概要
帝国領土内に在住するキリスト教徒の子息を徴用し、兵士として編入、編制された軍団である。
全盛期は当時普及したばかりの火器を用いて中近東とヨーロッパを震撼させた。
トレードマークは大きな鍋と額のスプーン。野戦において煮炊きをし、君主と食事を共にする親衛隊としての気風をあらわし、戦列では旗竿に鍋をぶら下げて存在をアピールした。
不服をもって上層部に訴える時はこの鍋をひっくり返したため、現在でもトルコでは「騒ぎを起こす」ことの慣用句として「鍋をひっくり返す」と表現する。
設立の背景
イェニチェリ成立前のオスマン帝国の主力は傘下の諸侯が持つ騎兵集団であった。しかし、彼ら旧軍は軍閥としての独立心が強く、次第にスルタンの命に従わなくなってきた。
また、帝国の成長につれて、領内にキリスト教徒を多く抱えるようになる。そんな彼らを有効的に支配する体制の確立と、かつスルタンに絶対の忠誠を誓う軍団の設立が必要になってきたのである。
設立から最盛期
イェニチェリはその問題を一気に解決することに成功した。
15世紀にキリスト教徒の優秀な少年を徴用する制度「デヴシルメ制度」が確立。彼らをイスラム教に改宗させたのち、農家で農作業をさせながらトルコ語の学習とイスラム教の教え、軍事訓練を教え込んだ。
キリスト教徒にとっては一見屈辱的ともいえる改宗を伴った行為ではあったが、中には喜んで少年達を供出した村もあった。才能を認められた少年達は各種専門教育を受けて官僚にもなれたので、その便宜を期待したためである。
この官僚集団の形成が、大規模な常備軍の運営を可能にしてイェニチェリはますます巨大化していった。
イェニチェリはあくまでも奴隷であったため、定年まで結婚も土地の所有も許されず、常にスルタンの傍にいなければならなかった。しかし、高給と免税、スルタンと最高の食事を共にするという特権を与えられたエリート兵でもあり、その忠誠心は強固だった。
鉄の規律と練度、スルタンとイスラム教の正しさを疑わない忠誠心、大量の火器の運用、それを可能にする官僚集団のバックアップによりイェニチェリは向かうところ敵なし。
悪戯をする子供をしつける際にその名が使われ、あまりに強すぎたためオスマン帝国は余裕綽々に外国人に各種特権を認めたほどであった。
特にヨーロッパでは、東方正教会の守護者たる東ローマ帝国をはじめとしたキリスト教国家が次々蹂躙され、神聖ローマ帝国すら脅かしたイスラム教国家の誕生に怯えたため、各種軍制や行政機構の改革がオスマン帝国をモデルに行われていくこととなった。
衰退
しかし17世紀以降は「デヴシルメ制度」に依らない凡庸な入隊者の増加、ご法度であった世襲の許可などによって兵団として弱体化、軍紀の乱れが進んだ。それでも、第二次ウィーン包囲においてウィーン陥落寸前にまで陥れるなど偉容は健在であったが、更に18世紀に入ると、ヨーロッパ諸国の軍隊が最新の軍制によって力を付け、完全に時代遅れの兵団と化した。
この頃のイェニチェリは政治に干渉する特権階級と化しており、オスマン帝国の近代化を実力で阻害していた。時にスルタンや宰相すらも殺害したという。
しかし、何ら戦果もあげられないのに特権の主張だけは一人前で、気に入らないとすぐに反乱を起こすイェニチェリの信望はすでに帝国内で地に落ちていた。イェニチェリ設立の一因は旧軍の堕落であったが、皮肉にも同じ轍を踏んだことになる。
廃止へ
19世紀前半に入り、時のスルタンであったマフムト2世は、イェニチェリの特権的地位を認めながらも暫時的に近代化を進めていた。イェニチェリはこの動きに警戒心を抱いたが、他に皇位を継げるオスマン家の男子がいない(先んじてマフムト2世が先帝を処刑した)こと、特権的地位を認められた手前口実をつかめずにいた。
1826年、マフムト2世が新軍団の設立を宣言したことを口実にイェニチェリは蜂起。しかし、すべてマフムト2世の計画通りだった。
彼は事前にウラマー(イスラム法学者)より反乱の正当性を否定する意見を取り付けて大義を奪い、西洋式砲兵隊を用いてあっという間に堕落しきったイェニチェリを壊滅させてしまった。
戦闘だけで4000人が殺され、生き残った兵士も斬首か財産を没収して追放され、処刑が行われたテッサロニキの白の塔は血の塔と呼ばれるようになった。
ほどなくして、マフムト2世は最新式軍隊「ムハンマド常勝軍」の設立とイェニチェリの廃止を宣言し、4世紀に及ぶ軍団としての歴史に終止符が打たれた。
余談
著名な戦い
- アンカラの戦い…1402年、軍が出来たばかりで勢いに乗っていた頃の戦い。銃歩兵として知られるイェニチェリだがこの頃は伝統的な弓騎兵の率が高く、鉄の規律と絶大な忠誠心はこの頃から健在であった。しかしチンギス・ハーンに並び称される世界最強のティムール軍団にはいくらなんでも分が悪く、イェニチェリより更に練度の高いペルシア騎兵軍に完敗。皇帝バヤズィト1世を捕虜にされるという苦い敗戦となった。しかしこの時、トルコ諸侯の騎士団が命令を無視して逃散したのに対し、イェニチェリ近衛兵は最期まで主君を守って全滅したことから、イェニチェリの名声は負けてなお上がることとなる。
- コンスタンティノープルの戦い…1453年、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルで行われた攻城戦。イェニチェリ軍団は卓越した戦術と士気、そして新兵器大砲の投入によって圧勝。東ローマ帝国は滅亡し、地名はイスタンブールと改められた。東欧キリスト教徒の精神的支柱であり無敗を誇ったコンスタンティノープルの陥落は世界に衝撃を与え、城壁の有り様が考え直されるようになる。
- チャルディラーンの戦い…1514年、当時における世界最強の騎兵団を擁していたサファヴィー朝ペルシアに対し、中東の覇者は誰かを決めるべく戦った。オスマンの指揮官セリム1世は負け知らずの猛将として知られ、サファヴィー側のイスマーイール1世も常勝無敗の大戦術家として知られていた。無敗同士の戦いは、馬をとっくに捨て銃士隊に変貌していたイェニチェリの圧勝。最強銃兵VS最強騎兵という構図から、長篠の戦いになぞらえて語られることが多い。
- 第一次露土戦争…1768年、ロシア帝国とクリミアの領有権を巡って起きた戦い。オスマン帝国軍の数はイェニチェリにクリミア兵を糾合することでロシア軍の五倍にも達した。しかしこの頃のイェニチェリは腐敗しきっており、もはや無敵の軍団ではなかった。おまけにロシアの指揮官はナポレオンも恐れた戦争の天才スヴォーロフ。士気・戦術・兵装・全てに劣るイェニチェリは散々に蹂躙され、五倍の兵力差を覆されての完敗を喫する。「イェニチェリ弱し」との汚名は決定づけられ、以後は縮小・解体への道を進んでいく。
創作関連
- HELLSING:平野耕太の漫画。ストーリー終盤、吸血鬼により混乱を極めるロンドンにアーカードが帰参。拘束制御術式零号の解放により、それまでに彼が食らった膨大な亡者が「死の河」となって顕現する中、かつて彼の国と戦ったイェニチェリの騎馬隊が戦鍋旗(カザン)を掲げて登場する。
- アサシンクリード:第4作「リベレーション」に登場。スルタンの精鋭部隊であり、鉄製のマスクと豪奢な意匠を纏っている。民衆から尊敬され、同時に恐れられる存在。銃とキジル(サーベル)を装備しており、序盤から戦えるがシリーズ通じてもかなりの強敵。手出しをせず観察していると、駐屯地でのんびり食事の支度をしたり、体育座りでぼーっとしている様子が見られる。
- Age of Empires II:トルコ文明の固有ユニットになっており、手持ちの火器で遠距離攻撃をする。射手系ユニットの中ではHPや攻撃力に優れるが移動力にやや欠ける所があり、また生産コストもスピードもあまり良くはない。
イラストなど
関連タグ
- 主要:オスマン帝国