概要
コンスタンティノープルとは、東ローマ帝国の首都のこと。およそ一千年に渡る東ローマ帝国の繁栄において、ほぼ一貫して首都であり続けた。ボスポラス海峡というヨーロッパとアジアを繋ぐ要衝にあって、国際貿易の一大中心地であり、テオドシウスの城壁という難攻不落の城壁によって多年に渡る諸国大軍の侵攻を退け続けた。
元は、古代ギリシャではビュザンティオンと呼ばれた植民都市であった。
ローマ皇帝コンスタンティヌス1世がローマ帝国の新首都として建設してからは
ラテン語あるいは古代ギリシャ語でコンスタンティノポリスと呼んだ。コンスタンティノープルはその英語読み。
現代トルコ語ではイスタンブールと呼び、多くの国ではその名称を採用している。ただし、ギリシャでは今もコンスタンディヌーポリ、あるいは略してイ・ポリと呼んでいる。また、アルメニアでもポリスあるいはボリスと呼ばれる事が少なくない。
この街の現代の姿についてはイスタンブール記事を参照。
歴史
しばしば、コンスタンティヌス1世(大帝)が、首都をローマからコンスタンティノポリスに移した、と表現されるが、それはあまり正確ではない。ローマ帝国の後期において、首都と呼べるほど皇帝にはローマに滞在している時間はなく、在位期間の大部分を前線で過ごしていた。軍人皇帝時代の混乱を収めたディオクレティアヌス帝は、東西に二人の正帝と二人の副帝を置く制度を行った。この4人の皇帝の主な職務は帝国の4つの前線にて防衛あるいは進撃を行うことにあった。4人の皇帝はほとんどローマに滞在せず、皇帝の代替わりにおいても前線の軍団が次の皇帝を決め、ローマ元老院が指名した皇帝は攻め滅ぼされたという(田中創『ローマ史再考』NHK出版)。実はローマの首都機能は既にいささか形骸化しつつあったのである。
コンスタンティヌス1世は他の皇帝を攻め滅ぼしてローマ帝国を統一すると、ボスポラス海峡の北岸にあったギリシャ都市ビュザンティオンを3倍もの大きさに拡張した。既にあった公共浴場や政治イベントが行われる広場(フォルム)などを整備する。戦車競走場を建設して同じく建設した宮殿から直接出入りできる回廊を設けた。しかしまだこの街はコンスタンティヌスの政治拠点であるにすぎず、人口も少なかったらしい。ところで、ずっと後の中世に至るまで宮殿から戦車競走場は直接出入りできるようになっていた。これは、戦車競走場というのが単に皇帝と民衆が共に競技を見物するだけの場所ではなく、民衆の身近に親臨した皇帝に対し、民衆が歓呼あるいは請願を行う政治的行事の場であったことによる。
コンスタンティヌス1世死後の後継者争いを制して帝国を再統一したのは、次男のコンスタンティウス2世であった。コンスタンティノープル元老院は先帝時代から存在していたが、コンスタンティウス2世によってローマ元老院に匹敵する権限を与えられ、帝国東部の行政をも左右するようになった。しかしコンスタンティウス2世もその後継者たちも、主に前線に近い地域に宮殿を構えており、コンスタンティノープルに滞在する事は稀であった。コンスタンティノープルはボスポラス海峡と金角湾に挟まれた当時の技術ではお世辞にも住環境が良いとは言えない岬であり、特に水の確保には苦労することになった。この問題は4世紀に水道橋が建設されて北西の水源地から水道が引かれて改善に至る。完成時の皇帝の名からヴァレンス水道橋と呼ばれて今に残る巨大な遺構がそれである。
統一ローマ帝国最後の皇帝となったテオドシウス1世は、初めてコンスタンティノープルにほぼ定住するようになったという皇帝である。彼の時代には第1コンスタンティノポリス公会議が開かれ、コンスタンティノポリス主教へローマ司教に次ぐ名誉を与える教会規定が現れる。これは後世にコンスタンティノポリス総主教庁が正教会の世界総主教となっていく根拠になったという。
帝の死後に5世紀が始まる。そして帝国が最終的な東西分裂に至る中で、コンスタンティノープルは東方シルクロードからの貿易を欧州各地と結ぶ集散地として栄える。この帝都には港湾や倉庫など首都にふさわしい設備が次々と整えられ、特に金角湾は天然の良港として貿易や海軍の発展に貢献した。次いでゲルマン人やフン族の脅威が迫る中、テオドシウス2世によって先述のテオドシウスの城壁が建設される。そして、西方に領土を大きく回復したユスティニアヌス1世が焼失していた首都教会の中枢であるハギア・ソフィア大聖堂を現在の形で建設したことで、中世に至るコンスタンティノープルの街が完成している。