経歴
歌手となるまで
1914年(大正3年)福島県双葉郡大久村(現 いわき市大久町)の農家の三男として誕生。(旧制)小学校を卒業後に上京し、中学に通いながらボクサーを目指すが断念する。その頃にテノールの藤原義江のレコードを聴いて歌手を志し、苦学しながら東京音楽学校(現 東京音楽大学)を卒業した。
浅草のレビュー小屋でアルバイトをしながら吹き込んだエヂソン・レコードの『僕の思い出』がコロムビア文芸部長・松村重武の目に留まり、1936年(昭和11年)に日本コロムビアへ入社。同社のトップ歌手だった松平晃を目標として歌唱技術を磨き、松平にはないテノールの甘い声質と邦楽的技巧表現を開花させた。
歌手として
翌1937年(昭和12年)に『赤城しぐれ』でデビュー。1938年(昭和13年)、松竹映画『愛染かつら』の主題歌『旅の夜風』を当時大スターだったミス・コロムビア(本名・松原操=後に本名を芸名とする)と共に吹き込み大ヒットし、1年間で120万枚を超える日本のレコード史上初めてのミリオンセラーとなった。
これが縁となって1939年(昭和14年)にミス・コロムビアと結婚。その後も『一杯のコーヒーから』『愛染夜曲』『愛染草紙』『純情二重奏』『誰か故郷を想わざる』『新妻鏡』『目ン無い千鳥』『蘇州夜曲』『相呼ぶ唄』『そうだその意気』『若鷲の歌』『勝利の日まで』などのヒットを次々と飛ばし「コロムビアのドル箱」とのあだ名を取った。特に誰か故郷を想わざるは初めは全く売れなかったが、レコードを慰問袋に詰め中国大陸の兵隊に送ったところ、望郷の念に駆られた兵士の間で愛唱され、内地へ逆輸入される形となり国内でも爆発的なヒットとなる。発売後半年で70万枚を超えるヒット曲となり、戦後もNHKののど自慢などで歌われる名曲となった。作詞の西条八十、作曲の古賀政男、歌った霧島昇の代表作となる。
1943年(昭和18年)、召集令状を受け、大日本帝国海軍横須賀海兵団に入団。極度の近眼のため徴兵検査で不合格となっていたが、霧島のファンである海兵団の伊藤竹夫大佐が軍医長に命じて身体検査をパスさせた。海軍では、情報蒐集及び宣伝を主任務とした副長付班に所属した。
戦後は『リンゴの唄』を皮切りに『麗人の唄』『三百六十五夜』『旅役者の唄』『胸の振子』『旅の舞姫』『夢去りぬ』『赤い椿の港町』『ギター月夜』『白虎隊』『石狩エレジー』などのヒットを放った。特に並木路子とのカップリングで歌った『リンゴの唄』は戦後初のヒット曲となり、戦後を扱ったドラマ等では必ずと言っていいほど流される名曲となり、霧島の代表作の一つとなった。生涯に吹き込んだ数は3千曲以上とされ、NHK紅白歌合戦にも5回出場している。 実際の霧島は寡黙で真面目な人柄で、極度のあがり症だったという。
おしどり夫婦として知られ、松原との間には4人の子宝に恵まれた。息子の坂本紀男は父親(霧島)の母校である東京音楽大学主任教授で、『思い出のメロディー』(NHK総合)に出演し、父の代表曲を歌ったことがある。紀男の他に娘が3人おり、三女の大滝てる子は母の芸名を継ぎ「二代目 松原操」として両親の楽曲を歌い継いでいる。
霧島は1984年(昭和59年)4月24日、腎不全のため死去。享年69歳。妻の松原も後を追うように霧島の死から2か月後の同年6月19日に73歳で死去した。現在も長谷寺に夫妻の墓所が営まれている。
霧島の出身である福島県いわき市には『誰か故郷を想わざる』の歌碑が建立されている。
関連タグ
歌手 ミュージシャン 露営の歌 若鷲の歌 リンゴの唄 日本コロムビア 音楽
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