概説
1942年6月18日生まれ。出生名はジェイムズ・ポール・マッカートニー(James Paul McCartney)。
1960年代はビートルズのメンバーとして、「イエスタデイ」「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」などの名曲を生み出した。1970年代はウイングスのリーダーとして、1980年代以降はソロ・ミュージシャンとして、数々のヒット曲を世界に送り出してきた。1990年代以降はクラシック音楽も手掛けるようになっている。近年も高齢ながらエリザベス女王の戴冠50周年、60周年コンサートやロンドン・オリンピック開会式への出演などを果たしており、イギリスを代表するミュージシャンの一人であり続けている。
名前について
ファーストネームは上記の通り「ジェイムズ(ジェームズ)」だが、父親も「ジェイムズ・マッカートニー」なので、ミドル・ネームの「ポール」を普段は使用している。父親と同じなのは、労働階級のいわば習慣として、長男には自分のファースト・ネームを付けていたためである。なお、ポールも自身の長男(ミュージシャンとして活動中)にはジェイムズと名づけている。
ミュージシャンとしての特徴
ビートルズ時代から現在に至るまで、ステージではベースギターを主に演奏している。ポールの奏でるメロディアスなベースラインは、多くのミュージシャンに影響を与えたとされている。
しかし、ベース以外にもギター、ピアノ、ドラムス、シンセサイザー、トランペット、マンドリンなど、演奏できる楽器は多い。ビートルズ時代は「涙の乗車券(Ticket to Ride)」や「タックスマン(Taxman)」などで、ジョン・レノンやジョージ・ハリスンを差し置いてリードギターを演奏し、またリンゴ・スターがバンドを一時離脱していた時期にはドラムを担当したこともあった。ソロ・キャリアに於いても、1970年の『マッカートニー(McCartney)』、80年の『マッカートニーⅡ(McCartney II)』、2005年の『裏庭の混沌と創造(Chaos and Creation in the Backyard)』では、ほぼ全ての楽器を一人で演奏している。
ヴォーカリストとしては、ビートルズのメンバーの中では最も高く、また広い音域をもっており、多彩な歌声を聴かせる。
来歴
生い立ちからデビュー前
1942年6月18日、誕生。父ジェイムズ(通称ジム、1902-76)はセールスマンだったが、セミプロのジャズ・ミュージシャンでもあった(ピアノ、トランペット)。ジムの父、ポールの祖父であるジョー・マッカートニーもダブルベースやチューバ(E♭バス)を演奏していた。
1956年10月に看護師だった母メアリーが乳癌で死去。この直後にポールは処女作"I Lost My Little Girl"を作った。
翌57年7月にクオリーメンなるバンドのコンサートを見た。直後にバンドのリーダーと会い、数日後にはバンドに加入した。バンドのリーダーを務めていた少年こそがジョン・レノンである。58年にはジョンにジョージ・ハリスンを紹介し、ジョンが腕前を認めたため彼はバンドに加わった。
元々ポールはギタリストだったが、1961年にベーシストのスチュアート・サトクリフ(ジョンの誘いでメンバーになっていた)が脱退したため、ベースに転向した。なお、スチュアートは脱退から1年後、脳出血のため西ドイツ(当時)のハンブルクで夭逝した。
ビートルズ
ビートルズ時代はジョンと並ぶメイン・ヴォーカルとして、また、ジョンとともに多くの楽曲を作曲し、世界的な人気を獲得した。1966年ごろを境にビートルズの主導権をポールが握るようになっていった。
1968年末ごろ、ライヴ活動の再開を前提としたセッションを行う事を提案。セッションは69年1月に開始されたが、この中でジョージとの関係が悪化し、一時ジョージがバンドを離脱する事態にまで至ってしまった。明らかにやる気のない、1月のセッション・テープは放置とミキシングを繰り返した末、1970年5月にフィル・スペクターがプロデュースし、アルバム『レット・イット・ビー』として発表された。この事態にポールは憤慨したとされている。
私生活では、1963年から女優のジェーン・アッシャーと交際し、67年には婚約に至るも、ポールの浮気が原因で68年に婚約を破棄された。アッシャーは現在に至るまでポールとの交際について語る事を拒否している。
アッシャーとの婚約が破棄された直後、1969年3月にはアメリカ人の写真家、リンダ・イーストマンと結婚した。この数日後、ジョンはオノ・ヨーコと正式に結婚している。ポールは義父のリー・イーストマンをビートルズのマネージャーにしようと提案するも、他の3人がこれを拒否し、悪名高いアレン・クレインをマネージャーに据えようとし、訴訟問題にまで発展した。ポールがクレインと契約しなかったのは、ミック・ジャガーからクレインの悪評を聞いていたためである。
ビートルズ解散直後~ウイングス
ポールは1969年秋ごろからスコットランドの農場に引き篭り、ソロ活動の準備に充てていた。1970年4月10日にデイリー・ミラー紙上に事実上ビートルズを脱退する意向を表明、同月17日にはファースト・ソロ・アルバム『マッカートニー』を発表した。この経緯については、レノンからビートルズ解散を自分のLPの宣伝のネタにしたという趣旨の激しい皮肉のこもった批判を受けている。
翌71年にはアルバム『ラム』を発表。ヒットとは裏腹に、評論家たちからは酷評の嵐に遭った。
同年末に、ドラマーのデニー・シーウェル(Denny Seiwell)、ギタリストのデニー・レイン(Denny Laine)、妻リンダ(キーボード、コーラス)と共にウイングスを結成。アルバム『ワイルド・ライフ』を発表した。これまた酷評の嵐に遭う(一方、かつての盟友であったジョン・レノンはこのアルバムを好意的に評価していた)。ちなみに、リンダは元々写真家で、音楽的な経験や素養はほぼ皆無であった。ジョン・レノンの妻オノ・ヨーコは音楽を学んだ時期もあった事を考えると、ポールがリンダをミュージシャンとして起用した事は、見方によってはジョン以上の無茶をしたとも言える。実際、ウイングスを脱退したヘンリー・マッカロウやデニー・シーウェルは脱退の理由にリンダの存在を挙げた事もあった。ただし、リンダのコーラスはポールのソロワークには不可欠であったのも事実である。
ウイングスは、ポール、リンダ、デニー・レイン以外のメンバーは流動的であり、3人体制になった時期が2回ある。この時はマルチプレイヤーであるポールとデニー・レイン(キーボードやベースも演奏できた)を中心にレコーディングを進めた。しかしながら、73年にシングル「マイ・ラヴ」や映画「007」シリーズの主題歌「死ぬのは奴らだ」、アルバム『バンド・オン・ザ・ラン』を期に本格的に評価を高めると、70年代中期には絶頂期を迎え、ワールド・ツアーを成功させるなど、ポール完全復活を印象付けた。一方、ウイングスは1975年に来日公演を予定していたが、ポールに大麻不法所持による逮捕歴があったため入国を拒否され、来日公演は中止になってしまっていた。
1977年には、シングル「夢の旅人(Mull of Kintyre)」がイギリスで大ヒット。ビートルズの「シー・ラヴズ・ユー」を上回るセールスを記録した。
70年代半ばには、ジョン・レノンとの交友関係は回復しており、訪米時にジョンの自宅を訪ねることも何度かあった。
ウィングスのメンバーの変遷
時期 | メンバー構成 | レコーディングされたアルバム | 備考 |
---|---|---|---|
1971-72 | Paul McCartney(Vocals, Bass, Guitar, Keyboards);Linda McCartney(Vocals,Keyboards);Denny Laine(Vocals, Guitar, Bass,Piano);Denny Seiwell(Drums) | Wild Life | |
1972-73 | Paul McCartney(Vocals, Bass, Guitar, Keyboards);Linda McCartney(Vocals,Keyboards);Denny Laine(Vocals, Guitar, Bass,Piano);Denny Seiwell(Drums);Henry McCullough(Guitar, Vocals) | Red Rose Speedway | 『レッド・ローズ・スピードウェイ』から暫くは、バンド名の表記がPaul McCartney & Wingsに変更された。「McCullough」の日本語表記は「マッカロー」「マッカロク」「マッカーロ」などがあり、一定しない。 |
1973-74 | Paul McCartney(Vocals, Bass, Guitar, Keyboards, Drums);Linda McCartney(Vocals,Keyboards);Denny Laine(Vocals, Guitar, Bass, Piano) | Band on the Run | |
1974-75 | Paul McCartney(Vocals, Bass, Guitar, Keyboards);Linda McCartney(Vocals,Keyboards);Denny Laine(Vocals, Guitar, Bass,Piano);Jimmy McCulloch(Vocals, Guitar);Geoff Britton(Drums) | Venus and Marsの一部 | ジェフ・ブリトンは僅か7ヶ月で脱退。また、「McCulloch」の日本語表記は「マッカロー」「マッカロク」「マッカロック」「マカロック」「マクローチ」など、一定していない。 |
1975-77 | Paul McCartney(Vocals, Bass, Guitar, Keyboards);Linda McCartney(Vocals,Keyboards);Denny Laine(Vocals, Guitar, Bass,Piano);Jimmy McCulloch(Vocals, Guitar);Joe English(Vocals, Drums) | Venus and Mars,Wings at the Speed of Sound,Wings over America,London Town(一部) | 『ヴィーナス・アンド・マーズ』よりバンド名の表記がWingsに戻る。『ウイングス・オーヴァー・アメリカ』はライヴアルバム。 |
1977-78 | Paul McCartney(Vocals, Bass, Guitar, Keyboards, Drums);Linda McCartney(Vocals,Keyboards);Denny Laine(Vocals, Guitar, Bass, Piano) | London Town | リンダが産休に入っており、実質的にはポールとレインの二人で作業を進めた時期がある |
1978-81 | Paul McCartney(Vocals, Bass, Guitar, Keyboards);Linda McCartney(Vocals,Keyboards);Denny Laine(Vocals, Guitar, Bass, Piano);Laurence Juber(Vocals, Guitar);Steve Holley(Drums) | Back to the Egg | 元メンバーのジミー・マッカロックが79年9月に死亡 |
1980年代
1980年1月には、ウイングスの来日公演が予定されていた。75年の公演が中止になっていたため、日本のファンにとってはまさに待ちわびていたコンサートだった。しかし、よりによって成田空港にてポールが大麻を持ち込んでいた事が発覚し、大麻取締法違反容疑で現行犯逮捕された。当然公演は中止となり、ポールは起訴猶予、国外退去処分となった。その後、バンドはプロデューサージョージ・マーティンを招き、にアルバムの制作に取り掛かるも、80年末にはポールのかつての盟友、ジョン・レノンが射殺され、ファンやポール自身に追い討ちを掛ける形になった。これが引き金となりウイングスは活動停止、翌81年4月にデニー・レインが脱退を表明した為、自然消滅の形で実質的に解散する。
その後、80年代前半はスティーヴィー・ワンダーやマイケル・ジャクソンとの共演で話題を集めた。80年代後半はジョージ・ハリスンの復活の陰で人気が低迷するも、89年にはエルヴィス・コステロと共作した『フラワーズ・イン・ザ・ダート(Flowers in the Dart)』で人気を回復させた。
このアルバムの発表後、ポールは久々にライヴ活動を再開させ、この頃からビートルズ・ナンバーを積極的に取り上げるようになった。
1990年代
1990年10月には、待望の来日公演が実現。前述の不祥事により本来なら入国禁止措置が取られる筈だが、ポールの文化活動に対する世界的な貢献が認められ、特別に入国が許可された。ポールは93年にも来日公演を行う。
1994年には、ジョージ、リンゴと共に「ビートルズ・アンソロジー・プロジェクト」を進め、ジョンの遺したデモテープを基に「ビートルズの新曲」を完成させた。
1997年には、ナイトの叙勲を受ける。以後サー・ポール・マッカートニーと呼ばれることになる。しかし、98年には最愛の妻リンダが乳癌のため56歳で亡くなった。
2000年代以降
2001年に、ウイングス時代を振り返るドキュメンタリー作品『ウイングスパン』と同名のベストアルバムを発表。なお、アルバムにはウイングス時代以外の曲も収録されている。
2002年には全米ツアーを敢行し、同年11月にはソロでは3度目の来日公演を行った。その後、現在に至るまで、ポールは精力的にライヴ活動を行っている。同年、地雷撲滅運動を進める元モデルのヘザー・ミルズさんと婚約、のちに正式に結婚するも、2006年には別居、2008年3月に正式に離婚した。余談だが、これによりビートルズのメンバー全員が離婚経験者となった。
2005年にはアルバム『裏庭の混沌と創造(Chaos and Creation in the Backyard)』を発表し、久々に全英・全米チャートのトップ10を記録。2007年の『追憶の彼方に(Memory Almost Full)』、2012年の『キス・オン・ザ・ボトム(Kisses on the Bottom)』、2013年の『ニュー(New)』もそれぞれ全米・全英チャートの5位以内に送り込んでいる。特に最新作の『ニュー』については日本でも10月28日付の週刊アルバムランキングで初登場2位を記録し、アルバムランキングトップ10入りの最年長記録としてニュースになった。
時期は前後するが、2011年10月9日に現在の妻であるナンシー・シェベルさんと結婚。
2013年11月には、ソロでは4度目となる来日公演が大阪、福岡、東京で行われた。それからわずか半年後の2014年5月に東京、大阪でライヴを行う事が同年4月26日に発表されていた。来日直前には、ビートルズ時代の1966年以来48年ぶりとなる日本武道館での追加公演も発表されていたが、来日後にポールが体調不良に陥り、全公演が中止となってしまった。
ポールは比較的近い時期の再来日を熱望していると報じられていたが、2015年1月に、同年4月に来日公演を行うことが発表された。
2015年の来日公演は大阪ドーム、東京ドーム、並びに日本武道館で予定通り行われた。
2016年にはキャピトルレコードと再契約した。同年12月31日にNHK紅白歌合戦にビデオメッセージを寄せ、その場で2017年に来日公演を行うことを発表した。来日公演は2017年の4月末に組まれている。
2017年2月にはリンゴ・スターの新作のセッションに参加した他、同年3月末には自身のスタジオ・アルバムが制作中であることを明かしている。他方、同年1月にはビートルズ楽曲の著作権返還を求めて、音楽出版社ソニー/ATVパブリッシングをニューヨークの連邦裁判所に提訴した。同年7月には和解が成立したが、その内容は非公開とされた。
2018年にはアルバム『エジプト・ステーション(Egypt Station)』をリリースし、36年ぶりに全米1位を獲得した。また、同年にも来日公演を行った。
その他人物像
- サッカーのイングランド・プレミアリーグ、エヴァートンFCのファンである。
- 環境保護運動家としての一面がある。厳格な菜食主義者であり、動物愛護団体PETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会/People for the Ethical Treatment of Animals)の会員でもある。
- 日本以外でも1970年代から80年代にかけて、スウェーデン、スコットランド、バルバドスなどで大麻不法所持により逮捕され、たびたび罰金刑を受けている。本人は大麻はアルコールや煙草(ニコチン)ほど有害ではないと考えており、大麻を刑事罰の対象から外すよう訴えたこともある。
- 2003年、ワールド・ツアー初のロシア公演で、ポールはモスクワ・赤の広場でリリース当時からロシア国内で最も人気の高かった曲である「Back In The U.S.S.R.」を演奏しコンサートのハイライトとなった。そして、会場入りが遅れたプーチン大統領の為にアンコールで2回目の演奏が行われた。
- 2013年11月14日、20年ぶりに大相撲九州場所を観戦に訪れた。午後3時30分ごろ、十両取組の終盤から結びの後の弓取り式まで升席に於いてナンシー夫人と観戦した。ポールの観戦中、玉ノ井親方(元大関栃東)が解説を務めた。玉ノ井親方によればポールは横綱、幕内土俵入りを最も楽しみにしており、取組の進行、懸賞金の扱い、幕内力士などについて質問があったという。ポールが観戦する様子を度々NHKのカメラが写しており、ポールが退場する際には客席から「ポール!」のコールも起こった。なお、横綱白鵬との記念撮影が予定されているという報道もあったが、これは実現しなかった。
- 上記の相撲観戦で懸賞金に興味を持ったポールは、翌15日に日本相撲協会に対し懸賞金を出す事を打診した。本場所に懸賞金を出すには、通常、場所前に協会に申請を出さなければならないが、懸賞旗の制作が間に合った事もあり、特例で認められた。懸賞は2013年九州場所の12日目、13日目、15日目の結びの取り組みに掛けられていた。なお、個人名で懸賞金を出すことは認められていないので、アルバム『NEW』の宣伝と言う形を取った。この事に対し、横綱日馬富士は「すごいうれしい。CDたくさん買わないと。あの方のサインも欲しいなあ」とコメントしていた。その日馬富士は、ポールからの懸賞金を2度獲得し、九州場所優勝も勝ち取った。
- 2018年3月にニューヨークで開催された銃規制を訴えるデモに参加した。記者の質問に対し、ポールは「まさにこの辺りで、親友の一人が銃による暴力で命を奪われた。だから、これは大事なことだ」と動機を述べた。
家族について
- 実弟マイクは、マイク・マクギア(Mike McGear)名義でミュージシャンとして活動していた時期があった(日本での知名度は知る人ぞ知る、と言うか皆無に近い)。引退後は写真家に転じ、兄のアルバムジャケットを撮影したこともある。
- 最初の妻リンダとの間に生まれたステラ・マッカートニー(1971.9.13-)は、世界的に有名なファッションデザイナーとして活躍中である。
使用楽器
全てを記載出来ないので、代表的な使用楽器と考えられる物を中心に記す。
ベースギター
Höfner 500-1
「ヴァイオリン・ベース」の通称で知られており、ポール・マッカートニーを象徴するベースと言って良いだろう。ポールは2本以上所有している。正式な表記はKarl Höfner 500-1(500/1)。
ポール曰く「独特な匂いがする。」とのこと。
- 1961年製の「キャヴァーン・ベース」
デビュー前から使用していた。ビートルズからベーシストだったスチュアート・サトクリフが脱退し、ポールがベーシストに転向する事になった為、ハンブルクの楽器店で購入した。ポールはこのベースを選んだ理由に、安価だった事、左右対称のデザインで左利きのポールが持っても違和感が小さい事、軽量である事、そしてビートルズの名前の由来であるカブトムシ(ビートル)に似ていることを挙げている。外観上の特徴は、二つのピックアップが、ネック寄りに近接して設置されている点である。
1969年1月の「ゲット・バック・セッション」中に盗難に遭ったらしく、現存していない。
- 1963年製のモデル
1963年10月頃に入手し、レコーディングでは65年ごろまで、ステージではライヴ活動を停止する66年夏まで使用された。リッケンバッカー4001Sを使用するようになってから、上記ゲット・バック・セッション期と一部のプロモーション・クリップを除き、表舞台には登場しなくなっていた。
しかし、1989年『フラワーズ・イン・ザ・ダート』のセッションに際し、エルヴィス・コステロの勧めもあって、本格的な修理を施した上でメイン・ベースの座に返り咲き、以後、現在までポールのメイン・ベースとなっている。
- 2012年に寄贈された最新モデル
ユニオン・ジャックがペイントされている。エリザベス2世戴冠60周年記念コンサートなどで使用された。
上記3本の他に、1964年にカール・ヘフナー社よりポールに寄贈されたモデルがあるとされるが、ポールは「所有した事がない」と明言している。このベースの所在は現在に至るまで不明である。
Rickenbacker 4001S
1964年製の楽器をリッケンバッカー社よりプレゼントされた。翌65年からレコーディングで使用され、ビートルズのライヴ活動中止後、80年代までメイン・ベースとして使用された。ヘフナーが再びメイン・ベースとして使用するようになってからは、殆ど使われなくなっている。その理由の一つには、ヘフナーよりも重い事が挙げられている。ポールは他に70年代前半に生産されたモデルも所有している。
YAMAHA BB1200L
1980年のウイングス来日公演決定を記念して、ヤマハからプレゼントされた。1979年、ウィングスのイギリス・ツアーで使用されたが、上述の通り、肝心の日本公演は中止になってしまった。
Fender Jazz Bass
1967-68年に生産された物を2本持っていた。そのうち1本は右利き用である。ビートルズ後期及びウイングス時代に使用されたとみられる。ポール自身は、フェンダーの楽器は敷居が高いものと感じていた時期があったようだ。
エレクトリック・ギター
Gibson Les Paul
少なくとも3本所有。そのうち、1960年製のギターをステージに於けるメイン・ギターとしている。1960年製のレスポールと言うだけで超高額で取引されるが、それの左利き用なのだからとんでもないレア・モデルである。
Epiphone Casino
1962年製。右利き用に改造を加えている。ビートルズ時代から現在に至るまで、レコーディングで使用するメインのエレキギター。カジノを使い出した時期は、実はジョンやジョージより早く、二人はポールに勧められてカジノを使用するようになった。
アコースティック・ギター
Martin D-28
ビートルズ時代は右利き用を、ウイングス時代以降は左利き用のモデルを使っている。
Epiphone Texan
1964年製の右利き用を左で使えるように調整している。「イエスタデイ(Yesterday)」のレコーディングで使用されたギターである。他に「マザー・ネイチャーズ・サン(Mother Nature's Sun)」や2005年の「ジェニー・レン(Jenny Wren)」などで使用。
ポール死亡説
1969年秋に広まった都市伝説で、1966年にポールは交通事故で死亡し、以後は替え玉がポールとして活動しているというものである。当時、ビートルズは解散に向かっており、ポールはスコットランドに隠遁していた。
ファンによって、ポールの死に繋がる様々な「手がかり」探しが行われた。ビートルズの広報担当者は度々死亡説を否定するコメントを発表していたが噂は収まらず、最終的には69年11月にポール自身のインタビューが『ライフ』誌に掲載されたことで鎮静化した。他にも69年10月24日にBBCのインタビューを受けたとする記録もある。
なお、死亡説の根拠としてアルバム『アビイ・ロード』のジャケットが挙げられているが、1993年に出したライヴ・アルバム『ポール・イズ・ライヴ(Paul Is Live)』のジャケットで自ら『アビイ・ロード』のパロディをやり、「ポールは生きている」という意味のアルバムタイトルと併せて死亡説を完全にネタにしている。
他に根拠とされたものに「ストロベリーフィールズフォーエヴァー」のアウトロ部分で、ジョンが「I buried Paul(僕はポールを埋めてしまった)」と言っている(ように聞こえる)、というものがあった。しかし実際につぶやいているのは「Cranberry Sauce(クランベリーソース)」であり、唐突に関係のない言葉を入れるというジョンお得意のおふざけが、バックの演奏に紛れて聞き取りづらくなっているために起きた空耳だった。
代表曲
ビートルズ時代
- Yesterday (1965) アルバムHELP!収録。実は世界で最もカバーされている楽曲である。
- Penny Lane (1967) シングル曲。現在はアルバムMagical Mystery Tourで聴く事ができる。
- Hey Jude (1968) Beatles最大のヒット曲でもある。
- Back in the U.S.S.R. (1968) ロシアでは最も人気の高い曲。アルバムThe Beatles(通称:ホワイトアルバム)収録。リンゴ離脱期間中につき、ポールがドラムを叩いている。
- Ob-La-Di, Ob-La-Da (1968)アルバムThe Beatles収録。イントロのホンキートンクピアノはジョンが怒りに任せて弾いている。
- Get Back (1969)シングルで発売され、翌年アルバムLet It Beに収録。
- Let It Be (1970) ビートルズのイギリス本国におけるラストシングル。アルバムLet It Beに収録。
- The Long and Winding Road (1970) アルバムLet It Beに収録。日本を含む一部の国では、シングルカットされた。
ビートルズ解散後
- Maybe I'm Amazed (1970) アルバムMcCartney収録。リンダがコーラスで参加しているのを除き、全ての楽器をポールが一人で演奏している。
- Evony and Ivory (1982) アルバムTug of War収録スティーヴィー・ワンダーとの共演
- Say Say Say (1983) アルバムPipes of Peace収録マイケル・ジャクソンとの共演
- No More Lonely Night (1984)アルバムGive My Regards to Broad Street(『ヤァ!ブロード・ストリート』)収録。
- Fine Line (2005) アルバムChaos and Creation in the Backyard収録。日本ではこのシングルがオリコン1位を獲得。ストリングス以外の全ての楽器をポールが一人で演奏した。
Wings
- My Love (1973) アルバムRed Rose Speedway収録
- Live And Let Die (1973) 映画「007 死ぬのは奴らだ」主題歌
- Band on the Run (1973) 同名アルバムのタイトル曲
- Listen to What the Man Said (1975) アルバムVenus and Mars収録曲
- Mull of Kintyre (1977) デニー・レインとの共作。現在はベスト盤やアルバムLondon Townのボーナストラックで聴く事ができる。Mull of Kintyreとは、スコットランド南西部にあるキンタイア岬のこと。邦題「夢の旅人」