概要
本名は「釈契此」であるが、それ以外の個人情報は一切が謎に包まれている。
後世に禅僧とされ、日本でも禅画の題材として好まれたが、所属した宗派も不明。
中国では弥勒菩薩の化身とされ、日本でも馴染み深いお腹の出た男性像が弥勒菩薩像として使用されている。
伝記
布袋についての最古の記述は『宋高僧伝』による。まとめると以下の内容になる。
氏族は不明であるが、四明(浙江省寧波)出身者ともいう。
その姿は肥満体で、鼻を顰めており、お腹は大きくふくれていた。言葉はなくいつでもどこでも眠った。
常に杖と袋を持って市場に出向き、物を見てはそれを乞い、酢や醤(ひしお)、魚をもらうと口にし、少しを袋に入れた。彼は長汀子布袋師、という号で呼ばれた。
彼は雪の中に臥していたことがあったが、寝転ぶその体の上に雪が積もることはなかった。人々はこれをふしぎなことだと思った。
彼は「彌勒眞彌勒時人皆不識(弥勒は真に弥勒なり、時人みなそれを知らず)」という偈を口にし、ある人は彼の事を「慈氏垂迹(マイトレーヤの化身)」であると言った。
彼が大きな橋の上に立っているとき、「和尚さん、何をしてるんですか?」と尋ねられると「私は人を求めている」と答えた。
彼は常に誰かについていってはものを乞っていた。店では物を売り(買い)し、袋の中には百一もの衣類や道具が入っていた。彼は人々にその行いでもって吉兆と凶兆を知らしめた。
彼の変わった行動を見て人々は日照りや洪水を予見した。天復年間(西暦901年から904年の間)に布袋は亡くなり、最後の時を奉川で迎えた。土地の人々は彼を埋葬したが、それ以後も他の州で布の袋を背負って行く彼の姿が見られたという。江浙地方では彼の絵が多数描かれた。
『仏祖統記』によると、生前の布袋の弟子である蔣摩訶は師と遊行していた際、水浴びする布袋の背中に眼があるのを見て尋常ならざるものを感じ手を合わせたという。
信仰
弥勒の化身としてだけでなく富を与える財神としても信仰を集める。子供達と戯れる姿で描写され、家内安全の御利益もあるとされる。
牛に乗る題材も存在し、『狂歌若葉集』には「布袋和尚牛に乗りて唐子のひきて行く画に寺子ども引きたる牛の角文字はいろはにほてい和尚なるかな」という狂歌が収録されている。禅の古典『十牛図』には布袋を思わせる人物が登場するバージョンもある。求道者として旅立つ主人公を迎えにくるという役回りが多いが、この人物だけが描かれている物もあり、それまで牛と対峙していたのは布袋とも解釈できる形である。
日本では七福神のひとりとされ、『書言字考節用集』にある南光坊天海が徳川家康にレギュラーメンバーを示す伝承では「大量」の徳に対応する存在とされる。
『梅花無尽蔵』の「布袋賛」では「放下化龍杖。高聲如意珠。」という、彼がそれまで持っていた杖が龍が変じたものであるという記述があるが、この説がどれほど一般的だったかは定かではない。中国の『後漢書』にある、仙人のもとで仙術を学んでいた男が杖を捨てると龍になって去って行った、という「拋杖化龍」の説話をひっくり返したものかもしれない。
図像表現
代表的な持物として大きな袋がある。これは僧侶が用いる頭陀袋で、布袋が持つものは「堪忍袋」と呼ばれ「堪忍袋の緒が切れる」はこれが由来。
この他の持物として数珠、杖、如意(僧侶が説法や読経の際に持つ棒)、扇、ひょうたんがある。
杖にしては太かったり、先端が湾曲したり広がっていたりした場合、それは如意である可能性が高い。如意の形状はこの他にもバリエーションがあり、布袋像の持物にも反映されている。
財神としての信仰も集めることから、縁起物を持つ作例も多い。お椀に球体が入ったような、丸い種を残したまま半分に切ったアボカドのような形をした「元宝(銀錠)」や、日本史でもお馴染みの永楽通宝のような中心に穴の開いた貨幣を紐で繋げた物などが持たされる。
中国から(ベトナムとも言われる))弥勒信仰が伝来した琉球の神「ミルク」は太陽と月が描かれた軍配を持つ。
その他
中国や台湾には布袋劇という伝統的人形劇(現代でも霹靂布袋戲、金光布袋戲などの作品がある)が存在しているが、
こちらは布で出来た袋状の構造を持つ人形を使用するための命名であり、布袋由来というわけではない。
日本では苗字としても用いられている。この苗字を持つアーティストに布袋寅泰がいる。
また漫才コンビ・東京ホテイソンの名前の由来(布袋尊)にもなっている。