概要
かつて三重県津市と伊賀市、兵庫県姫路市に存在した全寮制の学校である。
法人としては青田強(1907-1986)により1965年に創立され、翌1966年に日生学園第一高校が開校。1980年に日生学園第二高校、1983年に日生学園第三高校が開校した。
現・桜丘高等学校(伊賀市)、青山高等学校(津市)、自由ヶ丘高等学校(姫路市)の前身である。
自由ヶ丘高校のみ男子校で、三重県にある2校は共学である。
ちなみに甲子園に応援団として参加した生徒が暴力沙汰(という名の他校生徒の蹂躙)が発生した為、1回の出場以降は暗黙の大会出禁状態になったなどという眉唾な話もある模様。
何より最大の特徴は、ダウンタウンの浜田雅功と今田耕司の2人が在籍していたことだろう(浜田は卒業生、今田は一年次に中退し別の高校に編入している)。
想像を絶する過酷な学園生活
1970~80年代にかけて、自衛隊よりもハードな超スパルタ全寮制教育 で有名だった。その厳しさは松本人志曰く「刑務所」。
日生学園の日常
- 朝は4時に起床(水曜日と日曜日は7時起床、学寮長は3時起床)。起床してすぐに、大声をあげながら一心不乱に床やトイレを磨く「晨行」を行う。通常は数十分間だが、3年生は卒業前に6時間行う。ちなみに、トイレ掃除は便器を素手で掃除させられる。汚れがこびりついていたら指の爪を使って剥がす。
- 毎日早朝に10kmのマラソンが義務付けられている。更にマラソン大会も開かれる。学生寮から校舎まで登校するのも当然走らされる。
- 校歌を泣くまで何百回も斉唱。
- 24時間私語厳禁。さらに机の外に足を投げ出すことも、休み時間にトイレ以外の目的で席を立つこともだらけるのも厳禁。
- 寮内には雑誌や菓子類などの持ち込みは禁止、テレビやラジオも当然なく、一切の娯楽が許されないため情報が遮断されている。唯一情報を得る手段は、月一度の散髪の際床に敷かれる古新聞。
- 男子は坊主頭強制。頭を洗い流す際は真冬でも冷水。
- 教室移動の最中、クラスの誰かが怒られたら連帯責任としてクラス全員でコンクリートの上で12時間正座。
- 懲罰として裏山に連れてかれひたすら穴掘りをさせられる。
- 教師の話に少しでも目を逸らすと鉄拳が飛ぶ。逆に目線を見続けても鉄拳。
- 教師や上級生による暴力は日常茶飯事。浜田でさえ1年生の頃は上級生から理不尽な暴力を受けており、別のグループが怒られている所を通りかかると「お前もこっち来い」と命令され、正座した途端トイレの下駄で殴られたという。また、教師から松葉杖で殴られたこともある。
- 教員の労働環境もブラックそのもので、生徒と同じく早朝の起床と校長の説教が強いられており、上司や先輩に殴られる。
- なぜか雨具所持禁止。大雨だろうが大雪だろうが濡れたまま。であるにも拘らず、体調を崩したとしても40度の熱でも出ない限り休ませてもらえない···
- その他、日常のあらゆる行動にオーバーな動作と大声が強制された。やることが無くても手足をブンブン振りながら叫ぶなど、効率という考え方は全く窺えない。
このような厳しさだったので、暮らすためのテクニックも刑務所以上に発達しており、特にお菓子は貴重品で賄賂のようにも使用されていたという。第一高校に1年時にのみ在籍していた今田耕司曰く、「角砂糖一個持っていればクラスをシメれた」。
今田が語ったところによると、実家から送ってもう日用品のひとつである枕の中にいちごミルクを入れてもらい、それを先輩に配っていたという。また、甘いものが欲しくなり錠剤を舐めていたりもしたらしい(甘いと感じたのは曰く「研ぎ澄まされていた」ためであり、大人になってから舐めると全然甘くなかったとのこと)。
女子寮では夜にお菓子が配られていた。
超絶スパルタ教育で雁字搦めになった環境故に脱走者が出るのは日常茶飯事で3年間耐えきり最終的に副学寮長まで勤めた浜田さえも一度脱走したことがある。
無論、脱走も命懸けであり学園周辺は民家や商店、駅を含め厳重な監視で散りばめられており、脱走に成功しても近隣住民からの通報一本で直ぐに捕まってしまう程の警備体制が引かれている。因みに脱走者が出れば学校中に警報音が鳴り響き、全生徒が体育館に集まり点呼をとり、脱走者が帰ってくるまで全員正座を強いられる。
その為、今田は脱走時に集団で丸一晩掛けて山を越えてその道中も学校関係の車が通れば山道の林に隠れたり、人目を避けるために林や池、川に入りながら進むなど道なき道を彷徨っていたという。そして、最寄駅から二つ程離れた駅で列車に乗り、電車が発車するまで座席の下に隠れ続け、ようやく列車が発車した頃には夜明けを迎えており、朝日が昇ると同時に今田は仲間と囲んで抱き合って喜んでいたという。因みに脱走用資金は事前に持ち込んでいた一万円札をアレの裏に小さく折り畳んで脱走するまで隠し続けていたという。
この壮絶な脱走物語は今でも語り草となっており、千原ジュニアや宮迫博之からはプリズン・ブレイクやショーシャンクの空にに喩えらるほど有名である。
卒業式前日に逆お礼参りというものがあり、嫌われすぎた3年生は下級生から今まで鬱憤ばらしに呼び出されてリンチに遭うのだとか。人望のある3年の場合は卒業生と下級生から普通にお祝いされる。
生徒の中にも壮絶なスクールカーストが存在しており、浜田曰く「1年は奴隷、2年は一般人、3年は神様」。1年生は食事は先輩より先に箸をつけてはならず、先輩より早く食べ終わって食器の片付けを行い、食事中も先輩のお茶が減ったらすぐにヤカンを取りに走るのが掟であり、休み時間も先輩の衣服の洗濯をするため校舎と寮を往復していたそうな。
また、1年生が上級生から叱られる場合、まず3年生が2年生に「指導不足」として制裁を行い、それが終了した後に2年生が1年生に折檻を行うというシステムであり、難癖をつけられ理不尽な暴力を受けた2年生は憎悪を募らせて1年生を呼びつけるため制裁はかなり激しかったらしい。
だが、理不尽に厳しい上級生だけでなく普通に接してくれる優しい先輩も存在しており、浜田は1年次に寮で同室だった3年生からチョコレートを貰っていたと語っている。ちなみにその3年生は学園の番長であり、その権力を活かして女子寮からお菓子を横流ししていたという。
今田は過酷な学校生活に耐えきれなくなり中退しているが、もちろんすんなりと辞めさせてはもらえず、一度脱走に成功して手続きのために保護者同伴で学校に戻ったところ、担任から「学校続けると言うまで殴るわ」と親の眼前で往復ビンタを食らい、心が折れてしばらくは学園生活に戻ることになったが、結局冬休みで帰省した際に学校に戻ること無く退学している。
僅かに女子生徒も在学していたが、男子生徒が大多数を占める上に異性間の交流は全く無かったため、男子寮では男色が横行しており、今田は男子生徒同士の性行為を目撃したことで「いずれ自分も性欲の捌け口にされるかもしれない」と恐怖を抱いたという。また畑中涼子女史のヌード写真を切り取って洗面所の鏡の裏に全員が隠して、自慰行為していたことも。
修学旅行や遠足などの学校行事も一切なかった。修学旅行に関しては、生徒が旅行先で問題を起こしたため廃止されたとのこと。
教員や上級生からの理不尽な暴力に耐えきれずに自殺した生徒や、不審な死を遂げた生徒も出ていたという(日生学園事件)。
今田は一年時のある日、珍しく菓子パンが配られたため先輩に理由を聞いたところ、「リンチで死んだ先輩の命日やねん」と恐ろしい答えが返ってきたと語っている。…ちなみに今田は厳しい校則と甘いものへの飢えから極限状態となっており、怖いと感じるより先に「あと1人死んでたら…」という考えが浮かんだという。
当時東海、関西圏では、子供への親からの脅し文句の一つとして「悪いことをしたら日生学園に入れるぞ!」というのが定番だったほどであり、実際に手に負えない子供を叩き込んでいた家庭もあった。
ちなみに浜田は中学生の時に友達の家のドアをノコギリで切って壊すという悪行をやらかし、今田は万引きを発端に家出をして自宅謹慎となったため入学することになった(※)。
なお、千原ジュニアも引きこもりだった当時に体験入学に行ったが、前述の日生学園事件が大きく取り沙汰されていたため親が進学させられないと判断したため難を逃れている。
※…浜田は父親が「普通の学校に入らせたらヤバい」と担任に相談し、「厳しい学校はどうですか?」とこの学校を紹介された。今田は通っていた中学が真面目な生徒が大半だったためヤンキーや問題を起こす生徒に若干冷たく、万引き騒動を受けた担任が「この学校に入れないとロクな大人にならない」と親に勧めたため入学することに。
1985年にこの様相に耐えかねた教師が週刊誌に内部告発したことで大きな問題になり、国会レベルの調査も入り県からも改善されない限り認可を取り消すと指導された。
晨行の執行頻度が下がり、起床時間が1時間遅くなるなど改善が進められていった。
OBのタレントたちにより本校のスパルタ時代の話はよくトーク番組のネタとして語られている。
特に浜田は、1年時に番長が食堂から盗んだ卵でアイロンを使って卵焼きを作ったこと(西川貴教曰く「米兵じゃないですか」)、散髪中に床に敷かれた新聞を読んで石原裕次郎の入院を知ったこと、帰省で地元に戻り友人と遊んでいたところ、三色の歯磨き粉を見て仰天したエピソードを、今田は上記のアメを持ち込んだ話を定番ネタとしており、度々披露している。
進学校に生まれ変わった現在の日生学園
青田亡き後、学園は進学に重きを置くように方針転換した。
この辺りからは「男子生徒の坊主頭強制」も当然、廃止している。
1988年には、第二高校に併設されていた日生学園附属中学校が、第一高校への併設になり、中高一貫校となる。
第一高校は2000年までには全寮制をやめ、通学生も受け入れるようになった。
創立50周年を迎えた2015年、校名は前述のとおり第一高校→桜丘高等学校、第二高校→青山高等学校、第三高校→自由ヶ丘高等学校になり現在に至る。
桜丘を除き全寮制を維持しているという点は変わらないものの、修学旅行などが復活するなど、往年に比べれば随分普通の学校になったとのことである。
ゲーム機などは持ち込めないなど校則の厳しさがなくなったわけではないが、構内にはネットのできるPCも備えられており情報遮断ということもなくなっている。
もちろん朝4時起床ということもなくなり、6時半~7時など常識的な起床時間になっている。
なお自由ケ丘高校は生徒数減少にともない、2021年度(令和3年度)以降の新入生募集を停止し、前年度卒業式を以て休校した。在校生については希望を聞き取った上で、同学園が運営する別の高校へ転入したとのこと。結果的に因果応報と言う道に成り下がってしまった。
詳細は以下を参照のこと。
その他
出身有名人
- 長谷川豊(アナウンサー)【第一】
- 今田耕司(お笑い芸人)【第一】1年の冬に耐えかねて退学。
- 浜田雅功(ダウンタウン)【第二】副学寮長に上り詰めた。
- 鮫島秀旗(元プロ野球選手、現ヤクルトスワローズチームスタッフ)【第二】
- 赤松芳朋(SOPHIAのドラマー)【第三】
- 海猫沢めろん(作家)【第三】赤松氏と同期。
このほか、1990年代以降にはJリーガーやプロボクサーを輩出している。
関連タグ
PL学園:かつての超スパルタ学校。