概要
東京都立第一中学校(新学制度のため途中で東京都立日比谷高等学校に改称)、早稲田大学第一文学部英文科中退。
大学在学中に学生劇団である自由舞台に入団。1953年、大学を2年で中退し劇団民藝に研究生として入団。1954年に劇団民藝を退団しフリーランス、小規模の演劇グループ所属を経て、1958年3月からテアトル・エコーに所属していた。
吹き替え草創期から活動しており、同期には羽佐間道夫、小林清志、肝付兼太などがいる。テアトル・エコーの同期には二見忠男がいる。
「日本人のへそ」「表裏源内蛙合戦」「珍訳聖書」など一連の井上ひさし作品で好演、テアトル・エコーの看板俳優となる。
ルパン三世の声優として夙に有名。声優仲間からは「ヤスベエ」と呼ばれ親しまれていた。
あまりにもルパン三世の印象が強かった為か、嘗てTV番組「クイズダービー」に出演した時、共にゲスト出演した加藤みどりが自身の持ち役を多数披露するのを見て「いいなアタリ役が多い人は。俺なんかルパンくらいしかネタが無いんだよ」と言って会場を沸かせたことがある。
ただし実際はアニメの仕事が比較的少なかっただけで、映画の吹き替えなどでは寧ろルパン三世以外にも多数の当たり役を持っている。これは山田自身がアニメに対してあまり好意的ではなかったためであった。特に少年時代に、アメリカ軍の空襲を受けた世代であったため、1970年代のアニメブーム時に隆盛していたSFアニメには「正義のためだとか言っているけど、やっていることは要するに戦争」と強い嫌悪感を抱いていた。
山田が声を演じたSFアニメの中で、著名作は「Dr.SLUMP」(現在「ほよよ!宇宙大冒険」とされているタイトル)くらいで、それも敵ボスのDr.マシリト役である。アンドロー梅田役を演じた「宇宙の騎士テッカマン」については、事前に設定をスタッフから聞き、単なる勧善懲悪の作品ではないことに納得した上で出演している。
ルパンとの出会いはなんとアニメ化よりも前に演技について悩んでいた時に、親友の演出家から渡された「漫画アクション」から切り抜かれたルパン三世を読んだ事だという。最初は「いくら馬鹿なこと好きな俺でも漫画?(そんなアドバイスはないだろう)」と鼻で笑って馬鹿にしていた山田だったが、すぐに夢中になっていった。このため、実際にルパン役の仕事が来た際は「やる!」と即答した。
また、山田はバラエティ番組にも多く出演しており、1976年の「8時だョ!全員集合」の特別ゲストとして出演したことがある。ドリフメンバー特にいかりや長介とは親交が深く、ドリフメンバーに演技指導をした事がある。更に山田は「お笑いスター誕生」の司会を中尾ミエと共に担当したほか、ダウンタウンのコントにも出演している。このように数多くのバラエティ番組にも出演していたため、昭和でトップレベルに知名度の高く、昭和を代表する声優である。
「おかあさんといっしょ」では人形劇コーナー第7作目「ブンブンたいむ」のメインキャラクターであるつねきちの声を担当したほか、「おはなしこんにちは」の朗読、「大どろぼうホッツェンプロッツ」のナレーターと進行役、1978年1月3日放送の年始特集「爆笑ゴロンタの初夢」の司会も担当した。
役者としての心構え
芸に対し真摯で厳しい態度を保持していた人物であり、また「『声優業』とは『役者』の仕事の1つである」と言う持論から「声優」と言う職業をひと括りにされることを特に嫌い、自身も呼ばれると皮肉を返すほどだった。
声優という言葉に何ら抵抗を持たずに居る若手には特に厳しく、山田に憧れて声優になったと伝えた所、猛烈に激怒してアフレコが中止になるか否かの大事になったほど。
新人に対して指導の際にも「声優になりたいと思うのならやめなさい。でも、役者になりたいのなら、やってみてもいいかもね」「声優を目指すな、役者を目指せ。演技は全身でするものだ。それでこそ『声優業』も活きてくるんだ」が口癖だったそうである。
テアトル・エコー出身の俳優を始め、多くのレジェンド声優が肝に銘じていることでもある。
後輩の神谷明はこういった大御所の同業者が肩書きにこだわる姿勢について、「自分達を食わせてくれたのは声の仕事だ」として無用なプライドとして反論を出したことがある。が、その一方でこの「俳優としての土台があるからこそ声優業でも生き、演技力に繋がる」という姿勢自体は否定せず、この厳しい姿勢がその後の自分を支えてくれたとする。
しかし声の仕事を軽んじているわけではない。自身も最初にアフレコの仕事を振られた際、若手ながらも舞台で主役を貰うなど軌道に乗ってきた時期で増長していたこともあり、日々の食事をコロッケ一個で食いつなぎながらもバイト感覚でその仕事を受けた。が、あまりにもNGを出すためにすぐクビになってしまい、これにショックを受けた山田は自身の芝居について振り返り、また稽古を付け直したという。その1年後に得た吹き替えの仕事で山田はクリント・イーストウッドという生涯のはまり役と出会う。
この経験が、山田の俳優としてのスタンスを決定付けたと言えるだろう。
納谷曰く、「あんな普段はチャランポランにしているのに仕事に関してはプロフェッショナル」「シャイだから、仕事に入ってくる時は心底嫌そうに入ってくることもあったが、仕事が始まると絶対トチらない」と、その集中力と技術を称賛していた。
このため業界では「とにかく厳しい人」として通っており、ルパンで長年共演していた井上真樹夫も「仕事に緊張感を求める人」「納谷悟朗さんも怖かったけどあそこまでピリピリしていなかった」と語るほどだった。その一方で、没後十数年経った後も、山田を尊敬する同業者は多い。神谷明は「怖い先輩だったけど必ずその姿勢には意味があった」としており、納谷悟朗らと並んで穴が空くほど二人の芝居を間近で見て研究したと語っている。また、晩年少しだけ交流があり、後年一部吹き替えを引き継ぐこととなった多田野曜平も山田に憧れていたという。
同様にアニメに対して求めるものも多く、絵が完成していない事を理由にアフレコを中止させるエピソードが存在している。一方でゲスト共演者には細かい気配りを見せており、アフレコを中止させたのもゲストに対する配慮によるものであった事が、後年に明かされた。
『カリオストロの城』のアフレコにおいては当初、脚本・監督を務めた宮崎駿から「今回はこれまでと調子を変えて、例えばクリント・イーストウッドのような抑えた声をお願いしたいのでよろしく」という要望を受けていた。これに対して長年ルパンを演じてきた自負もあった山田は、当初こそ「ルパンはオレに任しときな! 今更ごちゃごちゃ言われたくねーよ。ルパンは俺が決めてるんだ」と横柄な態度で接していたが、アフレコ本番前のフィルム試写の視聴が終わるとその出来栄えに感動し、一転して真摯な態度で「先程は大変失礼なこと言いまして申し訳ございません。どんな無理な注文でも仰って下さい、何百回でもやり直します」と頭を下げたという。
この一連について共演していた小林清志は記憶にないと答えた一方、自分が見ていなかっただけで「山田の性格的にあってもおかしくはない」とも発言しており、自身がプロフェッショナルと認めた人には最大限の敬意を払う性格だと認識されていたようである。
『ルパン三世』映画作品としては、カリオストロの城の評価は必ずしも高くはなく、「あれはジブリアニメ」と主張するルパンファンの声も根強い。だが当の山田にとってはお気に入りの1本で、上述の理由からアニメ作品に厳しい氏が珍しく同映画のパンフレットでベタ褒めするほどであった。
ルパン三世降板騒動
一方でその職人肌ぶりからスタッフとしてはかなり扱い辛い人物だったようで、先の『カリオストロの城』でも宮崎に悪態をついた姿に作画担当の大塚康生が眉をひそめ、宮崎に「生意気だ、降ろしちまえ」と耳打ちしたこともあったという。
実際、大塚自身が全面監修(実質監督)を務めたOVA(後に東宝配給の劇場用にブローアップ)『風魔一族の陰謀』ではキャスト一新(と言う名のコストカット)にかこつけて山田を本人が知らないうちに降ろしてしまった。ところが、その事情を知らない、新ルパン役(になるはずだった)古川登志夫が「今度ルパンをやらせていただくことになりました」と山田に挨拶に行ってしまい、なにも知らされていなかった山田は激怒してモンキー・パンチに電話、モンキーも最初は「山田ら4人には了解を得た上で交代してもらいます」と聞かされていたため、今度はモンキーが東京ムービー新社に抗議の電話を行った。この誰も得しない負の連鎖は最終的に、全方位から問い合わせを受けた東京ムービー新社が「プロデューサーが逃げたんで解らん」と押し通して逃げきることとなった。
この影響でモンキー・パンチと山田康雄は生涯わだかまりが解けず、山田の死後にモンキーはこの騒動についてしっかりと説明できなかったことを酷く嘆き悔やんだ。
同僚との付き合い
増山江威子曰く、ルパンの共演者は収録中に馴れ合うことはなく、それぞれ思い思いに過ごすなど決して仲睦まじい関係性ではなかった。しかし、いざ収録が始まり、目的が一つになるとピタリと決まったという。
恐れられていたエピソードがある一方、仲の良い同業者だった納谷悟朗とは収録後に毎晩のように飲むなどしていたといい、一時期は別荘を買って同棲同然で毎夜主演を開いていたという。他にも酔って「次元大介と話させてやる」と言って、真夜中に小林清志の自宅に電話をかけるなど奔放なエピソードもある。
後にルパンを引き継ぐことになる栗田貫一とはモノマネを通じてプライベートでも付き合いがあり、終いには機嫌の悪い時に「俺はもう疲れたからクリカンにでもやらせとけ」という言葉を残したりもした。これが次のルパン役を決める一つの決め手にもなっているが、本人は「自分が死んだらルパンは終わらせて欲しい」と言い残していたとも言われる。
なお、栗田も当初依頼が来た時は山田の未収録部分だけをやると思っていたが、なんと全部をやる事になり、声の演技の世界に長年苦悩する事となった。
性格
このように人によっては傲慢にも見えるため、現場のスタッフからは辞めさせろと言われる程だった。
しかしこの姿勢はシャイな性格の裏返しであるとも語られており、反発的な態度は待遇の悪い声優業の地位向上を考えてではないか、と神谷明は語っている。
先の通り、表向きはやる気のない口振りや突発的なボイコットなどを行うことはあれど、仕事には一切手を抜かないなど、仕事に対するプライドは人一倍強かった。
また、声優業の待遇改善に向けて影で動いていたといい、特に再放送時のギャラも出すことを認めさせたことは大きい。このことを周囲にはまったく気づかせず、神谷明も「照れ屋だからまったく知らせてくれなかった。影で自分達後輩を守ろうとしていた」と語る。このことから神谷は「我々、山田さんの後輩の声優は、山田さんが切り開いてくれた道を辿っている」とまで、その功績を讃えている。
ルパンとしての最後
1993年になると体調を崩すようになり、同年に放送されたTVSP「ルパン三世 ルパン暗殺指令」では前半こそ「立ってやるのがアフレコであり、それで倒れたら本望」とまで語っていたが、後半の収録からは車椅子に座った状態で収録を行った。この時すでに、山田は自分の寿命がもう長くはないことを察していたのか、ルパン三世の音楽担当だった大野雄二に二つ目のアルバムであるルパン三世 tokyoトランジットを出したあとに「もう一つアルバムを出したい。早くしないと俺死んじゃうよ?」といつもの調子で語っていたという。(大野氏は、冗談だろうと思っていたが亡くなった後に作っておけば良かったと語っている。)
1994年のTVスペシャル『燃えよ斬鉄剣』の収録でも椅子に座って行っており、いつもなら簡単に跨ぐスタジオ扉の約20センチの段差を跨げなかったため、「かなり肉体的に参っているのでは」と感じるスタッフもいたという。この作品がCMを除けば山田の事実上の遺作となった。
そして1995年2月17日、脳出血によって倒れ意識不明となり、その1ヶ月後の3月19日にそのまま死去。享年は62と、他のルパンでの共演キャストと比較するとかなり早死であった。
しかし当時は、この翌日に東京都で発生した「地下鉄サリン事件」の方が大きく取りざたされていた影響から、山田の死は余り大きくは報道されず、数日も経ってから彼の死を知って愕然としたファンも少なくなかったらしい。
この死を受けて共演者は誰もが「ルパンは終わった」と思ったという。モンキーに至っては「『ルパン三世』は事実上の山田との合作」「終わってもいいやと思った。全然違う人にやってもらってもイメージが違うものになってしまう」とまで話していた。しかしルパンのモノマネをやるとして有名で、生前から何かと交流のあった栗田貫一がピンチヒッターとして入り、そのままルパンを引き継いで演じることとなった。
出演作
アニメーション作品
うらなり@坊っちゃん
ジョー@山ねずみロッキーチャック
ジム@ハックルベリィの物語
ドン松五郎@我輩は犬である ドン松五郎の生活
人形劇
吹き替え
クリント・イーストウッド*3 | ジャン=ポール・ベルモンド*4 | グレアム・チャップマン(モンティパイソン)*5 |
カーミット(マペッツ) | ||
歌
みんなのうた「まるで世界」
アルバム
ルパン三世東京トランジット
司会
*1 劇場作品『くたばれ!ノストラダムス』の予告編までの担当。後任は栗田貫一(同作の本編以降、全てのメディア作品で担当)。
*2 没後にリリースされたゲーム作品『タツノコファイト』では、野沢那智が代演。
*3 没後、山田が吹き替えていた洋画のテレビ版の欠落シーンの追加収録における代役は多田野曜平。新作の吹き替えは小林清志、瑳川哲朗、野沢那智が複数の作品を担当。2019年に日本で公開された『運び屋』では多田野が初めて新作主演映画の吹き替えを担当。
*4 没後は、主に羽佐間道夫が担当。
*5 後任は安原義人(ゲーム作品『モンティ・パイソンのHoly Grail』、映画作品『人生狂騒曲』)⇒多田野曜平(映画作品『モンティ・パイソン ある嘘つきの物語 グレアム・チャップマン自伝』)。