コンスタンティノープルの陥落
こんたんてぃのーぷるのかんらく
1453年に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)で起きたメフメト二世率いるオスマン帝国との戦い。
およそ50日間にわたり籠城戦が続けられたが、幾度もの危機を乗り越えたコンスタンティノープルはついに陥落し、東ローマ帝国は滅亡する事となった。
東ローマ帝国の皇帝であるコンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセスは、防衛戦の中で死亡したとされる。
これにより、4世紀から分裂統治後に分かれた東ローマ帝国は滅亡する事となった。
そして、古くから続いたローマ帝国の命脈もここで途絶えた。
ただの国の滅亡に留まらず、西洋史への影響は非常に大きい。
・双方の戦力
東ローマ帝国兵力:7,000人(内2,000人がヴェネツィアとジェノヴァの傭兵)
オスマン帝国軍兵力:100,000~20,0000人
※ただしオスマン帝国軍は直接戦闘する兵士以外にも多数の非戦闘員が参加するのは通例であったので、現代では10万人前後と言う説が有力。
・最終的な損害(死者)
東ローマ帝国:兵士4,000人 市民1,0000人
オスマン帝国:詳細不明
ただし、東ローマ帝国側は多数の市民が捕虜・奴隷となっている。
東ローマ帝国はかつては大版図を誇った大帝国であった。
しかし、拡大と縮小を繰り返す中で文化水準は非常に高かった物の勢力としては徐々に衰退。
国内の権力争い、十字軍の侵攻などが重なり1400年頃には帝国とは名ばかりで、コンスタンティノープル周辺と付近にある半島の自治領や多少の島など抱える程度の小国となっていた。
それでもかつての大版図を取り戻さんと試みたコンスタンティノス11世であったが、一時的に領土を拡大させた物の、現状は厳しく大帝国となっていた隣国のオスマン帝国は精強であり適う事は事は無かった。
以後、オスマン帝国とは表向きは平和的な関係を結びつつ、自身が即位した後もそれを表立って崩す事は無かったが、1451年にオスマン帝国のスルタンである、ムラト二世が亡くなり、メフメト二世に王位が移った。
開戦のきっかけは、1451年に帝国を維持するために行った亡命王子であるオルハンのスルタン即位の警告であった。当時コンスタンティノープルに亡命していたオスマン家のオルハン王子を対立スルタンとして擁立する事を警告した事により、メフメト二世が立腹してしまったのである。
この時、メフメト二世は内心立腹はしていたが、そうとは見せない態度だったので使節は気付かず、怒りを買っていた事とメフメト二世の本質を理解したのは1年後であった。
これは、コンスタンティノス11世が即位したばかりの若きメフメト二世を侮っており、外交カードとしてオスマン帝国の皇族であるオルハンを支援させて反乱を起こさせる事をチラつかせ、監視のための身代金増額を狙ったためである。
それと同時にオスマン帝国に揺さぶりをかける狙いもあり、推測ではあるが内乱を起こさせ運良く内乱が起きればオルハン皇子を帰還させて国を二分させ、オルハン皇子の後ろ盾となるつもりだったのかもしれない。
こうした一見危うい駆け引きを行ったのには理由があり、当時メフメト二世は19歳で即位したばかりだった上に、父のムラト二世から継いだ王位をヴァルナ十字軍など各種のトラブルに対応出来ずに王位を一度返還してムラト二世を復位させる事で対処させる事となった過去があったからでもある。
また、1451年は小アジアに目が向いていたために、西欧方面とは和睦や和平協定を結びまくっていた。このためにメフメト二世の外部から見た評価としては『トラブルに対処出来ず、小国とも和平協定を結ぶ気弱な王』と言うような評価であり、近い将来、内訌(ないこう。うちわもめの事)でオスマン帝国は衰退すると言う見方が強かったためであった。
しかし、この評価は見当違いも甚だしくメフメト二世の危険性に気付いていたのはコンスタンティノス11世の側近ではゲオルギウス・スフランゼスのみであったと言う。
結局、この要求が滅亡への引き金となっており、コンスタンティノス11世最大の失策とされる。
1452年にオスマン帝国はルメリ・ヒサールと言う城塞を四か月で築き、コンスタンティノープル攻略の拠点とした。メフメト二世は十万の大軍を準備させ、着々とコンスタンティノープルへの侵攻へ歩みを進めていた。周辺諸国ではオスマン帝国はコンスタンティノープルへ侵攻するのでは、と見る人も多かったという。このコンスタンティノープルから目と鼻の先に建設された城塞にコンスタンティノス11世は抗議したが、「皇帝は城壁の外に事実上領土を持っていない」と返答されて、初めてその怒りに気付いた。まさか戦争開戦のきっかけにまでなると思ってなかったコンスタンティノス11世は平和的な交渉を行ったが、全て不成功に終わった。
ただ、メフメト二世も文化の最先端たるコンスタンティノープルに多大な関心を持っていたようで、いつか手に入れる都市と強く決心していた可能性がある。
スルタンとしての地位を確固たるものとする事に加え、厄介な家臣の排除、数多くのカリフが成し得なかった偉業の達成を狙うチャンスでもあったのだ。
そもそもコンスタンティノープルを手に入れるのはイスラム教としては悲願でもあった、それは預言者であるムハンマドがコンスタンティノープルをいずれイスラム教徒が征服する事を預言していたからであり、その成就の度に難攻不落の城塞に挑み続けていたのだ。
ただし、武力による解決は絶対条件では無く、無血開城の手もあった。
事実、メフメト二世は戦争中もたびたび和平交渉を行っており、落城間近でもコンスタンティノープルを引き渡せば皇帝の助命と東ローマ帝国の存続を認めている。
コンスタンティノープルと言う文化的で素晴らしい都市を無傷で手に入れられるのであればそれに越したことは無いからである。
コンスタンティノス11世は慌てて西欧諸国からの援軍を得るために奔走した。
しかし、各国共に反応は芳しく無く、ローマ教皇のニコラウス5世は応じる姿勢は見せたが進展と言える物は無かった。ヴェネツィアとジェノヴァはコンスタンティノープルを商業上の重要拠点としていたために、援軍を送った物の2000人前後が精々であった。
十字軍と言う決定的な援助を得るために、カトリック側から援助のための交換条件として出された衝撃的な発表をコンスタンティノス11世は行った。
それは、東ローマ帝国が連綿と国教としている東方正教会(ギリシア正教)をローマ・カトリック教会に統合させると宣言であった。
しかし、この宣言は国民から大反発を受けた。ある重臣は「ローマ教皇の冠より、スルタンのターバンを見る方がマシ」と言う者すら出た。
カトリック教は同じキリストを信仰する物であるが、完全に別物であるととらえられていた。
教義や作法、教会組織の在り方の違いにより、ローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教が相互破門を起こした事を切っ掛けに、当時は深い断絶があった。
(例えるなら同じメーカーから出されている同じカテゴリーの商品でも相いれない程の争いがあるような物。)
また、ビザンツの民衆の大半は国のためではなく、信仰を守るために生きており、国を守るために信仰が侵されるのは本末転倒だったのである。
メフメト二世は現実主義的な性格として広く知られており、仮に征服されても信仰の弾圧までは無いのは明白であった。
合同典礼は実行された物の、得られたのは僅かな援助でしかなかった。
結局当時は西欧各国が大軍団を組織出来る状況では無い事もあり、コンスタンティノス11世の外交努力は実る事も無く、国内に亀裂を生むだけと言う皮肉な結果となってしまった。
コンスタンティノス11世は急いで城内の武器と、戦える兵士を集めさせたが、5000人に満たない人数しかいなかった。余りに少ない数字に皇帝はショックを受け、その数字を公表してはならないと厳命した。
後年の事となるが、合同典礼をカトリック側が強要して実際に行ったのに、正教会の総本山であるコンスタンティノープルを見捨てた事を正教会との宥和の場で20世紀の教皇ヨハネ・パウロ2世は深く謝罪している。
1453年4月。
オスマン帝国率いる十万の大軍勢がコンスタンティノープルを包囲した。しかし、コンスタンティノープルを簡単に落とせるとはメフメト二世以外誰もが考えていなかった。
コンスタンティノープルは過去、幾度もの戦いを経た経験がある歴戦の都市である。古くは紀元前から始まり、東ローマ帝国となってからも二十回以上の包囲戦を経験している。第四回十字軍により一度は陥落されたが、後に奪還しており、戦いを経るたびに様々な防御の工夫や仕掛けが増えて行った。
城壁の総延長は約26㎞、更には三重の防壁に守られており、更には金角湾と呼ばれる部分には巨大な防鎖が張られ、河口を封鎖し艦隊の侵入を塞いだ。このため、オスマン帝国がコンスタンティノープルを包囲したと言っても、それは地上部分だけであり、河を使い援助物資は幾らでも届ける事が出来たのだ。まさに、当時最強の城塞こそがコンスタンティノープルと言う都市であった。
オスマン帝国は十万、東ローマ帝国は七千。この比べるべくもない程の差であったが頑強な都市である事に加え、歴戦の都市と言う自信がそこにはあった。
しかし、メフメト二世も本気で陥落させに来ていた。
それも攻城戦では難しい短期決戦を狙っていた。
オスマン帝国は500㎏以上の石弾を1.6㎞先まで飛ばせる長さ8m以上、直径75cmの巨大大砲であるウルバン砲を購入していた。
大量の人員を必要とする欠点はあったが、オスマン帝国ではそれは問題にならなかった。
また1回発射すれば砲身を油で冷ますために再発射までに3時間かかったため、1日7発が限界。ほか長期の連続可動を行えば、砲身が破裂して死傷者が出てしまう事もあった。更には命中精度も悪く、大きな都市であるコンスタンティノープルを標的にしても外すことがあったと言う。しかし、コンスタンティノープル攻略には大きな活躍をしたと言われており、砲撃の合間に修繕を行っても確実に城壁を破壊していった。なお、このウルバン砲開発した技術者ウルバンが、この化物大砲を最初に売り込みに行ったのはオスマン帝国では無く、東ローマ帝国だったと言うのは皮肉である。
東ローマ帝国側にも大砲はあったが、小さい物で反動で城壁を傷つける可能性があり多用は出来なかったと言われる。
また、コンスタンティノープル内部では統制が取れているとは言えなかった。
東ローマ帝国の領民(ビザンツ人)は皇帝であるコンスタンティノス11世に対する支持が非常に低く、皇帝とは認めないと言う者も珍しく無かった。
(これは合同典礼問題に加えて、イレギュラーな帝位継承も原因であった。)
そして激戦を潜り抜けたと言う城壁への絶大な信頼は油断となり、神の加護と威光で何事もない日々が続くと思っていた者も多い。そしてビザンツ人の兵は余り働かず、援軍に来たジェノヴァ、ヴェネツィアの兵の方が良く働いた。ビザンツ人は富める者は財を提供するどころか保身により隠し、貧しい者はその日暮らしから城塞修繕より畑仕事を優先したり、給与の先払いを要求する始末であったとされる。(ただし、富裕層は自身の富はコンスタンティノープルがあればこそと思っていた者も多く、溜め込んだ分はいざと言う時の金である可能性が高い。)
開戦後には必需品の不足により物価の上昇が起き、溜め込んだ物資を高値で転売する者もいた。(もっともこの手の転売はいつの時代であれ、どこの国であれ起こってしまうのだが…。)
この様に様々な問題を抱えていたが、ジェノヴァの軍人であるジョヴァンニ・ジュスティニアーニが調整役として立ち回った。
ジュスティニアーニは、城内の各勢力の反目を抑え、連れて来た傭兵団による防衛を行ったためにコンスタンティノープルは鉄壁の守りを敷くことが出来た。
コンスタンティノープルが二か月間にわたり持ちこたえたのは彼の力によるところが非常に大きかった。しかし、ビザンツ内部からの積極的な助力は殆ど無かったのである。
(ただキリスト教圏のお題目や大義より、自らの生活の方が大事と言うのは民衆にとっては当然の事であり、彼らは大局に振り回される側ではある。)
コンスタンティノス11世も内部のビザンツ人たちより、救援に来たジェノヴァ人やヴェネツィア人の兵士たちを信頼しており、彼らを中心に防衛計画を組み立て、また重要地点に配置した事からもそれがうかがえる。
陸による攻撃だけではらちが明かないと考えたオスマン帝国は策を練る事になった。
大軍を動員しても、向こう側が野戦に出てこない限りは長期戦になる事は明らかである。
この間に何か手をうたれて、撤退と言う手は避けたかった。
艦隊も引き連れており、海からの攻撃もしていたが決定打にはなりえなかった。
先述の金角湾には防御の鎖があり、そこに入れない以上、水運により援助物資は運び込まれる。
ここにきて完全に膠着状態となったオスマン帝国軍は大奇策を打つ。
丸太により木の道を作り、それに油を塗って艦隊を陸上輸送し、金角湾の中に入る事に成功した。
70隻(数は諸説あり)の艦隊を山越えする奇策により、コンスタンティノープルは援助物資の供給が途絶え、その士気を大きく下げる事となった。
この艦隊により、防衛を海側にも伸ばさざるを得なくなり、守りは手薄になった。コンスタンティノープルに陥落と言う運命が忍び寄りつつあることを誰もが予感していた。
この戦いの間、形式的にコンスタンティノープル側とオスマン帝国側で和平交渉は続いていた。
メフメト二世は、開城と降伏を行えば、安全な退去と所領であるモレアス専制公領にて東ローマ帝国支配の存続を認めた。
しかし、コンスタンティノープルが落ちれば最早東ローマ帝国は終わったも同然である。
「あなたに町を引き渡す権限は、私にもこの町に住む誰にも無い。命が助かるよりも喜んで死ぬことが我々の一致した決意である。」
首都の開城をコンスタンティノス11世は拒絶し、包囲戦は続行された。
(ただし、この言葉にコンスタンティノープルの民衆の願いがどれだけ入っていたかは不明である。何しろ、彼らは信仰が守れれば国が変わっても良いのだから。)
オスマン帝国内部でも、主戦派と和平派で激論が飛んだものの、結果としては主戦派の言い分でまとまった。
コンスタンティノス11世が願っていた西欧諸国からの援軍は結局来なかった。
隣国であるハンガリー王国はオスマン帝国に対し干渉を行ったが、消極的な物であり結局のところ効果は無かった。
コンスタンティノープルも陥落の日を察していた。
5月24日には部分月食が起こり、不吉の象徴とされた。
これを払拭するために、福音記者聖ルカが目の前にいるマリアを描いたと伝わる聖遺物のイコンを持ち出したが、はずみで地面に落としてしまい、不吉な運命を強調した。
ハギア・ソフィアではドームを不思議な光が覆い揺れるのを見た人がいた。
聖霊は街から去っていったと噂された。
士気が低下しているのを見て、前回と同条件でメフメト二世は降伏を呼びかけたが結果は同じだった。メフメト二世は総攻撃を決意した。
偽スフランゼス年代記によれば、メフメト二世は利益によって兵士たちを鼓舞したと言う。
「この都市には莫大な富がある。豪奢な宮殿や貴族の館、庶民の家にも財宝が満ちている。教会にはさらに素晴らしい金銀宝石の珍しい宝物が納められている。それらは全て諸君のものである。高貴な生まれの見目麗しい娘達、汚れなき乙女達が沢山いる。望みとあれば彼女たちを妻とすればよい。召使にしてもよいし、売り飛ばすこともできるだろう。諸君は歓びも奉仕も富も得ることが出来る。たとえこの戦いに倒れても、諸君には天国が待っている。天国では美少年や美少女に傅かれ、預言者ムハンマドと宴の席を囲むのである。」
1453年5月28日
偽スフランゼス年代記にて伝えられることによれば
コンスタンティノス11世は宮殿で大臣や将兵に最後の演説を行った。
「いよいよ時は来た。……兄弟諸君、君達はよく知っているだろう。命より大切にせねばならないものが四つある。第一に我らの信仰である。第二に故郷である。そして神に塗油された皇帝であり、最後に肉親や友人である。それらのうちひとつのためでさえ我々は命を賭けて戦う。このたびの戦いには四つのもの全てがかかっている。……もし神が我らの罪ゆえに不信心なる者どもに勝利をお与えになるなら、……我々は最愛の妻や子供たち、肉親とも別れなければならなくなるのである。」
将兵は涙し、「キリストの信仰のために、故郷のために死ぬ!」と叫び、親しい者と別れを告げた。
ハギア・ソフィア大聖堂にて聖体礼儀を行った後、臣下一人一人に自分の不徳を詫び、許しを乞うた。
その場で涙を流さなかった者はいなかったとされる。
ただし、偽スフランゼス年代記は長らくコンスタンティノス11世の側近であるゲオルギオス・スフランゼスの記とされていたが、実態は100年以上後にナポリの大主教が書いた物で、創作とされる部分が多いので真実であるかは相当怪しい。(だから『偽』がついている。)事実とした資料を基に書かれていても誇張していたり、美辞麗句で飾り立てている可能性が非常に高い事には注意したい。(何しろ、ビザンツ人たちの皇帝への忠誠は低く、戦争にも積極的では無かったのは前述の通りである。民衆や兵士にこれほどの士気があればもう少しマシな状況になっていたであろうことは想像に難くない。)
一方メフメト二世の描写は、即位から日も浅いために利益誘導で兵を動かした可能性は非常に高い。何しろイェニチェリの忠誠を確保するために金貨を渡さねばならず、当時メフメト二世本人よりかは、彼から受け取れる利益に周囲も忠誠を誓っていたと見られる。メフメト二世本人に高い忠誠が捧げられるのは、この戦い以後の事である。
翌日の5月29日
ついにオスマン帝国軍の総攻撃が開始された。
圧倒的な物量攻撃で、数による波状攻撃を行い石などを投げ入れ堀を埋めていった。
崩落した城壁には急ごしらえの柵が作られていたが、それを縄梯子や鉤縄で攻略していく。
第一陣はオスマン帝国勢力圏から集められたキリスト教徒の兵士だったと言う。
戦意の高くない彼らはいわゆる、捨て石であり大混戦が行われる中で、オスマン帝国軍は彼らごと砲撃を加え防衛側を怯ませる事に成功した。
第二陣はアナトリア兵であり、戦意も高かったが数時間経っても一進一退の攻防が続いた。
第三陣はオスマン帝国の精兵であるイェニチェリ軍団を送りだし、ジュスティニアーニの傭兵団と激戦を開始した。
数的優位であっても、攻城戦とは防衛側が有利であり、歴戦の城であればなおさらだった。
この鉄壁の城が陥落したのは、一つの不運な事実と一つの不運な伝説である。
一つの事実は、コンスタンティノープル防衛により多大な貢献をしたジュスティニアーニの負傷である。クロスボウ(または砲弾とされる。)による攻撃を受け負傷したジュスティニアーニはその場で指揮を取れる状態では無くなってしまった。
指揮官が不在となってしまったが、この場を引き継ぐ指揮者を残った者たちは混乱の中で用意せず(または出来なかった)、そしてジュスティニアーニが負傷し後方に運ばれるのを見た守備兵は恐怖に駆られ、逃げ出す者が出始めた。
この動揺を見逃すメフメト二世では無く、再度攻勢をかけるように命じ、ついにコンスタンティノープルは陥落した。
コンスタンティノープルの守備の要であった、ジュスティニアーニは部下に連れられ脱出したが、負傷が元で6月1日に死去した。
そして一つの伝説は、ブラケルナエ地区にあったケルコポルタと言う内壁の城門である。
元々、この門は小さな門であったが、兵士たちがすぐに守りにつけるように手配されており、頻繁に開閉されていた。そして乱戦の中で撤退する際に、ケルコポルタ門を閉め忘れてしまったのである。
それに気付いた50人程のオスマン兵がこの門を奪取し、確保した。
この門を起点に、内壁に侵攻する事が可能となり、強固な城塞は滅びを迎える事となった。
現在、ケルコポルタ門の位置は判然としていないが、後の改修により埋められてしまったとされている。
コンスタンティノス11世の最後は判明していない。
・剣を引き抜いて、数千のオスマン兵に向かっていき幾度となく切りつけられて死んだ。
・絶望し首を吊った。
・城を脱出するために、逃げ出した所を後ろから斬り殺された…など。
少なくとも夕方までに、彼の物とされる遺骸はメフメト二世の元に届けられた。
遺骸は数日晒された後に手厚く葬られたとされるが、誰もその最後を目撃した人間がいないために、その遺体がコンスタンティノス11世であるかどうかは不明であった、高級将校や皇帝の側近、貴族と言った人間の可能性も否定しきれ無い。
どうあれ、彼がこの時に死んだのは間違いないとされる。
偽スフランゼス年代記によれば、コンスタンティノス11世は城壁が突破され敗戦を悟ると、皇帝の冠と煌びやかな衣装を脱ぎ捨て、剣を抜き、叫んだ。
「神よ!帝国を失う皇帝を許し給うな!都の陥落とともに、我死なん。逃れようとする者を助け給え。死なんとする者は我とともに戦い続けよ!」
その後、親衛隊と自身の言葉に付いてきた者たちと共に押し寄せるイェニチェリ軍団に立ち向かい、敵兵の中に消えていったとされる。
この死亡説は芝居がかった言葉はどうあれ、幾度も降伏を拒絶した事に説得力を与えており同時代の歴史家ドゥーカスも記載しているので、現在でも有力視されている最後である。
皇帝の臣下も多数討ち死にし、自らの祖国が奴隷として支配されるのを受け入れずに奮戦した者もいた。中でも、テオフィロス・パレオロゴスは前進するオスマン帝国の大軍に向かい果敢に立ち向かい、最後は斧で真っ二つにされたと言う。
そして、この戦争の原因となってしまったオルハン王子はギリシア語が使える事を利用して逃亡を試みた物の、彼は有名であり、その顔は広く知られていたのである。オスマン兵に見つかり、見咎められると、捕らえられた後の過酷な運命から逃れるため城壁から飛び降り命を絶った。
オスマン帝国兵は暫くの間は、激しい抵抗を予期して殺戮を繰り広げながら慎重に進んでいたが、思った以上の抵抗が無い事に気付いた。
まさか城を守っているのが1万以下の兵だとは思っていなかったのである。
敵が総崩れとなった事を知ると、それまで殺戮を繰り広げていたオスマン帝国軍の行動はここで切り替わった。コンスタンティノープル攻略にかかった二か月の鬱憤を晴らすためか、略奪と破壊があちこちで行われた。
キリスト教の修道院が襲われ、数多くの金品が奪われ、聖遺物とされた数々の物は値打ちが無いと判断されは破壊された。導きのマリアのイコンは叩き割られ、その額縁に使われていた金を奪い合った。
(実際は聖遺物とされた物はキリスト教徒が高く引き取る可能性があったが、それを知らなかったと思われる。)
コンスタンティノープル防衛軍が瓦解した後、コンスタンティノープルの民は逃げ惑った。
幾度もの攻勢を跳ね返した過信。そして、神の加護と言う幻想か、実際に起きている攻城戦には無関心な者が多かった。関心がある者は、既に運命を察し戦いが始まる前に都市から離れていた。
壁の内側ではいつもと同じ朝であり、オスマン兵が中になだれ込んだ情報を信じない者もいた。
しかし、血まみれの者がやってきて真実味を増したころに人々は家財や子供を手に抱き慌てて逃げ出したが、遅すぎた。
陸路はオスマン帝国兵が塞ぎ、通れる場所は多く無かった。
聖ソフィア教会に逃げ込み、天使ミカエルの奇跡によって救われる事を期待する者もいたが、奇跡など当然起きずに捕虜となり、奴隷となった。
波止場が唯一の脱出口であったが、船は殆ど無く、船を持っていた者や多額の金品を支払える者だけが逃げる事が出来た。
中には過剰に人が乗ったために転覆する船もあり、それらは溺死かオスマン兵に捕まり奴隷となった。
船乗りたちは限界まで救出を行ったが、非情にも昼過ぎには対岸のガラタに寄り金角湾の鎖を斬り落として脱出を決行した。
船は多くは見逃されたとされる。海上のオスマン軍も略奪に参加する為に市内へと向かっていた。
そして金の無い者は、敵が迫る波止場に置き去りにされた。
逃げ遅れた民は捕えられて奴隷にされるか、暴行、凌辱を受ける者も多かった。
身代金目的に有力者探しの人間狩りも始まった。
中には奴隷にすれば金になると言う理由で、防衛軍の殺戮を惜しがる声もあったと言う。
以上のように奴隷=金となるためか、略奪に切り替わってからはあまり死者が出ていないとされる。
そして、コンスタンティノープルの陥落をもって、四世紀から続いた大帝国の滅亡が、そしてもっと前を辿れば紀元前から続くローマ帝国の命脈は断ち切られたのである。
そして、最後まで西欧諸国から助けは来なかった。
ヴェネツィアが艦隊の準備をしていたと言う話もあるが、結局は間に合わなかったのである。
これも仕方の無い事で、当時であれば攻城戦は長い年月がかかると言う「常識」があった。
数年持ちこたえる事もザラでは無い。
それが、小さな砦では無く最強の城塞であるコンスタンティノープルである。
その鉄壁の都市が2か月で陥落するとは誰もが想像しなかった。もし1年か2年持ちこたえて居れば救いは来たのかもしれない。
メフメト二世は正午過ぎに護衛兵に囲まれながら、聖ロマノス門から入城した。
かつての東ローマ帝国の皇帝と同じく、聖ソフィア教会へと向かったが、途中で殺戮による死体と略奪による破壊を見て、自身の軍団がここまでの事をしたことを嘆き悲しんだと言う。
それでも彼は支配者として聖ソフィア教会でアラーに対する謙遜の所作を行った後、教会の内部で祈祷係にアラーの他に神は無し、ムハンマドは神の予言者であると宣言させた。
幾人かの有力貴族や、戦いに対する義理を欠いた者は処刑したが、基本的には寛大であった。しかし、まだ若かったメフメト二世は周囲の意見に推され判断を変える事もあった。
次の都市の長官に従来住んでいた有力者を指名しようとしたが、周囲に反対され数時間後には処刑を命じたりもしている。
この処刑を命じられた一家は、「若い者に迫りくる死の恐怖を味わわせたく無いので、自らの死を見せない様に息子から殺してくれ。」と頼んだと言う。
ただし、後に考えを改めたメフメト二世はビザンツ人支配者層の取り込みを進めていく事となる。
中立を謳いながら実質的にはコンスタンティノープル防衛に参加していたガラタのジェノヴァ人居留区は一旦は安堵された物の、すぐに防衛施設を破壊され、逃げ出したジェノヴァ人の財産を没収した。このジェノヴァ人居留区は、この後に自然消滅していく事となる。
東ローマ帝国にはまだ所領があったが、戦わずに降伏した都市は略奪や攻撃を受けずに以前と同じ生活を安堵された。モレアス専制公領はしばらくは残った物の、1460年に時世の波に押し流される様にオスマン帝国によって滅亡した。
東ローマ帝国を継承したトレビゾンド帝国は1461年にオスマン帝国に滅ぼされた。
最後の皇帝であるダヴィドは斬首されて、息子たちも全員処刑されて滅亡した。
娘のアンナだけは助命され、オスマン帝国のハレムに送られた後にザガン・パシャに嫁いだと言う。
メフメト二世のオスマン帝国にも大きな転機が訪れた。
確執のあった大宰相のハリル・パシャをコンスタンティノープル征服に反対したと言う理由で投獄し、一族の粛清を行ったのである。
これにより、オスマン帝国は専制君主制の基盤が確立した。
(ハリル・パシャはコンスタンティノス11世から、賄賂を貰っていたとされる。)
ヴェネツィアでは、不幸な報せとしてコンスタンティノープル陥落は伝えられた。近親者がいた者や商売上の拠点として多大な資産を預けていた者たちが広場に集まり泣き叫んだ。そして、この大惨事を防ぐ手立てを元首が何も講じなかった事に怒りの声をあげた。実際はすぐに送れる支援は送り、艦隊出動も検討していたのだが、余りに早い陥落に何も出来なかった。
更に、これはバチカンの教皇の元にも届けられた。ニコラウス5世は積極的な支援を行わなかった事を何よりも悔い、十字軍の編成に動き各国元首の了解も取り付けたが結局は言葉だけで動かなかった。特に対イスラムの急先鋒として期待された神聖ローマ帝国のフリードリヒ三世は暗愚であり何も動こうとしなかった。これによりメフメト二世は窮地に陥ったタイミングに攻め込まれる事は無かった。1456年に、メフメト二世はマジャル軍に大敗北しており、この時点で神聖ローマ帝国が中心となり大連合軍で攻め込んでいれば最低でもメフメト二世は窮地に陥ったであろう。
このためフリードリヒ三世は後世より「大愚図」と呼ばれるに至っている。
ただし、西欧諸国の君主は怒りに燃える聖職者たちとは違い、メフメト二世を有能で恐るべきスルタンとして見ていたので、表立って事を構えたがる者は多く無かったのである。
(更に言えば教皇庁がかける税金でも不平があったりもした。)
なお、十字軍大編成の動きはトレビゾンド帝国やモレアス専制公領でも当然聞いており、宗教上の禍根はあった物の、西欧側になびいていた。結果、彼らはオスマン帝国支配化でありながら、オスマン帝国への朝貢を止めたりと反発する様になり、その結果として滅びてしまった。
当然助けは来なかった。不憫。
難攻不落のコンスタンティノープルを征服した後、メフメト二世は確固たる戦功を手にし、「征服の父」や「征服王」と呼ばれ、恐れられた。
その後、コンスタンティノープルは名前を変えて、イスタンブールとして今に名が伝わっている。
しかし、ギリシア人の中には今でも「コンスタンティノープル」と呼ぶ者も多い。
(一応、正式な都市名としてイスタンブールとなったのは1930年の時である。)
コンスタンティノープルはシルクロードの要であったが、行動に制限がかかってしまったのでシルクロード以外のルート開拓が急務となった。そのため、制限を受けない海路に目をつけ、大航海時代を迎える事となる。この大航海時代は西欧に多大な文化の流入と利益をもたらし、新天地へと目を向ける事に繋がっていく。航海技術は飛躍的に伸びていき、ヨーロッパはアメリカ大陸の発見したり、アジア方面、そして日本へとたどり着く事になる。
また、キリスト教徒にとっても重要な地であったコンスタンティノープル陥落は衝撃的であり、教会と教皇の威信にひびが入る事となった。
絶大な権威の低下に繋がり、後の宗教改革へと繋がったと見る者もいる。
諸国も変遷せざるを得なかった。援軍に消極的であったバルカン半島諸国はオスマン帝国に滅ぼされるか、ハプスブルク家に従属する道を選んだ。
オスマン帝国に脅威を感じた西欧諸国は、長続きする戦争(百年戦争、薔薇戦争)で、封建諸侯は疲弊し没落していくと国王への権力集中が行われ、主権国家が成立する事となる。
そして多くのギリシア人の知識人、学者、文化人が亡命する際、東ローマ帝国で保存された文献や物を西欧へと持ち込んだ事により、ルネサンスに大きな影響を与える事となった。
- コンスタンティノープルを陥落させたメフメト二世はトロイアへ墓参りをし、「お前たちの仇は取った」と宣言したと言う。かつて、アレクサンドロス大王は憧れのアキレウスに対し誓いを捧げた話が残っており、中々興味深い。
- 長年美談の様に語られており、コンスタンティノープルのビザンツ人と皇帝コンスタンティノス11世がいかに勇敢に自己犠牲によってキリスト教圏を守ろうとしたのかと言う場面が語られていたが、近年の研究ではコンスタンティノープルのビザンツ人たちは防衛にあまり協力的では無かったことがほぼ確実視されている。コンスタンティノス11世の英雄的美談も陥落より100年後に書かれた「偽スフランゼス年代記」によるところが大きい。この偽スフランゼス年代記は、コンスタンティノス11世の側近であるスフランゼスによって書かれたと言われていたが、実際はナポリの大主教が神聖ローマ帝国を駆り立て、祖先であるギリシア人の都市であるコンスタンティノープルを取り戻す事を期待し、盛った設定や出来事を追加し、コンスタンティノス11世をキリスト教圏の英雄とするために側近の名前で書かれた物である。
- 一方で降伏を何度も断り続け、国と運命を共にしたコンスタンティノス11世はギリシア人の英雄として語られる様になっていたのは事実である。大理石と化したコンスタンティノス11世がいつの日か目覚めて東ローマ帝国を復興させると言う伝説が出来た。オスマン帝国から独立する戦争の中では彼の肖像画は独立の象徴となった。そして、奇しくもオスマン帝国から独立したギリシャ王国最後の王の名前は「コンスタンティノス」であった。