概要
『ハナ肇とクレージーキャッツ』を始めとする黎明期のマルチコミックバンドの1つ。通称は「ドリフターズ」、「ドリフ」、「新生ドリフ」。英語にするとThe Drifters(放浪者)。
1957年の結成時から1969年までのミュージシャン期、1970年以降のコメディアン期の双方で大きく活躍し、特に後者の活動によって昭和の芸能史に揺るぎない一時代を築いた。
来歴
かつては岸部清、桜井輝夫、坂本九、小野ヤスシなどが在籍していたが、加入と脱退の激しいバンドグループであり、1962年にいかりや長介と加藤茶が加入して現在に続くドリフターズの産声を上げる。
1964年にいかりやがバンドリーダーへ昇格すると、同年9月に高木ブーと荒井注が、翌年1月には仲本工事が加入して現在のドリフターズメンバーの基礎が確立される。荒井曰く「音楽喫茶全盛期には『ジャズ喫茶の帝王』の異名を持っていた」とされるほどの人気を誇り、1966年6月のビートルズ来日公演における前座を内田裕也、尾藤イサオなどと共に務めた。
この頃から徐々に「コントも出来るコミックバンド」から「コント主体のコメディアングループ」に方向性を変え、音楽活動よりも映画やテレビなどへのメディア出演に比重を置いてクレージーキャッツを追い抜く人気者となり、1969年に放送を開始した『8時だョ!全員集合』(以下、全員集合)主演を契機にコメディアンとしての人気を不動のものとする。
1974年3月に迎えた荒井の降板に伴う志村けんの正規メンバー入りによって一時は陰りを見せたが、いかりやと志村それぞれの作詞、作曲を取り入れた『東村山音頭』で爆発的な人気を博すとを矢継ぎ早にヒットギャグを連発するようになり、従来の大ボケ役であった加藤と『加トケン』の図式を生み出してさらなる人気を集めた。
1977年からは、全員集合のテイストを残しつつスタジオ収録形式による一味違ったバラエティー番組『ドリフ大爆笑』(以下、大爆笑)を開始。異なる放送局で巨大な冠番組を掛け持ちする絶頂期を迎えたが、1981年に入ると「同じコントグループとしてコント55号を追い抜く」という目標を実現してみせたドリフターズと同様の目的でビートたけし、明石家さんま、島田紳助など当時のニューウェーブが結集した『オレたちひょうきん族』の放送が始まり、業界史上最大の視聴率抗争『土8戦争』の幕が切って落とされた。
ところが、この時点で志村を除く4人の平均年齢が40代中盤となっていた事に加え、番組での不謹慎な表現内容に対する抗議やメンバーの不祥事が続き、さらにはそれに伴いメンバー同士の不仲が表面化(特にいかりやと加藤・志村)。笑いの流れの変化にも対応しきれなくなり、1985年に「生放送を公開形式でやっていくことには限界があった。ナンセンスギャグもやり尽くした。」のコメントを発表して同年9月に全員集合を終了。以降はドリフターズとしての活動を大爆笑にのみ絞りつつ、いかりやは俳優、高木はハワイアンミュージシャン、仲本は情報番組のコメンテーター、加藤と志村はカトケンというコンビを組んで引き続きコメディタレントとしてそれぞれの道を歩むようになる。
なお、ドリフターズの二枚看板として人気のあった加藤と志村の売り出しを強力に後押ししたTBSは、半年後の1986年1月から全員集合の放送枠を受け継ぐ形で『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を開始。諸般の事情による1989年のひょうきん族打ち切り決定で土8戦争覇者への返り咲き、もっと言えば「全員集合に引導を渡したひょうきん族にドリフターズの後番組が引導を渡す」という大逆転劇を成し遂げた。
1980年代後半になると、しばらく途絶えていた音楽活動に再び向き合うようになり、志村が『ウンジャラゲ』のカバー、加藤が『ミヨちゃん』のラップアレンジや『Scatman』のカバーを手掛け、1990年には加藤、高木、仲本がオールディーズナンバーを中心としたトリオバンド『こぶ茶バンド』を結成、1996年にはいかりやがキリンビールのCMでコントラバスによるベース演奏を披露して一世を風靡した。
5人ドリフとしては晩年にあたる1990年代~2000年代はメンバー間の溝が深刻化していたと言われており、揃う機会が大幅に減った。それでも大爆笑で新作コントをお茶の間に届ける、フジカラーのCMで七福神として出演した際は、活動休止扱いのメンバーである荒井注を含めて登場する(荒井は間もなく逝去)、最初で最後の紅白出演など、大きなイベントが続いた。しかし2000年代になるといかりやの健康問題から、5人揃った活動は2003年に結成40周年を記念して撮り直しを行った「ドリフ大爆笑のOP」が最後となった。その翌年の始めにいかりやは逝去、これによりドリフターズの活動は大きく縮小する。
それでも、加藤らは残る4人でドリフターズの活動をし続け、脱退や新メンバーの加入も行わなかった。これは加藤曰く「ドリフターズはいかりやが遺した財産だから、俺たち4人だけで守り通す」とコメントしており、いつか本当にあの世で全員集合するまでドリフターズは解散せず、自分たちだけで死ぬまでコントを披露する事を誓った。
その後は、ドリフターズの記念イベントやケーズデンキのcmでも活躍し、全員が60代を越えてもその威勢は止まることは無かった。
メンバー間の不仲
ドリフを語るうえで欠かせないのは不仲説である。いかりやの生前は表立ってこれに触れる機会はなく、都市伝説レベルの話題が多かった。しかし逝去からしばらく経った後は「死んでからありがたみがわかった」という前置きありきで、よくコメディの方向性の違いから対立していたことを明かしている。
一方、いかりや長介の長男は多くの不仲説を否定しており、いかりや自身も死去の直前にメンバーのことを思った行動を起こしたり、先に旅立った荒井注とCMで共演した際は包容を交わすなど、少なくともいかりや単独ではドリフターズというグループを大切にしていたことが窺える。
ちなみに対立の理由としてよくあげられていたのは、ギャラの配分や笑いの方向性の違いなど。特にギャラについてはいかりやだけ多く取っていたことから、メンバーの反感を買いまくっていたのは有名な話。ただしこの話には続きがあり「その代わり経費はいかりやがほぼ全て出していたため、多少の差はあれいかりやもそこまで収入は変わらなかった」という側面もあるという。
なお、先の通りこの不仲説をドリフはよくネタにしており、これを題材にしたコントも多数ある。体を張って笑いを取る際は「私怨でいかりやにキツく当たってはいないか?」となることもしばしばだった。と言うか、TBSのいかりや追悼番組で実際に訊ねられ、志村が「だって……楽しいからね?」と答え、誰一人否定しなかった。このように自身らの痛い所や不祥事を逆に笑いのネタにしてしまう芸風であり、つくづくなんでも笑いに変えてしまう方向の集団であった。
志村けんはいかりやの逝去後、ドリフに関係ないコント番組において加藤茶と共演すると、しばしばいかりやとの不仲説を逆手に取ったネタで笑いを取っている(「いかりやの葬儀で香典を安く済ませた」など)。後に金スマで師であるいかりやの思いを知った際は、「自分の師匠としては間違いなかった」と目を潤ませながら語っている。
逝去後のメンバーの関係もやや歪ながら、それぞれが深く対立しているわけではない。特に高木が中心となって、加藤、仲本の二人とバンド、CM、インターネット生放送でしばしば共演している。
志村だけはドリフ絡みの集まりに積極的でないが、加藤との共演は多い。また、自身の新感覚コント番組で急遽追加キャストを欲した時には高木にオファーを取ったり、「ドリフのようなコントを改めてやりたいから」という理由で志村から全員集合を呼びかけるなど、それぞれ目指す方向性にややズレこそあるが、目立った対立があるわけではない。仲本との間に不和が生じているという記事もあるが、仲本は2018年のインタビューでも志村のことを高く評価している。
各メンバーの没後
2004年3月のいかりや逝去後も人気は衰えず、特選映像を収録したDVDシリーズの他、正規メンバー(いかりや、加藤、高木、仲本、志村)をモチーフとした『CR フィーバードリフ外伝 ドリフだよ!全員集合』(SANKYO)や、ケーズデンキのCM、またメンバーをオマージュした外国人5人組『ウリフターズ』(アンカー、ブラウン、ジェイコブ、マット、ケント)のCMで話題を呼んだ。
いかりや逝去後、『4代目リーダー継承問題』が有耶無耶のままとなっている。「社会的な年功序列から高木とするか、実質的な活動年数から加藤とするか」で分かれているが、これを理由に対立が起きているわけではない。なお、声高にリーダーを自称しているのは高木である。
2020年3月に入り、17日に志村が倦怠感を覚えて自宅療養していたが、20日に発熱と呼吸困難で体調悪化し翌日に入院した事で新型コロナウイルス(COVID-19)の陽性反応が診断され罹患した事が判明した。
そして29日の23時過ぎにコロナ肺炎によって帰らぬ人となった。翌日午前に発表された速報は世間に衝撃と悲しみを与え、加藤は「ドリフの宝、日本の宝を奪ったコロナが憎い」仲本は「長さんの次に一番歳下の志村が逝くのは悔しい」高木は「志村早いよ、俺より先に逝くなんて」と無念のコメントを公式サイトに掲示した。
舵取り役のリーダーとメンバー最年少のエースを喪ったことにより、「こぶ茶」の三人のみとなったドリフターズ。
更に2022年10月18日には仲本が横浜市で交通事故に遭い、緊急手術が行われるも翌19日に帰らぬ人となる。ついに残されたのは加藤と高木だけになってしまった。
2024年、結成60周年を迎えるにあたり、特番も(フジテレビ系列)随時放送予定のこと。
メンバー一覧
最終メンバー
いかりや長介
本名 | 碇矢長一(いかりや ちょういち) |
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生年月日 | 1931年11月1日 |
出身地 | 東京都 |
身長 | 175cm |
体重 | 不明 |
血液型 | A |
担当 | ベース |
戦前生まれでは珍しい175cmの長身、大きな唇とシワの多いゴリラのような顔、負担をかけすぎた声帯によるダミ声が特徴。
コントでは憎まれ役を買うことが多く、それ故に生じる災難に遭うことでスカッとする笑いを提供するスタイルを主体とした。ショートコントであってもこの「偉そうな人」というイメージありきなことから成立しているものは多い。
「綿密な台本を用意して徹底的な稽古を行った上での完璧なコント」をこそ良しとする信念で舞台に臨んだ反面、それとは真反対の暴力的なツッコミや強引なアドリブで観客の笑いを取る加藤と志村の手法を快く思わないながらも許容する一面も持っている。このためコントでトチっても撮り直すことはあまりないようで、録画コントですらハプニング込みの内容をそのまま放送するスタイルを取っている。傑作コントの1つとされる『威勢の良い銭湯』はアドリブ前提のコントの代表例に挙げられる。
加藤曰く、実際は「長さんは台詞の覚えが悪く、長さんに覚え込ませるために何度もリハーサルしていた」とのこと。いかりや自身も先のリメイク版銭湯コントで「台詞がないのは楽けど体力的にキツイ(要約)」とぼやいていた。しかし言っている加藤本人も台詞の覚えは悪く(下記)、そもそもドリフターズと言うグループ自体、主演映画の広告で「1ページの長介、半ページの志村、三行の仲本、一行の加藤、感嘆詞のブー」と揶揄される程、台詞覚えの悪いグループだった。
先の通りグループ内ではギャラ配分のせいで最もメンバーからの反感を買っていた人間でもあり、生前の志村が不仲説に触れられた際に「最初は仲良かったけどドリフターズ事務所を作ってからギャラの配分が露骨に変わって、ギクシャクし始めた」としている。とはいえいかりや自身のドリフへの思いは熱く、最後の仕事となったドリフ大爆笑のOPも、病み上がりで不調(本人は知らなかったが余命宣告までされていた)ながらも自ら進言して撮り直しを決行。撮影当時はいつものピリピリムードはなく、和やかな雰囲気で参加していた。この時、志村がアドリブで前にいたチアガールの背中を突き飛ばしたが、それをいかりやが穏やかに見守っている姿が残っている。
ドリフ自身は子供の教育に悪いと非難され続けたが、いかりや自身は客を相手にする時は必ず丁寧な口調で視聴者に語りかけていた。ドリフ大爆笑における淀み無い司会進行ぶりは正にそれである。
ドリフターズ映画時代から俳優としての片鱗を見せており、晩年には『踊る大捜査線』『八丁堀捕物ばなし』『弁護士・猪狩文助』などで軽妙な演技を披露するバイプレイヤーとして活躍した。実は吹き替え声優の経験もあり、実写版ポパイを吹き替えたことがある。
2004年3月15日、頚部リンパ節がんに起因する転移がんにより病没。享年72。
加藤茶
※古い資料ではAB型とされているが、後の血液検査でA型と判明
コミックバンド時代からボケ役を演じる一方、卓越したジャズドラムの腕前で音楽活動におけるドリフターズの中核を担い、喉の良さから代表曲の大半でソロヴォーカルやメインヴォーカルを務め、整った顔立ちも相まってメンバーの中ではアイドルの立ち位置でドリフターズ映画作品での二枚目役を数多く演じた。
志村加入以前の大ボケをほぼ一手に担い、「加トちゃんペッ!」「どうもすんづれいしました」「ちょっとだけよ。アンタも好きねぇ~」や擬似くしゃみの「へっくしっ!」、吐き真似の「うぅえぇえ…」、歌舞伎ネタ(『楼門五三桐』の石川五右衛門、『道行初音旅』の佐藤忠信)など様々なヒットギャグを持ち、特にサイレントコントによる酔っぱらいの千鳥足については志村の演技に大きな影響を与えている。
いかりやに多く反発していたのは加藤だったという。理由は「長さんが台詞を覚えないうえに、自分とは笑いの流れが違ったから(突っ込んで欲しい時に突っ込んでくれないなど。逆に志村はほしい時に突っ込んでくれると評価している)とのこと。とはいえ、台詞覚えが悪いのは加藤も多少は似たりよったりな部分があり(コント途中で台詞が抜けている部分が見られる)いかりやによくコント中に突っ込まれていた。
しかし大爆笑が中心になり、会う機会が減ったためわだかまりも少しは溶けたのか、40周年のOPの際は病気療養から復帰したいかりやへ積極的に話しかけている姿が見られる。また、いかりやに対して逝去後は悪口を言いつつも「長兵衛さんが居たから今の自分がある」と肯定的に見ている。
実は現在まで我々がよく知るドリフそのものと行く末がもしかしたら変わっていたかもしれない鍵となった人物でもある。というのも後述の「荒井注の脱退」の頃に加藤もドリフ脱退を企てていたのだ。しかし荒井の方が先にいかりやに申し入れてしまった事でタイミングが狂い、抜けようが無くなってしまってそのままになったとされる。もしも加藤が去っていたら志村の才能の開花を経て結成された名コンビによる掛け合いやヒゲダンス、さらには「加トちゃんケンちゃん」も無かったのかもしれないのである。
高木ブー
20代の頃から全く変わっていないとされている肥満体が特徴。大学在学中にはすでにウクレレ奏者で名を馳せ、プロミュージシャンとなってからもエレキギターやバンジョーをこなすバンドマンとして様々なバンドを渡り歩いていた所、欠員となったピアニストを探していたいかりやのスカウトを受けてドリフターズに加入する。
一部のコントを除いて必要以上にボケ役に回らないスタンスを保ち続けたため、「コメディアンでありながら笑いを狙わない=無能」のイメージを浸透させ、後にこれを無力な失恋男の揶揄に置き換えた『高木ブー伝説』(『筋肉少女帯』)が生まれるきっかけとなったものの、いかりやは晩年の自著『だめだこりゃ いかりや長介自伝』の中で「ドリフの中では最も音楽性が高い」「自分の方から高木をやめさせようと思ったことは一度もない」と綴って厚い信頼を寄せている。
事実、高木ブー中心のセリフ付きコントでは高い演技力を見せている。また、喋らないながらも存在感を見せる役としてはしばしば活用されており、登場した際の存在感も目覚ましい。また、一円に執着する男を演じた「一円コントシリーズ」はその演技力も相まって必見である。その為、他のメンバーには無い独特の個性と存在感が彼の持ち味と言える。
健康面では長年の不摂生から様々な症状に悩まされ、医者から痩せろと言われるほどだった。よって80を越えた現在では往年と比較して明らかに痩せてきている。また、ドリフターズでは現在最年長ながら、インターネットなど新しい文化への関心が最も強く、instagramでは私生活、仕事、バンド、そして往年の写真などを公開している。
仲本工事
本名 | 仲本興喜(なかもと こうき) |
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生年月日 | 1941年7月5日 |
出身地 | 東京都 |
身長 | 160cm |
体重 | 66kg |
血液型 | A |
担当 | サイドギター(R&Rナンバー限定でリードギター・ヴォーカル) |
厚い黒縁の伊達眼鏡が特徴。高校在学時は文武両道の秀才であり、大学卒業後に東京商工会議所への就職が内定していたが、いかりやが仲本の両親を必死に説得した末にギタリストとして加入した経歴を持つ。
コントでは器械体操の経験を活かしたアクロバティックな、サイレントコントやリアクションギャグを得意とする。秀才だったことを活かしてインテリや風見鶏の役も多くこなしていた。
その一方で生意気な子供の役や、一見まともそうに見えて実際は一癖も二癖もある人物の役も印象深いと言えるだろう。
ビートルズ来日公演の前座で『のっぽのサリー』(Long Tall Sally)のセンターを務めるなど音楽面においても確かな実績を併せ持つ。
ドリフとしての活動が落ち着いてからは俳優としての活動も盛んに行うようになっている。私生活では居酒屋も経営し、Youtuberデビューも果たしている。
2022年10月19日、交通事故による怪我が元で永眠。享年81。
志村けん
本名 | 志村康徳(しむら やすのり) |
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生年月日 | 1950年2月20日 |
出身地 | 東京都 |
身長 | 166cm |
体重 | 65kg |
血液型 | A |
担当 | サイドギター→キーボード |
幼少の頃からコメディアンへの憧憬を抱き、高校3年生の卒業間近にいかりやに弟子入りを直談判してボーヤ(ローディー=雑用係)となる。しばらくして加藤の付き人になるも程無く失踪し、様々なアルバイトを転々とした末、加藤にいかりやへの口添えを頼み込んで「2度も弟子入りするやつはよくよく好きなんだろう」と快く復帰を許され、内弟子の形で加藤の付き人兼居候として再出発する。
お笑いコンビ『マックボンボン』の結成するが一発屋レベルの活躍で消滅、その後は付き人への再降格、荒井の休業宣言に伴うメンバー見習い昇格と降板後の正規メンバー入り、2年に渡るスランプを経て前述の『東村山音頭』で一躍人気者となる。
ブレク後は「アーミーマー、ユーヤーユー!」「お前、それはないだろう」「あんだってぇ?」「怒っちゃやーよ!」(後の「アイーン」)や加藤との共演による「ピッカピッカの、一年生、ビシッ!」」「ヒゲダンス」など様々なヒットギャグを量産し、コメディアン活動におけるドリフターズの中核を担うようになる。
ドリフのコント内での役割は「年の差があるいかりやが相手であろうが生意気に絡んでいく無礼なキャラ」であり、デビュー時も荒井に生意気に絡むシーンからデビューしている。しかし全員集合後期ではいかりやが憎まれ役に疲れたこともあって、不運な役回りを一部肩代わりするようになった。
近年では大規模な舞台美術を用いたコントが廃れ行く風潮に対して先頭に立って警鐘を鳴らし、これまで培った技術と経験を次世代に伝承するべく全員集合や大爆笑時代のコントを再構成して自身の番組で積極的に演じている。ドリフメンバーが志村と加藤を並べて語る時「加藤は天才、志村は秀才」と評価されるほど、大御所となり晩年になってもなおもお笑いの研究に余念がなかった。
2020年3月29日、新型コロナによる肺炎のため永眠。享年70。
過去のメンバー
荒井注
本名 | 荒井安雄(あらい やすお) |
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生年月日 | 1928年7月30日 |
出身地 | 東京都 |
身長 | 158cm |
体重 | 不明 |
血液型 | 不明 |
担当 | ピアノ・キーボード |
※血液型はA型説とAB型説があるが、資料の信憑性に乏しく真相は不明
いかりやのスカウトを受けてドリフターズに加入し、自身の丸い頭の薄さを逆手に取った「This is a pen!」で脚光を浴び、想像よりもピアノの演奏技術が低かった事実を加藤が指摘したことで生まれた「なんだバカヤロー」「なに見てんだよ」「文句あるか」などに見られるふてぶてしさを全面に押し出したキャラクターで人気を博したが、体力の限界を理由に1974年3月に志村と交代する形で休業(事実上の脱退)する。だが、実際の理由はやはり元々はバンドだった事がコント主体になってしまった事による方向性の違いや俳優業に転身したかった説が濃厚とされている。実際に荒井は脱退後に俳優業に転身していた。
その為、荒井がドリフターズのメンバーだった事を全く知らない世代(少なくとも1970年代後半~1980年代以降生まれ)も多い。
6人体制で稼働していたのは荒井の休業宣言発表から降板までの約3ヶ月間だった。ちなみに先の通り休業扱いであり、後のコントでは「永久追放」とネタにされたものの、6人のドリフのメンバーとして扱われる時がある。なお、荒井が6人目扱いというのは厳密には違い、志村が実質6人目である。ちなみにあまり知られていないが、ドリフ脱退後もしばしば全員集合にゲスト出演しており、最終回にも参加(いずれもクレジット上はゲストなのでドリフターズとしてではない)した。ドリフ大爆笑でも散発的にゲストとして登場しているため、6人体制のドリフターズはその後もしばしば見られた光景である。
以後はコメディアンや俳優として様々な映像作品で活動。2000年にはドリフのメンバーとして富士フイルムのCM『2000年だョ!七福神』(いかりや:寿老人、加藤:福禄寿、高木:布袋、仲本:恵比寿、志村:大黒天、荒井:毘沙門天、田中麗奈:弁財天)に参加。しかしすでに持病の糖尿病に起因する重度の肝硬変および腹水で苦しむ深刻な状態にあり、奇しくもこれが生涯最後の仕事となった。
同年2月9日、慢性肝不全により病没。享年71。実は年齢を少しごまかしており、本当はいかりやや高木よりも年上であった(本人は「リーダーの長さんよりも年上だと、色々都合が悪いから」としていたが、いかりや曰く「本当は女性にモテたかったから」らしい)。
すわしんじ(現・すわ親治)
本名 | 諏訪園親治(すわぞの ちかはる) |
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生年月日 | 1952年11月14日 |
出身地 | 鹿児島県 |
身長 | 167cm |
体重 | 69kg |
血液型 | A |
担当 | サイドギター・ドラム |
ドリフターズに憧れて付き人募集の面接に臨んで不合格となるも、必死の思いで食い下がって加藤の運転手として採用される。後に付き人を経て正式にいかりやに弟子入りし、音楽活動としては得意のアコースティックギターと加藤のドラム代行、コメディアン活動では出世作となった「奇声を上げて暴れ回るブルース・リー」や「鏡男」などで準メンバー『ドリフ第6の男』として活躍したが、正規メンバー昇格を先送りにされ続けるうちに全員集合が終了した1985年に脱退する。これ以降では幻のドリフメンバーと呼ぶ事も。
この事もあって荒井同様に彼を知らない世代も多い。
サラリーマン勤務をしていた頃に「手押し車とのソシアルダンス」「スコップギター」(スコップをエレキギターに見立てたハードロックギタリストの形態模写)を編み出して芸能界に復帰し、芸名を『すわ親治』に改めた1987年頃からソロ活動を始め、兄弟子である志村の冠番組やメンバー昇格の約束を果たせずに才能を惜しんだ師匠のいかりやの公演などへのゲスト出演をこなすようになる。
メンバーの中でも抜群の歌唱力を持ち、ギターの腕前を活かした「怪しい流し」(歌謡曲の歌詞に強烈な下ネタやブラックジョークを挟む)は志村のお気に入りであり、コミックミュージシャンとしての才能を高く評価している。また、形態模写という観点に限れば、日本でエアギターが認知された2004年よりも遥か前に持ち芸としてエアギターを完成させている。
pixivタグにおける表記揺れ
pixiv内ではタグ「ドリフ」でドリフターズのギャグを用いたパロディ作品が多いのに対し、タグ「ドリフターズ」ではメンバーの姿を描いた作品が多い。
また、昨今は同一表記である平野耕太による漫画作品『ドリフターズ』(DRIFTERS)とのタグ重複を回避するため、正式名称『ザ・ドリフターズ』を用いる傾向にある。
余談
芸名の由来
いかりやを始めとして荒井までのメンバーの芸名は、先輩であったクレージーキャッツのハナ肇が名付け親だといわれている。特に加藤・仲本・荒井は「芸事を水に例えた」「水にまつわる名前は縁起がいい」という事で「茶」「(水道)工事」「注(部首がさんずい(氵)・要注意人物の意味もあるという)」とされた。高木は太っていたから「ブー」になったと言われているが、加藤曰く「豚はああ見えて綺麗好き。綺麗にするには水が必要だろ?」と、ハナが無理矢理水にこじつけてきたという。
志村は自身の父の名前・憲司から自ら名付けたらしく、すわはいかりやによる命名だという。
関連タグ
卒業(ゲーム) キャラクターの名前の由来になっている。
冥王星O 魔族の使役する下僕の名前の由来になっている。
妖怪ウォッチ 全員集合のパロディコーナーがシリーズ化されている。