概要
日本の江戸時代における上州(上野国)館林藩の藩士であり、幕末の動乱期では当時の藩主・秋元志朝が長州藩と血縁関係であったことから勤王家(尊皇派)として活動していた。
江戸では高島流砲術を学んでおり、後に水戸で幕府直轄の教学機関である昌平黌(昌平坂学問所)にて学問も学んでいる。
戦国時代における名将たち二百余人について、各大名家を巡って千部以上にものぼる文献を調べ上げ、その中の武将たちの言動逸話を蒐集した名著である『名将言行録』の著者としても知られており、初代首相・伊藤博文も愛読していたという。後の文藝春秋の創業者である小説家の菊池寛によって編纂された。
しかし、安政元年(1854年)から書き始めたが完成して刊行されたのが明治維新後の明治2年(1869年)であったことから、名将言行録は古典と見做されず多くの日本史研究者たちはまとも歴史書として扱わなかった。
そのため繁実は歴史家と見做されずに『国史大辞典』にも彼の名は載っていないという不遇な扱いを受けている。