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人物編集

ロックバンドビートルズのギター奏者。

バンド内では最も外交的で、『ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス』にエリック・クラプトンを客演させたり、ビリー・プレストンを『ゲット・バック』のセッションに呼んだのも彼の功による。


ビートルズの活動初期においては、ソングライターとしては、ジョンポールの陰に隠れていたが、66年以降はその才能を開花させた。しかし、グループ内ではあまり彼の曲を取り上げてもらえず、それに不満を募らせていたことがビートルズ解散の一因と言われる。一方で、上記の外部ミュージシャンの招聘や、インド音楽要素やシンセサイザーの導入もジョージによるものであり、サウンドに対する貢献は大きいと言えよう。


解散後は『オール・シングス・マスト・パス』が好評を博したが、当時の妻をエリックに寝取られたり(しかもエリックは後年不倫を重ね彼女を裏切っている)、心身の不調もあり、順風満帆とは言い難い時期もあった。


そんな中、1986年に音楽を担当した映画『上海サプライズ』製作現場で知り合ったエレクトリック・ライト・オーケストラのジェフ・リンと意気投合し、翌年発表されたアルバム『クラウド・ナイン』が大ヒット。ジェフとはボブ・ディランらとの「トラヴェリング・ウィルベリーズ」結成など後々まで音楽制作のパートナーとなった。


そして1991年、愛息を亡くしたエリックと日本でジョイントツアーを開催。25年ぶりの、そして日本最期のステージとなってしまった。

翌年にはこのツアーメンバーとレパートリーで単独でのライヴをイギリスで開催。これが最期のパフォーマンスになった。


明けて1993年からは「ビートルズ・アンソロジー」プロジェクトでジョン・レノンの遺したデモをビートルズの“新曲”として作り直し、1995年と1996年にリリース。各地で大ヒットを飛ばした。この時、ジョージの紹介により、“新曲”のプロデューサーとして招かれたのが前述のジェフ・リンである。


しかし1999年晦日、自宅に侵入した賊に重傷を負わされ、さらに肺癌と脳腫瘍を併発。

2001年11月29日、ロサンゼルスで58年の生涯を閉じた。


製作途中だった『ブレインウォッシュド』は2002年にジェフらの尽力で完成。“Marwa Blues”は2003年度グラミー賞の最優秀ポップ・インストゥルメンタル部門を受賞した。


代表曲編集

ビートルズ時代編集

○While My Guitar Gently Weeps……1968年、アルバム『ザ・ビートルズ』収録。前述のとおり、エリック・クラプトンがギターソロを演奏している・

○Something……1969年、アルバム『アビイ・ロード』収録。シングルカットされたが、これがシングルA面に収録された唯一のジョージの作品でもある。Yesterdayに次ぐほどのカバーがあると言われるが、その完成度の高さが逆に災いし、フランク・シナトラマイケル・ジャクソンはこれがレノン=マッカートニーの作品だと勘違いしていた。

○Here Comes the Sun……アルバム『アビイ・ロード』収録。シンセサイザーをフィーチャーしている。

ソロ編集

○My Sweet Lord……1970年。全米・全英で1位を記録したが、盗作問題で訴えられ、敗訴している。

○All Those Years Ago……1981年。ジョン・レノンへの追悼曲として発表された。リンゴ・スターがドラム、ポール・マッカートニーがコーラスで参加している。邦題は「過ぎ去りし日々」

○Got My Mind Set on You……1987年。カバー曲ではあるが、全米1位を記録した。


関連項目編集

Wikipedia

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