意味
敵に囲まれて孤立無援の状態。出典は「史記」項羽本紀。
秦滅亡後に「漢王」劉邦と「西楚の覇王」項羽が争っていた楚漢戦争末期の「垓下の戦い」において、項羽は砦を包囲され、挙句に自分の故郷の歌が敵の軍から聞こえたことで、自分の故郷の人は敵軍に寝返ってしまったのか、と嘆いたことが由来の故事成語。
故事
垓下の歌
紀元前202年、漢軍は大軍で楚軍を垓下(がいか)※1に追いつめて包囲した。しかし楚軍特に項羽本隊は非常に強く漢軍総司令である斉王韓信の本隊が敗北しそうになるほど漢軍は手こずっていた。
これに危機感を抱いた韓信は劉邦の軍師・張良に策を尋ねる。そして数日後、以下の策が実行される。
夜が明けるころ四面の漢軍が盛んに項羽の故郷である楚地方の歌を歌うのが聞こえてきた。項羽や砦の中の兵士はそれを聞いて驚き「(囲んでいる漢軍の中に)なぜ楚の人がこんなに大勢いるというのか、漢は既に楚を占領してしまったのか」と絶望したという。これこそ張良たちが練った心理作戦であり項羽を初め楚の将士たちに『援軍の見込みは無い』と誤認させるに十分であり、大量の兵士たちばかりか将軍たちの中でも離脱者が出てしまう。
この時、自身の運命を悟った項羽は残った部下たちや愛人である虞美人と最後の宴を開き以下の「垓下の歌」を歌った。
力山を抜き気は世を蓋ふ
時利あらず騅逝かず
騅の逝かざる奈何すべき
虞や虞や若を奈何せん
ちなみに騅とは項羽の愛馬である。また、この詩から勇壮な様を形容する「抜山蓋世」という言葉が生まれている。
覇王別姫
その後、虞美人も次の歌を返す。
漢兵すでに地を略し
四方に楚の歌声す
大王の意気尽きたれば
賤妾(せんしょう)なんぞ生をやすんぜん
そして剣舞を披露した後、項羽の剣で自決してしまう。この下りは京劇の演目「覇王別姫」でも名高い。
項羽自身は八百騎を率いて砦を打って出て包囲網を突破するが道中で農夫に騙され道に迷い、灌嬰率いる漢の騎兵隊に追撃され次々と討たれてしまう。
それでも26騎と共に長江の渡し場がある烏江亭(うこうてい)※までたどり着いたが江を渡ることを諦めて覚悟を決める。最後はたった一人で数百人を倒した末に自決し31歳の生涯を終えた。
※1:現在の安徽省宿州市霊璧県
※2:現在の安徽省馬鞍山市和県烏江鎮
同名の楽曲
梅とらが投稿した楽曲。
【巡音ルカ】四面楚歌【オリジナル】
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背水の陣…用法は似ているが本来はまったく違う意味。こちらも項羽に関係がある。
フィクション作品にて
『異世界おじさん』より、異世界(グランバハマル)に於ける慣用句
「グベン軍10日目の慟哭」と「四面楚歌」は翻訳上の類似性が高い……らしい。