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松島型防護巡洋艦

まつしまがたぼうごじゅんようかん

松島型防護巡洋艦は日本海軍の防護巡洋艦。初代連合艦隊旗艦として日清戦争に参加し黄海海戦の勝利に貢献した。10年後の日露戦争でも旧式ながら参戦している。
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概要

明治維新以降、日本は自国防衛の為に朝鮮半島を大陸側の絶対国防圏と設定したが、当時の朝鮮は清王朝の保護国化にあり、両国は朝鮮半島の支配権についてたびたび衝突していた。
だが、列強すら「眠れる獅子」と恐れる清国相手にまともに戦争をするには勇気も戦力も明らかに足りなかった。
特に日本が警戒していたのは、ドイツで建造された2隻の戦艦鎮遠、定遠であり、この2隻は当時「東洋一の堅艦」と恐れられていた。
1891年の清国艦隊の親善訪問(と言う名の威圧)ではその異様に何も知らない子供までもが泣き出したと言われている。
「この2隻を何とかしなければ清国とはまともに戦えない」と言うのは、当時海軍のみならず陸軍ですら認識していた。

ただ、ここで問題が発生した。
当時の日本ではこの2隻に対抗できるまともな戦艦を造る技術も、他国に発注する資金もなかったのだ。
これは、日本が慢性的な財政難だったことに加え初期の予算において陸軍の予算が優遇されていたことが原因である。
明治初期の日本は「外国とケンカ」するよりも「身内の揉め事を処理することの方が重要で、内戦の主体となったのは陸軍だった。
初期の予算の分配は陸軍10に対し海軍1と悲惨なモノだった。
また、当時の海軍軍令部は陸軍参謀本部の下部組織であり、海軍は陸軍の指示に従って動くことがほとんどだった。
これは後に、陸海軍の不仲として末代までの語り草となる。

この様な状況の中、当時の海軍大臣西郷従道の補佐をしていた山本権兵衛がとあることを思いついた。
「戦艦が造れないのなら、戦艦の攻撃力を持った巡洋艦をたくさん造ればいい」
これが松島型巡洋艦建造の経緯である。

建造

設計

かくして日本海軍はこの変態巡洋艦の建造計画に着手することとなる。
コンセプトは「敵戦艦(鎮遠、定遠)の装甲を打ち破る攻撃力を持つが、戦艦よりも安い」と言う事で、これを実現させるために当時の戦艦の標準的な主砲(鎮遠定遠も同じもの)である30.4㎝砲を上回る32センチ砲を1門搭載。
この巨大砲を松島は艦後部、橋立・厳島は艦前部に配置した。そのためまるで自走砲のようなシルエットをしている。
本艦を設計したのはフランスの著名な設計技師エミール・ベルタンであり、彼はこの艦を建造するにあたって最適な大きさの船体を日本に提示した。

しかし、ここでまた問題が起きる。ベルタンが提示した船体では価格が高い上に当時の日本の湾港設備では対応できなかったのだ。

結果、日本の設備で対応できる最大の船体である4000t級まで(これでも価格的にはかなりギリギリ)スケールダウンされた。
ベルタンは当初この意見に賛成できず、船体を元に戻すか、出来ないのであれば4000t級の通常型巡洋艦として建造することを提案した。
だが、日清の関係は日増しに悪くなるばかりであり巨大戦艦と言う目の前の恐怖に支配されていた日本海軍はこの提案を受け入れず、計画はそのままで続行された。
もしここでベルタンの意見を聞いていれば、松島型はもう少しましなものになっていたかもしれない。

運用

先ほども述べたとおり、本艦の主砲は1門しかない。対する清国戦艦はどちらも30㎝を4門積んでおり、数では明らかに不利である。そこで日本海軍ではこの艦を4隻1セットで使用し、1隻の戦艦のように使おうと考えた。
スイミーとか合体ロボを想像してもらえると分かりやすい。
同型艦にもかかわらず、砲の配置が違うのはこうした運用を行うためである。
結局、そのような晴れ姿は実現しなかったがこの神業を習得するために毎日猛訓練を積んだため日本海軍の練度が急上昇すると言うオマケがついた。

実戦

期待

莫大な予算をつぎ込んだとあって、本艦に対する軍部・国民の期待は大きかった。
主砲の32㎝砲は当時世界最大の艦載砲だったこともあり、その姿は逞しく映り、3隻の絵葉書が出ると飛ぶように売れたと言う。
名前の由来が日本三景であることからも、本艦に対する期待がうかがえる(因みに計画変更された4番艦(後述)の艦名は秋津州と言い、古来より日本全体をさす言葉)。

現実

結果として、松島型の船体は32㎝砲を搭載するにはあまりに小さすぎた。
主な問題点として
搭載するだけで重量的にアンバランスになり、砲を旋回すればその方向に傾く
それが災いして想定していた仰角が取れない
砲を発射すると反動で進路が変わる
そのおかげで狙いがうまく定まらない、結果全く当たらない
体格の小さい日本人にとって、この砲の操作は重労働を通り越して拷問
砲自体も故障が頻発などである。

因みに、日本海海戦で活躍した三笠などを見ればわかるが、当時の主力艦の横幅は異様に広い。
これは主砲である30㎝砲の反動を受け止める為であり、逆を言えば大型砲を撃つにはそれだけ広い幅が必要と言う事である。
松島型は腐っても巡洋艦であり、それに適した細長い船体をしている。
そんなものに、32㎝砲なぞ積めばどうなるか、子供でも分かる話だ。
例えるなら10歳ぐらいの女の子に、16ポンドのボーリング球でストライクを出せと言っているくらいえげつない話である。

結局

松島型は松島と厳島はフランスのラ・セーヌ造船所で、橋立は技術向上のため横須賀で建造された。
しかし、最初は恐怖心からベルタンの提案を断った日本も実際に使ってみるとその使い勝手の悪さに頭を冷やしたらしく、財政難も重なって建造は3隻で打ち止め。
予定していた4番艦は徹底した計画変更がなされまともな巡洋艦となった。
このことに、ベルタンは心底腹を立てそのままフランスへ帰ってしまった。(当たり前だ)

しかし、松島型に対する国民・軍部の期待の大きさは結局変わらなかったらしい。

余談だが、この変更された4番艦秋津州は日本が設計・建造を行った初の純国産巡洋艦である。
設計の基礎になったのはアメリカの防護巡洋艦ボルチモアで基が良かったのか初の国産艦にも関わらずよくまとまった巡洋艦だった。

日清戦争

とにもかくにも、建造された3隻は日本海軍の主力として日清戦争に参加。1番艦松島は初代連合艦隊旗艦となった。
ただ、松島型はエンジンも欠陥品であり、清国海軍も決戦を避ける姿勢を取ったため、後の大和たちと同じく自宅警備員となった(主力艦が本当の意味で忙しかったのは日本では日露戦争ぐらい)。
ようやく実戦に参加したのは1894年9月の黄海海戦である。
もちろん、松島型の32㎝砲は期待を裏切ることなくまったくの役立たずのままで、発射されたのは松島と橋立が4発ずつ、厳島が5発である。
後の捕獲された鎮遠に32㎝砲の破孔が1つだけ発見されたらしい。
もちろん致命傷にはなっていない。

だが、松島型事態が役立たずかと言えばそれは大きな誤りである。
3隻に副砲として搭載された計34門の3インチ速射砲(もちろんイギリス製)は、清国艦隊の戦闘力を喪失させ、海戦における勝利の一因となった。
ただ逆を言えば、松島型の兵装はこれだけでも十分であり、32㎝砲がなくても海戦の勝利は揺るがなかったであろうから、結局ベルタンの忠告は正しかったことになる。

戦後

Made in Franceの不幸

戦後の3隻は比較的平和な余生を送っている。日清戦争で手に入れた、かつてのライバルである戦艦鎮遠を仲間に加え、半端者同士でロートルユニットを組んだ。
10年後の日露戦争では第3艦隊第5戦隊として参戦。当然ながら二線級の扱いだったが、日本海海戦では、主力部隊への情報提供を積極的に行い前座として活躍。
樺太攻略では陸軍部隊の護衛役も務めている。

しかし、1番艦松島は明治43年の航海訓練中、寄港した台湾の馬公にて謎の爆沈を遂げ、兵学校を卒業したばかりの少尉候補生33名が殉職した。
そのなかには、日露戦争で活躍した大山巌の息子である大山高も含まれていた。
「陸軍では親の七光りと言われる」とあえて海軍を選んだ気骨ある青年であったと言う。

さらに悪いことに、その後引き上げられた松島のカッターが鎌倉の逗子開成中学に寄贈されたが、そのカッターは明治43年に沈没。乗っていた生徒12名全員死亡と言う悲惨な事故だった。

そもそもこの松島は例の黄海海戦で、恐れていた鎮遠の巨砲をまともに喰らって一撃大破に追い込まれていた。しかも装薬に引火して、一瞬で90人を超える死傷者が出たという(乗組員全体は350人ほどだったらしい)。

初代連合艦隊旗艦と言う輝かしい経歴を持ちながら建造から沈没後まで良運に恵まれなかった。

ただこの不幸体質は松島に限らず日本海軍に在籍していたフランス製軍艦に度々起きた事である。

有名なものとして巡洋艦畝傍の遭難事故や千島艦事件がある。
後者の事件は、ぶつかって来た商船側に責任があったが商船会社のきわめて紳士的な対応により、危うく商船の修理代金を払わされるところだった。
余談ながら、千島の設計者もベルタンである。

畝傍至ってはその最後からあまりに縁起が悪いとして旧海軍はおろか海上自衛隊でも使われていない。

ただし、全てのフランス艦がそうと言うわけではなく日本海海戦で活躍した吾妻のようにそれなりの戦歴を持っているものもいるし、同じ三景艦でも厳島と橋立は天寿を全うしている。

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