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概要編集

日本ではその像や絵が縁起物とされる存在。最も一般的な構成は「えびす大黒天毘沙門天弁財天福禄寿寿老人布袋」の七柱の神を指す。これがいわばレギュラーメンバーである。

インド(大黒天 毘沙門天 弁財天)、中国(福禄寿 寿老人 布袋和尚)、日本(えびすオオクニヌシ-大黒天と習合した)出身が入り混じった構成になっている。


最初からこの面々だったわけでなく、徐々にメンバーが追加されていき、人数が七人になった後もメンバーが変動することもあった。現在でも一部においてその変動メンバーに基づく七福神信仰が存在している。

同じく縁起が良いとされる宝船に乗った姿で描かれることも多い。

福禄寿と寿老人は、南極寿星(りゅうこつ座の一等星・カノープス)という同じ星の神格化であるため、御利益がかぶるとかいう以前にキャラが一応被っている。その為どっちかが統合されたり南極老人に置き換えられ、空いた枠に吉祥天や、鍾馗猩々などが入るバージョンが存在した。


レギュラーメンバー決定についての伝承編集

七福神が誕生したのは室町時代京都であるという。京都の都七福神は、日本最古の七福神を名乗る七福神を祭る寺社の集まりである。公式の由来によると、まず建仁2年(1202年)に大和大路通四条下ルに現存する京都ゑびす神社が立てられ、伝教大師最澄作の像が伝わる大黒天と共に、えびすと大黒天の「⼆福神」として盛んに祀られたという。この大黒天は元和二年(1616)建立の松ヶ崎大黒天に伝わっている。そして室町時代に入って禅と茶道が盛んになると竹林の七賢などの絵図が人気となり、これになぞらえて福神も「七福神」として選ばれるようになったという。


享保2年(1717年)刊『書言字考節用集』には南光坊天海徳川家康にまつわる伝承が記されている。それによると、初対面で家康の勝利を予言した天海は、後年の家康に対して、大乗経典の一つ『佛説仁王般若波羅蜜経』(鳩摩羅什訳)「護國品第五」にある「七難即滅、七福即生」のくだりをひき、天下太平の礎として七人の神があらわす七つの徳を示したという。

曰く恵比寿は「律儀」、大黒は「有福」、毘沙門は「威光」、弁才天は「愛敬」、布袋は「大量」、福禄寿は「人望」、寿老人は「寿命」。家康の天下統一や公共事業はこれらの徳をあらわすものだと言い、これを喜んだ家康は名画家として知られる狩野探幽を呼び七福神図を描かせた。

このメンバーに基づく七福神図はこれが最初であるといい、評判になったこの図はひろく模写され全国に広がることになったという。

この伝承は仏教側にも受け入れられており、天海僧正が創建した寛永寺の子院の一つ、東叡山護国院(谷中七福神の大黒天の札所でもある)で現代において配布されるパンフレットにも掲載されている。


ちなみに、明治時代の華族である黒田長成侯爵が探幽筆と伝わる七福神図を所蔵していた(参考)。


メンバーや人数が異なる例編集

一部では七福神に一人加え、八福神とする例もある。変動例としては以下のケースがある。

過去の例編集

  • 室町中期の仏僧瓊春(けいしゅん)が描いた七福神図では「大国主命蛭子命天鈿女命、毘沙門天、福禄寿、寿老人、布袋尊」だったという。中国の「竹林の七賢」に着想されたもので、七福神図のはじまりとされる。オリジナルは善光寺に伝わっていたが、文明五年(1473年)に火事で失われたという。
  • 室町後期・延徳年間に秋月という僧が宝船の源流とも言える絵を描いている。乗る神は四人だが、メンバーは鍾馗、大黒、福禄寿、布袋となっている。
  • 延宝八年(1680年)の若耶三胤子編『合類節用』ではレギュラーメンバーのうち寿老人が猩猩と入れ替わっている。
  • 摩訶阿頼矢(まかあらや)著・元禄十一年(1698年)刊『日本七福神伝』では「吉祥天女・弁才天女・多聞天王・大黒天神・布袋和尚・南極老人・蛭子三郎」
  • 正徳三年(1713年)に伊勢朝熊嶽(伊勢の朝熊山の金剛證寺)で虚空蔵大士(虚空蔵菩薩)像が開帳された折には「宝物目録」において「虚空蔵菩薩、稲荷大明神(弘法大師)、弁才天(弘法大師)、寿老人(安阿弥、快慶のこと)、毘沙門天(運慶)、大黒天(伝教大師)、恵美須(運慶)」が像の(伝った)作者名と共に七福神リストとして提示されている。
  • 元文二年(1737年)に神道家の増穂残口は『七福神伝記』において全員日本の神にした七福神リスト「大己貴命、事代主厳島大明神天穂日命、高良大明神、鹿島大明神猿田彦大神」を提案した。
  • 明和5年(1768年)に飽富神社(現・千葉県袖ケ浦市)神主・深河常陸介喬栄が日本の神のみで構成された「天神七福神像」を描いている。メンバーはこの神社の祭神である倉稲魂命をはじめ、市杵嶋姫命、少彦名命、大己貴命、事代主命、猿田彦命、天児屋根命。オオナムチは一般的な「大黒様」から袋と小槌を抜いたような姿で描かれ、事代主のほうが「えびす」の姿に当てはめられている。飽富神社にはこの七福神像を描いた看板が立てられているが、倉稲魂命を祀るこの神社を含む七福神巡りは公式には行われていないようである。なお、このメンバーに基づく七福神像は当社をのぞけば兵庫県の西ノ宮神社にのみ残された資料である。
  • 江戸中期の僧・白隠の絵『七福神合同船』ではレギュラーメンバーのうち、毘沙門天が鍾馗と入れ替わっている。
  • 江戸後期の僧・仙厓義梵は「七福神号」の書において福禄寿のかわりに「荷稲」を入れている。「稲荷」を逆さまにした表記と思われる。「七福神図」では老翁形の稲荷神を描いている。

現在も存続している例編集

  • 京都の清水寺の「清水寺八福神」、横浜市鶴見区の横浜熊野神社の「鶴見八福神」ではレギュラーメンバーにお多福を加える。正徳二年(1712年)に清水寺に掲げられた扁額『七福神享楽遊戯』の時点で確認できるメンバーリストである。
  • 江戸末期の斎藤月岑・編『東都歳時記』にはレギュラーメンバーのうち、大黒天のところが大国神となっている。現代でも七福神めぐりのうち大黒天にあたる所が大国主をまつる神社である例は複数ある。また、この書によると神田社を含むこのルートにおいては、寿老人のかわりに吉祥天の祠をめぐる選択肢もあった。
  • 東京都隅田川東岸の「隅田川七福神」の寿老人にあたる所はサルタヒコを主祭神とする白鬚神社となっている(相殿や境内には他の神々も祀られているが、寿老人はいない)。江戸後期・文化年間にこの七福神めぐりが、向島百花園に集う文人達に選ばれるにあたって寿老人を祀るところがなかったのでこの神社と祭神をあてはめたもの。「寿老神」と表記される(通常の寿老人が「寿老神」と呼ばれることはある)。
  • 横浜市瀬谷区の「瀬谷八福神」、愛知県豊橋市の「吉田七福神」ではレギュラーメンバーに達磨を加える(吉田七福神では「番外」扱い)。
  • 東京都文京区の「小石川七福神」はメンバーリストは一般的なものだが、そのうちの「弁財天(徳雲寺)」は宇賀神そのものとなっている。像の意匠としては習合神としての「宇賀弁財天」でもなく、ガチで宇賀神そのものである。そして男女双方の宇賀神がいるため事実上の「八福神」でもある。
  • 京都市右京区の「天龍寺七福神」では布袋と寿老人のかわりに不動明王(寿寧院)と稲荷神(妙智院)の寺社が含まれる。

吉祥天が入る例編集

  • 千葉県八千代市の「八千代八福神」、東京都八王子市の「八王子七福神」、埼玉県久喜市栗橋の「くりはし八福神」、山形県の「出羽七福神」ではレギュラーメンバーに吉祥天を加える。
  • 香川県観音寺市・三豊市の「四国讃州七福神」では福禄寿と寿老人を「南極福神」としてまとめ、吉祥天を入れて七福神とする。
  • 東京都豊島区・文京区の「雑司ヶ谷七福神」では寿老人のかわりに吉祥天が入る。
  • 長野県木曽地域(木曽川流域)の「木曽七福神」では福禄寿のかわりに吉祥天が入る。

七福神巡りに他の神仏を加える例編集

  • 京都府京都市東山区の「泉山七福神巡り」では番外として愛染明王(新善光寺)と楊貴妃観音(泉涌寺本坊)を間に挟む。「楊貴妃観音」という呼び名は唐の玄宗皇帝が亡くなった楊貴妃の冥福を祈り為に作像させたという伝説に基づくもので、観音像としては聖観音像とされる。その像容から中国(当時は南宋)から持ち帰られた当初は楊柳観音三十三観音の一)と呼ばれていた。
  • 神奈川県小田原市の「小田原七福神」、栃木県日光市の「今市宿七福神」では七福神巡りルートに二宮尊徳をまつる神社を加える。小田原は尊徳の故郷で、日光は亡くなった場所である。
  • 愛知県春日井市の「高蔵福徳神」は昭和38年に七福神レギュラーメンバーに、文殊菩薩・子安地蔵・不動明王の「三徳神」を加えて合計10箇所の札所をもうけている。

メンバー編集

固定である事が殆どのメンバー編集

バージョンによって変動するメンバー編集

補欠メンバー?編集

七福神をモチーフとしたキャラクター編集


その他編集


関連タグ編集

日本文化  宝船

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