最期を予言したようなものとなってしまった上に生涯最後のコント共演となった。一見志村を軽んじているように見える浜田であるが、実際はかなりのドリフファンであり、志村には共演の際は楽屋への挨拶を欠かさずにいた。志村の死後には志村の偉業と素晴らしさを語っていた程。ドリフ最後の集結となったOPの収録時、たまたま隣のスタジオで撮りがあった浜田は、「ドリフのOPを取り直している」と聞きつけて、収録の合間を縫ってそれを拝みに来るほどだった。実際メンバーの前では凄く低姿勢だった。
なお、相方の松本は志村を尊敬を通り越して畏怖していたらしく、ほとんど志村に浜田のようなツッコミはしておらず特に若手の頃は浜田が物怖じせず志村をいじる光景の側で松本は内心ハラハラしていたらしい。
岡村隆史
自身の動き、顔芸はほとんど志村のパクリと断言するほど志村を尊敬していた。志村本人も『しゃべくり007』出演時に2代目志村けんとして岡村を指名していたほど。
初共演は夕方枠の『ぐるぐるナインティナイン』で、その後相方の矢部と共にバカ殿出演を果たしている。また、正月特番『志村&鶴瓶のあぶない交遊録』では、2001年より始まった「英語禁止ボウリング」に矢部とのコンビで志村、鶴瓶の対戦相手として18年間レギュラーで出演。志村もぐるナイのほか、『めちゃ×2イケてるッ!』に何度かゲストで出演し、2012年には2代目変なおじさんを決める「変‐1グランプリ」が開催され、志村が審査員長を務めた。このコンテスト当時、雑誌『CIRCUS』の企画で岡村と対談しており、その時に2代目バカ殿襲名を懇願していた。2016年放送の単発特番『6人の村人!全員集合!』で共演した際も2代目バカ殿襲名を懇願している。
逝去の際は現実を受け止めきれないほどのショックを受けたようで、4月2日放送の『ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン』で約80分の長尺を割き、志村との思い出を語っていた。
三村マサカズ
志村は三村のツッコミを高く評価しており、2007年の『ザ・ドリームマッチ』では自らコンビ相手に三村を指名。
自身のコントでも使った「CM撮影」のネタを披露し、見事優勝を果たした。
志村の逝去時も三村はTwitterで「ドリームマッチで、志村さんと優勝したのが最高でした。ありがとうございました。。。」と哀悼の意を表明した。
ビートたけし
『全員集合』時代は、互いに番組的にはライバルだったが、『神出鬼没!タケシムケン』での共演を機に、お互いを尊敬し合う仲となった。同番組では、志村の三味線に合わせてたけしがタップダンスを踊るというパフォーマンスも行われた。たけしはこの以前から、志村をはじめ、ドリフターズに好意を持っており、「ひょうきん族」の視聴率が「全員集合」の視聴率を抑えていた時期に廊下で行き会った際、「すいません」とたけしの側からつぶやくように言われた旨が志村の自伝で明かされている。また、「たけし軍団はドリフターズを意識して結成した。こんなバカな人間が大変な賞をもらった事に、初心に帰ってバカをやらないといけない」とカンヌ国際映画祭のインタビューで話している。
逝去した際は「ノイローゼになるくらいショックだった」「何もこれ(ウイルス)で死ぬことないじゃんかって思うよね」と語り、ドリフの笑いがいかにすごいものだったのかを視聴者に説明するなどして、自身のニュース番組で故人を偲んだ。
パンくん
冠番組天才!志村どうぶつ園で知り合ったチンパンジーの男の子。
生涯未婚で子どもが居なかった志村が我が子のように可愛がっており、パンくんが問題を起こした際も終始パンくんを庇い、志村の死後番組共演者からも「子育てを見ているようだった」「(パンくんがいる)熊本に家買うんじゃないか」と言う声が出る程溺愛していた。
パンくんにさまざまな芸を教えており、志村もまたパンくんのリアクションを学んでおり我が子のような存在であると共に切磋琢磨した芸人仲間としての側面もある。
パンくんの娘プリンちゃんには初孫が出来たかのようにデレデレだった。
タカアンドトシ
『天才!志村どうぶつ園』や『バカ殿』などに出演したお笑いコンビ。『天才!志村どうぶつ園』で志村けんと共演している姿を目にした事が多い方は多いのではないか。
実は代表芸「欧米かっ!!」について、志村けんへ相談したエピソードがある。「欧米かっ!!」で一躍ブレイクを果たしたタカトシは、期待に応えていく悩みと“飽きられたら終わり”の不安を抱えていたという。そのことで志村けんへ「僕ら『欧米かっ!!』しかなくて、僕ら次作らなくちゃいけないんですか!?」と質問し、志村は真面目に「1個で良いんだよ、それ大切にしろよ。俺だって変なおじさんとバカ殿だよ。(俺も)それ大切にしてやってるんだよ。ずっとやることが大事なんだよ」とアドバイスしたという。
2人はその言葉を受け自信を付けることができ、心の底から感謝している(ちなみに志村は2つしかあげていなかったが、実際はもっとあるはずなのにと2人は内心突っ込んではいたらしい)。いずれにせよ、志村の芸は「全員集合」時代からの定番のものが多く、同じく長く持ち芸を使っているたけしとともに、近年の一発芸を主流とし、かつ定番のお約束ネタとなる前に次のネタへ走ってしまう風潮には疑義を呈していたとされている。
役者として
いかりや長介や荒井注を始めとするドリフターズの殆どがドラマ、映画等に出演する中、志村だけは俳優業に長い間、取り組むことは無かった。これは当時の志村曰くコメディアンは視聴者からのイメージが大切という信条を定めており、映画やドラマに出演するとコメディアンとしては似つかわしくない印象が出てしまい、イメージも悪くなると考えており、ドラマや映画出演は一切引き受けなかった。が、決して俳優の腕が無かったわけではなく「だいじょうぶだぁ」のシリアスサイレント劇は当時はその意図こそ明かして無かったもののシリアスな演技を度々見せていた。
そのため、当時フジテレビで人気を博していた古畑任三郎の犯人役のオファーも、時代劇の出演依頼も断として断り続けていた。これを気にした先輩の加藤は「自身も役者として活躍したこともあったが世間からの印象は変わらず、逆に好印象に上がった」とフォローしたが、それでも志村は「コメディアンとして活躍する以上、コメディアンとして生き続けなければならない」とコメントした。
ただし、1999年に公開された鉄道員には脇役として出演している。これは、主演の高倉健から直々のオファーがあり、「志村さんの演技を是非見てみたい」と依頼され、志村は「高倉さんからの依頼からじゃ断れない」と判断し、とうとう首を縦に振り、映画出演を引き受けた。その結果、観客からは「映画に出てる志村さんも面白い」と高評価のコメント残した。
それ以来、志村は俳優業には手を出さず、長きに渡りコントやバラエティのみに専念していたが、70代を目前にして、お笑い、音楽、アニメ出演を経験した志村は新たな目標を模索し始め、長年固辞し続けてきた俳優業について考え始めていた。
そんな矢先、NHKの連続テレビ小説エールにおいて、物語のキーパーソン役のオファーが舞い込む。それに対し志村は快く引き受け、俳優業としての第一歩を踏み始めた。さらに、2020年公開予定の山田洋次監督のキネマの神様の主演に抜擢され、俳優としての活躍を大いに期待されようとしていた。
ところがその直後の3月17日に志村が新型コロナウイルスに感染した事が判明。その結果、感染拡大防止の観点から志村自ら映画出演の辞退を申し出た。それでも監督の山田洋次は「この映画は志村さんでなければ制作出来ない」とコメントし、いつ復帰してもいいように内緒で志村の役は残しておいた。
しかし、そんな山田らの願いは叶わず、志村は3月20日に容体悪化により急逝。結局、志村は最後まで俳優としてのキャリアを積む事は出来なかった。また、生前志村は機会があれば悪役もやってみたいとコメントしており、少なくとも俳優業に前向きに取り組む姿勢は十分にあった。
その訃報を知らされた山田洋次は「彼の演技を一眼見ておきたかった。その演技が見れなかったのが残念」とコメントし、同じく共演予定だった菅田将暉からも「志村さんと一緒に映画に出たかった」と悲痛なコメントを残した。
その後、彼の役は沢田研二に引き継がれ、沢田自身も「志村さんの意思を引き継いで頑張っていきます」とコメントし、亡くなった志村の志を掲げながら映画出演に取り組む姿勢を見せた。
一方、NHKのエールについては志村のシリアスな演技を見たスタッフが心を打たれ、志村以外には考えられないと判断し、彼の後任役は立てずナレーションとダイジェストによって処理され最終回まで彼の役は変えられる事は無かった。
余談
- ビートルズの日本公演の際、公式には映像・写真・音声が記録されていないとされる中、なんと彼は隠し撮りしたその公演時(1966年)のポール・マッカートニーの写真を持っていた。公に公開された中で、恐らく唯一の貴重な記録写真といえる。ちなみに公演2日目のもので、前座(公演初日)のザ・ドリフターズとは運命的なニアミスであった。漫画「銀魂」ではよくネタにされていた。
- 志村は笑いのヒントをアメリカのコメディアン(ジェリー・ルイスなど)から得ており、言葉ではなく、動きや表情で観客を沸かせることを重視していた。イギリスのコメディアンで、日本でも人気を博した”Mr.ビーン”、ローワン・アトキンソンとの類似性についてもしばしば指摘されたが、本人曰く「芸風は似ているようで違う」らしい。
- アクションで魅せる志村の芸は「何を言っているかはわからなくても、とにかく笑える」ため、日本で生活する外国人をも惹きつけた。言葉の通じない異国での孤独や悩みを『笑いで吹き飛ばしてくれたマイヒーロー』と語る人は多い。また、近年ではYouTubeに投稿された動画で志村を知ったという若い世代のファンも増えており、逝去の報道に対して、偉大なコメディアンの存在を惜しむ声が国境を越えて寄せられた。
- 「カトケン」内のビデオ投稿コーナーは人気を博し、他番組にも影響を与えたが、一方で”ウケるアクシデント映像”を撮ろうとするあまり、わざと危険な状態に子どもを置いたままにするなどの問題行為も頻発、素人ビデオのブームに冷や水を浴びせた。2000年代のバカッターなどにも通じる問題だと言える。
- 彼は、生前日本国内で死亡説が何度も流れたことも有名な人物である。ちなみに本人は知らなかったらしく、健在である事を表明して沈静化していった。詳しくは死亡説を参照。
- 50代を過ぎた頃から健康オタクになっていたことはファンの間で有名で、健康にまつわる本も出している。その一方で肺炎になるまで先の通りヘビースモーカーを貫き、毎夜の仲間を呼んでの宴会はやめられなかった。逆に言えばそれらの趣味を楽しむため、できる限りの健康に気を遣っていたとも言える。
- 格付けチェックでは映す価値なしの常連でありながら一流を経験した数少ない人物であった。また、2020年の格付けチェックお正月スペシャルでは和田アキ子に続いて絶対ありえへんを選んで映す価値なしになった。しかし、このときすでにそっくりさんだったため、正解を選ばなければ消えてしまう状況であった。なお、格付けチェックでテレビに映ったのはこれが最後であった。
- 戦国大名である甲斐武田氏の家臣として有名な山県昌景の家臣には志村氏が多くいるが、その内の「志村又左衛門貞盈」という人物が志村けんの先祖である可能性がNHKの「ファミリーヒストリー」での調査で推察された。
- ボーヤ時代は貧乏で月給は僅か2万円程度であり、そのうちの大半は下宿先の家賃や光熱費等に消え、実家も療養中の父親の治療費で手一杯だったため、仕送りも来なかった。その上、一週間の殆どがドリフターズのネタ合わせや地方巡業、プライベートでの世話などで埋め尽くされており、アルバイトをする余裕すら無かった。そのため食べ物にも事欠く程でメンバーが楽屋でラーメンを食べている中、志村はラーメンを注文する金もなくメンバー達が残したラーメンを集めて作った一杯分のラーメンを同じボーヤのすわ新治と共に分けて食べていた程だった。ある日、メンバーがラーメンを食べている中、志村はライスだけを注文しメンバーが残したラーメンの中にライスを入れて食べようとしたところ、メンバー全員がスープまで飲み干してしまい、師匠の加藤まで平らげてしまった。すると志村は「加藤さん。このライスの立場はどうなるんですか!」と激怒した。結局このライスは楽屋にあった塩をかけて塩ごはんとして食べた。このことを加藤は未だに覚えているという。なお、加藤の付き人になった際は一時期加藤の自宅に居候していたが、志村は運転免許を持っていなかったため、加藤の運転する車で居眠りしたり、加藤を差し置いて加藤の母に晩御飯を用意して貰ったり一番風呂に入ったりと大物ぶりを発揮していたとのこと。
- 元々コメディアン志望で、メンバー内ではさほど音楽との関わりは薄かったが、ドリフ加入時にキーボードを弾いていたことはあった。また、学生時代はビートルズに傾倒して髪型を真似ていたり、ソウルミュージックに精通していたりと、音楽に縁のある一面も見せた。独学で学んだ三味線もプロ並みであり、数々の舞台の他、2016年のキリン氷結のWEBムービーCMでも披露している。https://www.youtube.com/watch?v=oqO6hppP72E
- 死後、コロナ禍に便乗する形で志村の死を持ち出して自粛を強要したり特定の人物を誹謗中傷したりする過激派が現れており、中には志村の死を利用したデマで無実の人間が被害に遭うケースが起きるという悲しい事態も発生した。こちらを参照。
参加作品
声優出演
飛べ!孫悟空 (1977年-1979年)・・・そんごくう役
西遊記を原作とした人形劇。ドリフメンバー全員出演に加え、スーパーアイドルピンクレディーが主題歌・挿入歌などを担当した超豪華番組だった。
ロラックスおじさんの秘密の種(2012年)・・・ロラックスおじさん 役
(少年に抱かれている橙色の小さなおじさん役)
劇場版第1作『妖怪ウォッチ_誕生の秘密だニャン!』(2014年)など・・・マスターニャーダ 役
(志村けんの隣にいるネコ妖怪のおじいちゃん役)
俳優出演
鉄道員(ぽっぽや)(1999年)・・・吉岡肇 役
探偵佐平(2018年)・・・木野塚佐平 役
樋口有介の「木野塚探偵事務所だ」を原作とした長尺コント。ハードボイルドに憧れて探偵事務所を設立した、元警視庁経理課職員・木野塚佐平が迷推理と珍騒動を繰り広げる。
原作があるため一応俳優出演ではあるのだが、コントの作り方などは志村流の部分も多く(というより同局的には「となりのシムラ」的な作りも見られる)、これを俳優活動として数えるかどうかは微妙といったところ。
余談なのだが、ドラマの雰囲気がふなっしー探偵に似ている。
エール(2020年)・・・小山田耕三 役
結果的に遺作となった。作曲家・山田耕筰をモデルとした役柄で出演。志村けんの出演シーンはカットせず放送された。 そして終盤に奇跡と思える形で再登場する演出がされた。
関連動画
声優出演
CM出演
その他にも様々なキャラで多くのCMに出演された。
関連サイト(外部リンク)
- 志村けん - Wikipedia
- となりのシムラ - Wikipedia
- 志村けんのバカ殿様 - フジテレビ
- 志村けん|IZAWA OFFICE -イザワオフィス-
- 志村けんオフィシャルブログ「Kens BLOG」Powered by Ameba
- 志村けん - Instagram
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関連イラスト
" 笑顔は 子どもみたいにチャーミングです(2020年11月26日 Twitter・Instagram) "
関連タグ
カトちゃんケンちゃん:PCエンジン用ゲームソフト。
関連項目
志村まみ:「卒業-Graduation-」の生徒の一人。全員中一番子どもっぽい性格ゆえムードメーカー兼トラブルメーカーで、それ故に担当した教師全員の印象に残る生徒と、元ネタとなった人物を彷彿とさせるキャラである。
よくできた弟:志村には実兄(長男・知之、次男・美佐男)がおり、志村三兄弟の末っ子。学校の教頭だった実父・憲司の薫陶を受けた彼ら2人は地元東村山市の公務員(現在は定年退職した)になったのに対して、末っ子・康徳(けん)は言わずもがな時代・世代・世界をも超えたお笑いの神様となった。
岡江久美子:志村とは「だいじょうぶだぁ」内のコントにて夫婦役を演じたが、奇しくも新型コロナウイルス感染症による肺炎といった志村と同じ死因で、彼の逝去約1ヶ月後の2020年4月23日にこの世を去っている。