概要
ベルリンオリンピックは当初1916年に開催予定だったが、第一次世界大戦勃発により中止となった。さらにドイツは第一次大戦で敗戦し、国土は荒廃し深刻な経済難に陥っていた。
しかし、1931年パリで行われた第11回夏季大会の開催地を決める投票でベルリンが43対16でスペインのバルセロナを下し再び開催する運びとなり、開催に向けて準備を進めることになった。なお、夏季オリンピックは規定で開催が中止になっても開催地に選ばれたことが「みなし開催」とされるため、記録上ベルリンでの開催は2回目とカウントされる。
「ヒトラーのオリンピック」
開幕まで
開催決定の翌年1932年、11月の国会選挙で反ユダヤを掲げるナチスが第1党を獲得し、その後党首のヒトラーが首相に就任するが、ヒトラーはオリンピック開催に否定的だった。反ユダヤのヒトラーにとってオリンピックは「ユダヤ人の祭典」であり「ユダヤとフリーメイソンの発明」と考えていた。しかし、側近から「プロパガンダ効果が期待できる」と説得を受け開催を決断。決定後ヒトラーはオリンピックを「アーリア人の優位性と自身の権威を世界に知らしめる絶好の機会」と位置づけ、国ぐるみで総力を挙げて会場やインフラの建設を推し進めた。
ボイコットの危機
開催が決まったベルリンオリンピックだったが、ヒトラー率いるナチスがドイツ国民の支持の下で反ユダヤ政策を推進し、反政府活動家への弾圧を行っていたことから、ユダヤ人が多く暮らすアメリカやイギリス、開催地を争ったスペインが開催に反発。開催権の返上や参加をボイコットする動きを見せていた。これに対しドイツ政府は何としても開催に漕ぎつけるために、大会期間中の前後に限り反ユダヤ政策を緩和することを約束したほか、ヒトラー自身も人種差別(特に黒人差別)発言を自制するなど国の政策を一時的ではあるが転換してまで大会成功に導こうとした。実際、大会に向けて準備が進む中、それまで国中にあった反ユダヤの標語が書かれた看板が姿を消し、ユダヤ人選手の参加も認められた。また、反政府活動家を収監していた収容所も規則が緩和され、一部の活動家は亡命が事実上容認された。