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いかりや長介

いかりやちょうすけ

日本のミュージシャン、コメディアン、俳優であり、音楽バンド兼コント集団「ザ・ドリフターズ」のリーダー。(故人) また、唇を腫らした様子が彼に似ているため、なぞられて付けられた、ネタタグとしても使われる。
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概要

いかりや長介(1931年11月1日-2004年3月20日)は、日本の芸能人で、ミュージシャン、コメディアン、俳優である。本名は、碇矢長一(いかりや ちょういち)

音楽バンド兼お笑いコント集団、ザ・ドリフターズ以下ドリフ)の三代目リーダー。
良くも悪くも多くの伝説を残した人であり、現在における日本人の文化にも大きな影響を与えている。「最初はグー、またまたグー、いかりや長介、頭はパー」の「いかりや」の元ネタの人である。

2004年、リンパ腺癌の為逝去、享年74(満72歳没)。

いかりや発信の情報とそれ以外の人物発祥の情報とが混然としているため、これらの多くは一つの説にすぎない事が多い。本人もテレビ番組で「人によって語られる人物像が違うだろ?」とネタにしたこともある。

お笑い

お笑いに関しては妥協が一切なく、シナリオを煮詰めてから本番に臨むみ、何度もリハーサルを繰り返していたことで知られる。ただし加藤曰く「台詞を覚えないいかりやのために数を重ねていた」とのこと(ただ加藤も台詞をしばしば飛ばしていたので定かではない)。演者であるが『8時だョ!全員集合』と『ドリフ大爆笑』では、製作局のプロデューサーよりも発言力と政治力を持っていたともされる(ただし、全員集合立ち上げ前の彼はプロデューサーに説得される直前までは冠番組を持つ事に弱気な所があったとされている)。この全員集合の企画会議、通称「木曜会議」は非常に重苦しい雰囲気の中で行われていたとし、脱走者が出るほど厳しい空気の中で行われた。
ドリフメンバー含む関係者は「地獄の企画会議」だったと振り返っていて、会議室内は煙草の煙が充満していた。その影響で、本来喫煙者でない仲本が喫煙者に鞍替えするほどだった。

一方で先の通り台詞覚えは悪かったそうで、実際収録コントでは台詞が抜けてしまったのを取り繕うシーンもある。「もしもこんな銭湯があったら」のリメイク版でも、暴行紛いのサービスを他のメンバーからひたすら受けた後、ヘトヘトになりながら「まあ楽っちゃ楽だよな………台詞もねぇしよ……………ただ……体力の問題があらぁな~!」とカメラに向かって感想を述べている。

全員集合終了後に始まった加藤と志村のコンビの後番組「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」に対して「こんな手法があったのか」と逆に感心したという。

コント集団としてあまりにも有名になってしまったドリフだが、いかりやは
ベーシストとしても知る人ぞ知る名演奏者であった(「関連動画」参照)。ベースをコントラバスの様に立てて弾く独特のスタイルは彼の名から「いかりや奏法」の名がつけられている。そのため古馴染みからは「長兵衛」というあだ名で呼ばれていた。

功罪

一方で、強烈なワンマンぶりは時にメンバーとの軋轢を起こしたという。ミュージシャン志向が特に強かった高木ブーとはそりが一時期合わず、高木が脱退を考えていた時期もあったという。一方のいかりやは高木の能力を高く買っており、高木だけは止めさせようと思ったことが無いと語っており、『全員集合』で負傷して数ヶ月戦線を離れた際、脱退を考えていた高木を熱心に説得して復帰させた。
なおその時、新メンバーにと打診されていたのが、サザンオールスターズ桑田佳祐だった。

ギャラを均等に配分せずピンハネしていた事もあり、メンバーの反発を受けて、愛車に立ちションを引っ掛けられたこともあった。しかしいかりやは多く貰った分、経費などグループ活動で自腹を要する時はそのギャラから費用を捻出していたことから、儲けについては大きな差はなかったとされる。ちなみにこのギャラの差については、しばしばコントでネタにしている(メンバーに会計士の真似事をやらせ、数えられた分を「今後のギャラ」と発表するなど)。

功罪あれ、昭和のお笑いの牽引役として果たした功績は非常に大きく、その飽くなきクオリティの追求はメンバーの認めるところである。「ドリフを超えるお笑い集団は誕生しないだろう」とまで言われたのは、いかりやのこだわりによる功績が非常に大きいことは言うまでもない。
ドリフらが活躍した時代は規制等が薄かったことを加味すると、同業の後輩達と単純比較こそできないものの、数十年経った現代においても通じる一発ギャグの多くが、ドリフ発祥なことを考えればその功績の大きさは推して知るべしである。

お笑い芸人は「大御所」化すると様々な事情から痛い思いは避ける傾向にあるが、いかりやは俳優として活躍していた60代においてもとにかく体を張っていた。『大爆笑』にて加藤・志村に水をかけられたり、金たらいやドラム缶を頭に落とされたり殴られたり、上記の『サービス過剰なお風呂屋さん』ではかつてより加減はあったとはいえ暴行まがいの行為を受け続けており、率先して身体を張った笑いをとっていた。ギャラは多くとっても痛い思いについては他のメンバーと同等、あるいは被害をそれ以上に受けていたといえる。

ドリフとしての活動が下火になった晩年は、コメディアン色をガラリと払拭し、NHK大河ドラマ独眼竜政宗』で伊達政宗の父・輝宗に仕える老将・鬼庭左月を好演、以後も渋めの役をこなす俳優としてテレビドラマ、映画に出演した。特に『踊る大捜査線』ではベテラン刑事の和久平八郎を演じ、リアルタイムで「ドリフ」を知らない世代にも名の知れる存在となった。ただそれまでTVの連続ドラマには出た経験がなかったいかりやは、この時共演した織田裕二にTVドラマの芝居を習っていたという。このことからいかりやは後年、「自分の芝居を剣豪の流派に例えるなら織田流である(要約)」と答えている。

ただしコメディアンとしての本分を忘れたわけではなく、NHKの歌番組に出演した際は恐らく生涯最後となるドリフによる5人コントを披露しており、グループへの想いは捨てなかった。

結婚歴

結婚歴が最低でも二回あり、一回目の結婚の破綻原因は「愛人問題の発覚」だったと言われており、当時もコントでネタにされたことがある。実際は精神的に病んだ妻にとっていかりやの存在が逆に重荷になっていたからという深刻な話もあるが、愛人問題発覚→離婚→翌年再婚という流れもあるため、どちらとも言えない。

ニ回目は先の通り離婚の翌年に結婚、世話焼きで円満な家庭を築いていた。しかし、膠原病を発症してしまい、これにより併発した鬱病で病んでいったあげく妻が自害、死別という悲しい別れとなったという。遺体を発見したのはいかりやで、以来いかりやはしばらく酒浸りになったという話もある。

三回目は結婚式こそあげたが、お互いパートナーを失ったうえでの再婚だったこともあり、入籍はしていなかったと言われている。この三人目のパートナーが弱っていくいかりやを支え続け、その最期も看取った。

晩年

2003年5月頃、原発不明頸部リンパ節がんで緊急に入院となった。この時は報道で「早期発見だったため軽度で済んだ」といった風に報じられていたが、その裏でいかりやの長男は医者から余命を宣告されていた。しかしそれが本人に伝えられることはなく、長男は葬儀で「ウソをついて本当に申し訳ない」と頭を下げている。ちなみに長男曰く「本人に初めて嘘をついた」とのこと。

自身の余命を知らなかったためなのか、いかりやがリーダー就任後の新生ドリフの結成40周年を迎え、OP・EDの撮り直しをいかりやの発案で敢行した。その際は、加藤茶との会話で『全員集合』と『大爆笑』をもう一度撮ろうという話がされ、他のメンバーも乗り気になっていたという。この時は病み上がりのいかりやをメンバー全員が心配したが、「病院に行けば治るから」と周囲に語っていたため、本調子ではないが、余命が迫っている程に身体が弱っている風には感じなかったという(もっとも加藤はいかりやの動向を心配して収録中は動いていた)。

『大爆笑』では『全員集合』のコントの復刻が行われたりしたが、このOPの新規収録が彼の最後の出演となってしまった。これは死の3ヶ月前だったという。この時の収録では別のスタジオにいた浜田雅功が収録をしているという話を聞き付けてスタジオに顔を出してドリフメンバーが揃っている事に驚きつつ感動して腰が低い姿を見せたエピソードもある。
なお、このOP収録時のいかりやは髭を生やしていたのだが、加藤は浜田が訪れたエピソードが紹介された番組で「長さん髭無いと(痩せこけた顔になって)やばかったよな」と最晩年のいかりやが既に病に冒されていた事を振り返っている。なお、この時いかりやはいつ倒れてもおかしくはない身体でありながら新規収録を望んでいたという。
ちなみに「次も一生懸命頑張ります!ごきげんよう!!」のおなじみの〆が無かったのだが、もうこの時は往年のように声を満足に出せない状態で、前述の浜田が訪れた際、浜田から色々と話を振られても頷くことしかできず、志村からも心配された程だった。これは遺作となったドラマ「あなたの隣に誰かいる」でも垣間見える。しかしそれでもエンディングの最後ではいつものように丁寧にお辞儀をするなど、お客さんを大事にする姿勢を崩さなかった。また、収録外では加藤達と談笑している姿を見受けられる。

彼の特徴であった下唇の分厚さ(真似される時、結構誇張されていたが)は加齢と共に目立たなくなっていき、ゴリラとあだ名されることはなくなっていった。
また、荒井注のことをずっと「ハゲ注」と呼んでコントなどでネタにしてきたが、メンバーで真っ先に髪の毛が薄くなったのはいかりやである。このため晩年は共演した加藤茶にその「随分ハゲちゃったね」とハゲっぷりをいじられていた。

メンバー間の不仲

先の通りメンバー同士と一番軋轢を生んでいた人物である。と言ってもドリフの全盛期はとても仲が良かったという。溝が明確化してきたのは衰退期からが大きいようで、以前からギャラの問題も抱えていたことから仲が悪くなっていったという。

特に志村との不仲説は一時期大きく囁かれていたが、加藤は自分が一番対立していたと語っている。
加藤はアドリブを交えた笑いが多かったのに対し、いかりやはきっちり決めるタイプだったことから、その辺りの方向性の違いが大きかったという。いかりやは加藤のアドリブに対して認めてはいたものの、リハーサルで加藤が突っ込みを欲しい時に気づかずスルーしてしまったり、突っ込んでこいと発破をかけると「お前がボケるタイミングが悪い」と返されたこともあり、そのせいでよく喧嘩していたという。しかし逝去後の出棺の際、加藤は堪えていた涙が滲んできたのか、目を拭う姿が見られた。

一方志村との不仲説については、志村と仲本が起こした競馬のノミ行為事件が大きかったという噂があり、この時いかりやも一枚噛んでいたのにも関わらず、会見の場で頭を叩いて下げさせたことで亀裂が生まれたとか。
しかし、全員集合の後期にはいかりやから「(毎度罵られるのは)しんどいからお前が中心になってくれないか」と言われた志村が、憎まれ役を一時期買って出た時期もあったという。なお、逝去後数年経っても、志村はいかりやの名前を出して笑いを取ったりしていた。
また全員集合が終わってから志村がいかりやとの距離を離した一方、いかりやは志村の出演するお笑い番組をチェックし、ずっと気にかけていたという。
このように志村としては反発心もあったようだが、志村が死去する一年程前にいかりやがいかにドリフメンバーのことを気にかけていたかを知ると、番組中で「自分の師匠として間違いはなかった」とやや涙目になって師としての影響力とその功績をたたえた。

いかりやの長男によれば晩年の数ヶ月に志村が率いる喜劇を観に行っており、スタッフに存在を気付かれたが楽屋には顔を出さず帰ったという。志村もこの時は「顔だしてくれれば良かったのに」という風に思っていたという。また、死の直前に痛み止めを使いながら、病の激痛に悶絶する中、何枚かメモを書き貯めており、その中には志村や加藤があってのドリフだった事への感謝が記されていたことが「金スマ」で明かされている。
なお、最後のドリフ大爆笑EDの時に志村がカメラに背を向けてスクールメイツの方に行き、おちゃらけるのだが「この時いかりやがもう長くない事を察し、背を思わず向けて我慢できず涙していたのではないのか」という俗説がある。が、本人がそれぞれの行動に大意はないとしていたため、これは俗説に過ぎない。

高木ブーはよく叱られていたという。その腹いせなのか、高木はプライベートでいかりやと遊びに行き、高木がいかりやよりも良いスコアを出すと「教えてやろうか?」と勝ち誇ることがあったらしい。するといかりやは悔しさからなのか、そのレジャーには手を出さなくなるという、双方大人気ない一面もあった。志村の死後、インタビューを受けると「ドリフはみんな仲が良かった」とも締めている。

仲本工事は齢70歳を越えてから答えたインタビューにおいて、今会いたい人物として自分の母親といかりやをあげている。いかりやとのコントで印象に残っているのはおめでた兄弟(バカ兄弟)とのこと。

メンバーはこのように、いかりやとの対立を語るが、一方で「いかりやの死を知らされた瞬間、悪い思い出がみんな消えてしまった」とも付け加えている。逝去の際、志村と加藤は真っ先に駆け付けてしばらく立ち尽くす程に絶句し、高木は葬儀の場で「馬鹿野郎!」と涙ながらに吠え、仲本は当時「喋らない長さんは見たくない」とコメントしている。

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