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ダウンタウン

だうんたうん

繁華街を意味する英単語のこと。また、それに由来するお笑い芸人のコンビ名。
目次 [非表示]

曖昧さ回避

  1. 繁華街、都心部、あるいは商業地区。downtown、Central Business District。なお直訳すると「下町」になるが、これは誤訳
  2. 浜田雅功松本人志による漫才コンビ
  3. ゲーム「くにおくん」のダウンタウン熱血物語シリーズ(五頭身の熱血硬派シリーズと別の、三頭身のシリーズのこと)。

ここではお笑いコンビについて解説する。


概要編集

吉本興業所属。1982年結成。NSC大阪校1期生。同期にハイヒールトミーズなどがいる。

とんねるずウッチャンナンチャンと並ぶ「お笑い第三世代」と呼ばれた次世代お笑い芸人の代表格である。

漫才に限らずコントも数多く制作しており、その芸風の多彩さにも定評がある。

2010年のM-1グランプリでは松本人志が登場する際、「漫才の歴史は彼(ダウンタウン)以前、彼以後に分かれる。全芸人がリスペクトする、笑いの生きる伝説」と紹介された。


来歴編集

1963年、共に兵庫県尼崎市に誕生。放送作家としてダウンタウンを支える高須光聖も含めて3人は幼なじみで、小学校、中学校と同じ学校に通い、浜田・松本のコンビだけでなく高須とのトリオを組んでいたこともある。

浜田も松本が行動を共にするようになったのは中学2年生の頃からであり、当時の松本の「相方」であった同級生と浜田が喧嘩をし、「まっつん行こうや!」と言う浜田に松本が「なんか知らんけど」ついて行ったのがきっかけである(松本曰く、ダウンタウン結成の瞬間)。

松本とは放送部に所属し、地元尼崎で暴れ回っていたが、浜田が留守だった同級生の家のドアをノコギリで切って中に入るという悪さをしたため、中学卒業後は浜田は三重県にある全寮制の刑務所高校、松本は地元の工業高校にそれぞれ進学することになった。

それでも、盆や正月に浜田が帰省した際には二人揃ってご飯を食べにいったり遊びにいったりしていたので決して親交は薄れていなかった。スパルタ教育に耐えかねた浜田が脱走した際には松本が駅まで迎えに行くこともあったそうな。


高校卒業後、松本は地元の印刷工場に就職。浜田は父親の勧めで競艇選手になることを夢見て競艇学校の試験を受けるものの不合格に終わった。教師からは大学進学も勧められたが、また厳しい学園規則に束縛されるのは御免だったため、結局何もしないまま1年を過ごした。そんなある日、たまたま目に入った吉本興業の養成所(NSC)のチラシを見た浜田は即座に松本に連絡し入学しようと誘った。当初、松本は困惑したものの、浜田の熱意に負けNSCの入学を決意。


1982年4月、共にNSC1期生として入学。同時期にコンビも結成した。

当初は『松本・浜田』というコンビ名だったが、複数回の改名(『まさと・ひとし』→『てるお・はるお』→『ライト兄弟』)を経て現在の『ダウンタウン』となった。

そして、入学わずか2ヶ月目にして、テレビ初出演となる毎日放送『素人名人会』にて名人賞を獲得。その1ヵ月後には『第3回今宮子供えびすマンザイ新人コンクール』で福笑い大賞を受賞。これらの功績が認められ、NSC在学生では異例の早さで「なんば花月」の公演へ特別出演した。


しかしながら、当時は知名度がまだ低く仕事は月に数回程度であった。仕事がない時は地元のスナックでアルバイトをしたり、当時のマネージャーでもある大崎洋と共に映画館や銭湯等を回っていたという。

そうした中でも劇場で舞台を踏みながら『NHK上方漫才コンテスト』や『ABC漫才・落語新人コンクール』へ出場し、次々と賞を獲得していく。そして大崎はダウンタウンに対して「彼らの場を作ってやらんといかん」と、大崎が発起人となり当時大阪・心斎橋に南海電気鉄道が賃貸契約していた劇場「南海ホール」での定期開催を計画。笑いのターゲットを若年層に絞り、若手芸人と共に1984年7月12日「心斎橋筋2丁目劇場 in 南海ホール」(通称「心劇」)を毎週末に開催した。


1985年、関西テレビ『今夜はねむれナイト』内にて3分程度によるコントコーナー「ダウンタウン劇場シアター」でテレビ初レギュラー番組を獲得。また、ラジオ大阪『おっと!モモンガ』金曜日の司会者に起用される。前述した南海ホールでの定期ライブ「心斎橋筋2丁目劇場」も徐々に反響を呼ぶようになり、多くの若者から支持を受ける。

1987年、大阪毎日放送で放送開始された「4時ですよーだ」の司会を務め、関西で大ブレイク。

1989年、本格的に東京進出。「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」「夢で逢えたら」「ダウンタウンのごっつええ感じ」でその人気と地位を不動のものとし、現在に至る。


2022年4月3日、なんばグランド花月で吉本興業110周年記念イベント「伝説の一日」にて同会場31年振りに漫才を披露した。


メンバー編集

浜田雅功(はまだ まさとし)

1963年5月11日生まれ

ツッコミ担当


松本人志(まつもと ひとし)

1963年9月8日生まれ

ボケ・ネタ作り担当


芸風編集

それまでの漫才では見られなかった独特のゆるさ・気の抜けた空気感・スローテンポがダウンタウンの漫才の特徴。これらの要素は、これまでハイテンポが主流だった漫才の基本形から考えると真逆と言えた。このスタイルを始めた当時には横山やすしから「チンピラの立ち話」と酷評された。一方それから数十年経過したのちに太田光爆笑問題)からは「すごいな、立ち話みたいな感じで漫才をやるっていうのが。俺らにはできないスタイルだから、めちゃくちゃおもしろかった」「あれが本当の漫才のスタイルだな」と高く評価された。

とはいえ、元々は(当時の)正統派の漫才師を目指していたらしく、通用せず試行錯誤を繰り返して今のスタイルに辿りついたという。

このダウンタウンのスタイルが成功してからはこのスタイルを真似る者が出てきたらしく、ダウンタウンを知る先輩芸人が「ダウンタウンは正統派を散々やってきてこのスタイルに行き着いた。最近はそんな手順もふまず安直に真似る若手が多くなった」と苦言を呈したこともある。


さらに、松本のシュールで無茶ぶりともいえる破壊的なボケと、浜田の切れ味鋭い迫力のあるツッコミによって生み出される独特な世界観もダウンタウンの特徴といえ、ガキ使のフリートークでもこの色は如何なく発揮されている。

コントにおいては松本の色が強く表れており、可笑しみと悲しみが両立した作品が多い。


テレ朝出入り禁止?編集

ダウンタウンは東京・大阪のテレビ局(日本テレビTBSフジテレビMBSABCテレビ読売テレビ)が制作するレギュラー番組を持っているが、東京では1996年を最後にテレビ朝日制作のレギュラー番組を持っていない。

ただし、浜田雅功はテレ朝系列で放送されるABCテレビ制作全国ネット番組をレギュラー、特番とも持っており、松本人志もABCテレビが制作・主管を行う『M-1グランプリ』で審査員として出演している。


2019年3月24日放送の『ワイドナショー』(フジテレビ)で松本は、ゲストとして迎えた中居正広が同年4月から『中居正広のニュースな会』(テレ朝)のMCを務めることに触れ、「俺は皆さんがご存じの通りテレ朝出禁なので」「テレ朝の偉い人と吉本の偉い人が揉めたって…」「(吉本の)上層部が啖呵を切ったんですよ『ダウンタウン出せへんぞ』って。そしたら向こう(テレ朝)が『いらへんわ〜』って」と暴露した。


なお、3月26日にテレ朝が行った会見では、テレ朝の編成担当はダウンタウンのテレ朝出禁について「そのような認識はありません」と否定。またテレ朝と吉本が揉めたことについても「そのような事実は把握しておりません」としている。


テレ朝最後のレギュラー番組は1995年に関東ローカルで放送された『かざあなダウンタウン』。この番組はダウンタウンの無茶振りに若手芸人が体を張って様々な企画にチャレンジするものだった。

関連人物編集

横山やすし・西川きよし

因縁のある事務所の先輩。

ナインティナイン

事務所の後輩兼ライバル。

爆笑問題

他事務所の漫才師で基本相いれない関係。

出演番組編集

日テレ編集

TBS編集

フジテレビ編集


関連イラスト編集

じじいになってもダウンタウン「日本だってまだ捨てたもんじゃないぜ」


関連タグ編集

漫才師 コント師 芸人 吉本興業

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