メフメト二世
めふめとにせい
オスマン帝国七代目スルタン。コンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅亡させた。そのためキリスト教国から“キリスト教最大の敵”と恐れられた。また版図を広げ、領土をバルカン半島、黒海北岸などに広げて“征服王(ファティーフ)”と言われた。
残忍かつ狂信的な一方で、芸術や文化を好んだ。ヨーロッパ文化に傾倒していたのでムスリムからの評判は悪い。
父ムラト二世の元に生まれる。
アンカラの戦いの敗北で領土を失ったオスマン帝国であったが、メフメト一世、ムラト二世の2代で国力を回復、第7代スルタンとしてメフメト二世が即位した。
実はメフメト二世が即位するのはこれで3度目であり、ムラト二世はイスラム神秘主義に凝って退位を繰り返していた。
ムラト二世の死後、メフメト二世は弟のアフメトを処刑し、皇位争いの芽を摘む。さらに宰相ハリル=パシャの反対を押し切ってコンスタンティノープル攻撃に踏み切った。
1453年、メフメト二世はイェニチェリを率いて、コンスタンティノープルを包囲攻撃し、攻略に成功、ビザンツ帝国を滅ぼした。メフメト二世はコンスタンティノープルをイスタンブールと改称し、オスマン帝国の首都として造り替えた。
更にバルカン内部に進撃したメフメト2世は、ハンガリーへの侵攻はならなかったが、1459年にはセルビア、63年にはボスニア、60年までにはギリシャ全土、78年までにはアルバニアがオスマン領となり、62年にはルーマニアも属国となった。こうしてバルカン半島のほぼ全土がオスマン帝国の領土に編入された。一方メフメト2世は、アナトリア東部の諸勢力も平定して西アジアも抑え、さらに黒海北岸に出兵してロシア草原の東西交易ルートを抑え、クリム=ハン国を服属させて黒海を「オスマンの海」に組み込むことに成功した。
メフメト二世はイスタンブールを統治するため、ムスリム以外の異教徒をギリシア正教徒、アルメニア教会派、ユダヤ教徒の三つの宗教共同体(ミレット)に組織した。すべての非ムスリムはこのいずれかに属し、ミッレトごとに貢納の義務を持つ代わり、彼らの信仰と法と習慣を認め、自治を行った。
また兄弟殺しの法令を制定したのもメフメト二世である。これは後継者争いを防ぐための慣習がオスマンにあったため。皇帝の兄弟を殺すことはバヤズィト一世の時にも見られ、オスマン皇帝の専制化がすすむ中で、皇位争いを防ぐために成立した慣行だった。
死後、子のバヤズィト二世に保管していた絵画などのコレクションを破壊される
- コンスタンティノープル陥落後、メフメト二世はトロイアの墓へ語りかけ「お前達の仇を取ったぞ。安心して眠るがよい」と語りかける。アレクサンドロス大王も1800年前にアキレウスの墓で戦勝祈願しており、トロイアは東西越えて慕われる存在であったことがうかがえる。