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市川崑

いちかわこん

日本の映画監督。(1915年(大正4年)11月20日 - 2008年(平成20年)2月13日)

概要編集

三重県宇治山田市(現:伊勢市)出身。呉服問屋の末っ子長男だったが父親の急死と呉服問屋の倒産が重なり4歳で姉の嫁ぎ先である大阪市西区九条に移り幼少時を送る。


1933年にJ.O.スタヂオに入りアニメーターの助手を務めたが、当時のアニメは劇映画の添え物のようなもので商売にはならなかった。

さらに1935年には所属するトーキー漫画部は大幅に人員が縮小され唯一のアニメーターとなった。このころに6分のアニメ映画『新説カチカチ山』を手掛けたが、次第に劇映画に傾倒。トーキー漫画部の閉鎖に合わせて実写映画に転向した。

1937年にJ.O.スタヂオは写真化学研究所(PCL)と合併して東宝映画株式会社となり、助監督として石田民三伊丹万作並木鏡太郎青柳信雄中川信夫佐伯清阿部豊らに師事。特に阿部豊の影響を大きく受けており、氏の監督作品のリメイクも手掛けている。

太平洋戦争時は広島市に住んでいたが、1944年に召集令状が来たため仕事先の砧撮影所から餞別をもらって広島の連隊に向かう。しかし小学生時代に脊椎カリエスを発症したことを申告したため帰郷。

その後1945年にふたたび召集令状が来るが、今度は盲腸の不具合を感じて軍医に申告。「手術をするなら軍でもお前の知っている病院でもいいがどうする」と尋ねられとっさに「かかりつけの医者でします」と答えた。当時市川にかかりつけ医はいなかったが、念のため広島市内の病院で診察を受けると腹膜炎寸前だったことが判明し緊急手術を受けた。

退院後はすぐに帰京を勧められたため東京に戻ったが、そのしばらく後に広島に原爆が投下された。砧撮影所の所長だった森岩雄から話を聞いた市川はすぐに広島に行こうとするが、森から「今行くとがれきの下から猛烈な煙が出ていてそれを吸うと死ぬぞ」と止められた。その後手紙で家族全員の無事を知ったことから荒廃した広島に向かっている。

戦後は次第に左翼化していくスタッフたちには共鳴できず、東宝争議でも組合離脱派を支持。新東宝で映画を手掛けることになり『-「眞知子」より- 花ひらく』て初監督。同作は阿部豊がプロデューサーを務め、メインキャストは高峰秀子上原謙とスターぞろいである種のおぜん立てが行われたという。

以後娯楽映画からドキュメンタリー、更にはテレビ時代劇ドラマまでを幅広く手がけ、長期間映画制作に取り組んだ。


主な監督映画に『ビルマの竪琴』『炎上』『おとうと』『鍵』『東京オリンピック』『股旅』『火の鳥』の他、『犬神家の一族』を始めとする金田一耕助シリーズなどがあり、主なテレビドラマの演出作品に『木枯し紋次郎』がある。


幼少期に一家で唯一の男児だったことから甘やかされたために魚介類が苦手で、「肉しか食べない」と言われるほどの偏食家だった。石坂浩二から脂分の多い牛丼を食べていることを注意された際に「こんな年になって食生活は変えられないよ」と笑っていたという逸話もある。

またヘビースモーカーとして知られ、くわえタバコでインタビューに応じたり、『NHK紅白歌合戦』の審査員になった際には古舘伊知郎から「場内は禁煙でございます」と忠告された逸話がある。


関連タグ編集

山陽新幹線新大阪駅岡山駅間開業記念CM「汽車会見」を手掛けた。

例のプール:一時期居住していた。

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