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概要編集

コンスタンティノス11世は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)最後の皇帝

1405年2月9日誕生~1453年5月29日没

在位期間:1449年~1453年


正式名は、コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセスと言う。

皇帝即位後にパレオロゴス朝の姓と、母ヘレネの姓であるドラガシュのギリシャ語読みのドラガセスと言う姓も名乗った。

当時の東ローマ帝国では父母の威信を目的として両方の姓を持つことは珍しく無かったが、ドラガセス姓を名乗るメリットは皆無であり、下手すればデメリットすら持ちうる可能性があった。一説には、母ヘレネに対する愛情があったので、ドラガセス姓を名乗ったと言われる。


若い頃から出来が良く優秀と言われていた。トルコ人から教わった騎射が得意であり、武勇に優れていたほか、政治や外交にも長けており精力的に携わった。

野心家でもあり、強気の姿勢で他国に関して新税を課したり、ヴァルナ十字軍の発足を機に周囲の領土を併合するなど精力的に周囲を支配していった。

この野心家的な部分と有能さが当時斜陽であった東ローマ帝国の皇族には魅力的に映ったのか、皇帝に推される事となった。ただし、この野心家的な性格が結果としては東ローマ帝国の滅亡を早めてしまう事になる。

反面、東方正教会の聖地であるコンスタンティノポリスの皇帝でありながら、ローマ・カトリック教会が援助の見返りとして合同典礼を強要した際、十字軍の援軍を期待し、カトリックと正教会の合同典礼を行い民衆からは非難される一面もあった。帝位継承がイレギュラーだった事もあり、皇帝と認めない民衆もいた程で宗教問題も絡んだことで民衆からの支持は低かったと言う。

当時のビザンツ人たちの思想もあり、国が滅びて君主が変わっても信仰が安堵されるなら問題は無く、コンスタンティノス11世は国の存続を主眼に置いていたので民衆と目線が合ってないとも見れる。

コンスタンティノス11世は更に大規模な十字軍を結成すれば、オスマン帝国に痛手を与えることが出来ると確信し西欧諸国を味方につけてオスマン帝国に対抗しようと考えていたが、ヴァルナ十字軍も、その後のキリスト教連合軍も敗北しているので期待は薄く、親オスマン派の民衆も少なく無かったとされる。さらに言えば十字軍が結成されれば各地で宗派に関係なく住民に暴行を加える事は常識であり、そもそも東ローマ帝国が衰退したのも第4回十字軍が原因であった。


実際、当時のイスラム教は他宗教にも寛容であり一定の条件さえ受け入れられれば信仰の存続は出来たので民衆はオスマン帝国に対抗するメリットが見出せなかったのである。

また、幾度にもわたる侵攻から防衛を達成した実績のある城壁と、東方正教会の聖地である場所を神が見捨てる訳もないと思っていたビザンツ人も多く、コンスタンティノポリス防衛戦では民衆からの積極的な支援は得られなかったと言う状況であり、この部分もコンスタンティノス11世には不幸であった。

しかし、コンスタンティノポリスでの戦いでは、コンスタンティノス11世は幾度にも渡る平和的な降伏勧告を突っぱねて結果としては一般民衆に多大な被害を出してしまったので、民衆にとってはあまりありがたくない皇帝と言えるかもしれず、最後まで多数の民衆と目的が一致する事が無かった。

しかし、逃げ出さずに最後まで戦い、国と運命を共にしたと言う英雄的行為は賞賛と共に語り継がれ、後のギリシャ王国が独立のためにオスマン帝国へ反乱するための象徴となったりもした。


※ただし、東西キリスト教の合同の決定は兄のヨハネス8世が行った物で西欧の援助を得るためにコンスタンティノス11世が再始動させたという面もあるので、一概にコンスタンティノス11世だけのせいでも無い。コンスタンティノス11世自身は合同派だが、合同問題を取り纏める力の無い主教から即位の冠を受け取らないために、コンスタンティノポリスでは無く、モレアス専制公領のミストラで即位式を上げており、かなり慎重に対処している。時間をかけて合同を受け入れさせようとしたのかもしれないが、それに踏み切ったのは、そうせざるを得ない程の窮地に追い込まれてしまった上に時間も無かったからであった。


即位に関しても異例であり、弟のデメトリオスに先んじるために首都のコンスタンティノポリスでは無く、モレアス専制公領のミストラで即位した。

この様な場合、コンスタンティノポリスに戻ってから即位式や戴冠式を行うのが通例だが、当時の総主教であるグレゴリオス3世メリセノスは教会合同を受け入れていた合同派であった上、ビザンツの宗教界を率いる程の力は無かった。その上で教会合同に反対する民衆や聖職者たちからも非難されており、この様な主教が即位式と戴冠式を執り行う事はそのまま、自分に対する非難となってしまう懸念があると感じられたためである。

1450年には国内の反発に耐え兼ねたのか、グレゴリオス3世メリセノスはローマへ亡命したが、コンスタンティノポリス総主教の座を譲った訳では無かった。後任の総主教はいなかったために、コンスタンティノポリスの総主教は空位となってしまった。結果として、コンスタンティノス11世は最後まで首都で戴冠式も即位式も行っていない皇帝となった。このため当時の民衆でも皇帝として受け入れていない人もいた程で、正式な継承を行って無いので彼を皇帝と認めない歴史家もいる。


結婚は2度にわたって行っているが、1回目も2回目も結婚してすぐに妻は亡くなっているためか子供はいなかった。3度目の結婚が企画されており、グルジア(現:ジョージア)王女に決まっていたが、コンスタンティノポリスが包囲されてしまったために執り行われる事は無かった。

本来であれば3度目の結婚はもっと早くに行われるはずだったが、東ローマ帝国の教会法で3度目の結婚は原則として禁止されており、再婚の許可を得るために総主教の許可が必要であったが、その総主教はローマに亡命していたので許可できる人物がいなかったのである。


東ローマ帝国の所領は当時僅かではあった物の、誰もが危機的状況に慣れ過ぎたのか楽観しておりコンスタンティノポリス陥落の数年前であっても、防衛の準備や国の維持に奔走した記録は無い。

それどころか、オスマン帝国と対立するなら味方につけておきたいヴェネツィアとは争いごとになりそうな商人に対する課税などを行っている他、臣下たちも権力争いに没頭していた。

コンスタンティノス11世だけがそうだった訳では無いが、危機的な状況を察知する能力にはあまり長けていなかった様であり、東ローマ帝国を滅ぼしたメフメト二世に対しても評価を見誤った面がある。ただし、メフメト二世が有能で危険なスルタンである事を見抜いていたのは側近のゲオルギウス・スフランゼスのみだったとされる。


皇帝即位後、メフメト二世に対し対応を誤り、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)包囲戦を起こされてしまう。

当時19歳のメフメト二世は、かつて一時的に王の座に就いたことがあったがヴァルナ十字軍などの事態に対し効果的な対処が出来なかったために、ムラト二世に帝位を返上した事があり、また即位後はハンガリー休戦協定を結んだりしていたため、消極的に見える政策により弱気の王に見えていたようである。周囲の評価としてはいずれ内訌(ないこう。うちわもめの事)が起きてオスマン帝国は衰退すると見られていた。

そのためかコンスタンティノス11世は、亡命したオスマン帝国の皇子であるオルハンが成人したのを機に扶養料(身代金)を二倍にする事を要求した。身代金と言ってもオスマン帝国の亡命皇族が対象のため、トラキア地方の幾つかの町の税収がそのまま彼の身代金として払われていたので、東ローマ帝国には馬鹿に出来ない収入だったのである。それと同時にオスマン帝国の混乱を狙ったと言う作戦であり、要求の額が支払われなければ、オルハン皇子を対立スルタンとして即位させて、オスマン帝国内紛の原因となる事を言い含めたのである。大宰相のハリル・パシャは止めた物の、東ローマ帝国の使者はその要求をそのまま伝えた。

別の事態に対処していたメフメト二世は一度はその要求を聞いて何事もなく使者を返したが、すぐにコンスタンティノポリス攻略に動いた。コンスタンティノス11世はそれに対し、西欧諸国に援軍を頼むが失敗。1453年に当時最強の城塞であったコンスタンティノポリスは、僅か二か月で陥落。中世と近代の転換点として、コンスタンティノープルの陥落として歴史に記される事となった。

陥落の際の状況は不明であるが、コンスタンティノス11世とされる遺骸は夕方ごろにメフメト二世の前に出された。数日晒された後に、最高の礼をもって埋葬されたとされる。ただし、それが本当にコンスタンティノス11世だったかは確証がなく、側近の誰かや高級将校の可能性もある。


混沌とした中で死んだコンスタンティノス11世の最後の状況にはいくつかある物の判然としておらず、現在でも詳細不明である。


・大剣を抜き、親衛隊を引き連れて迫りくるオスマン帝国のイェニチェリ軍団兵に立ち向かい、幾度も切りつけられて死んだ。

  • 一番有名な説で、彼は煌びやかな衣服も、国の紋章も冠も脱ぎ捨てて立ち向かい死亡したと言う説である。「偽スフランゼス年代記」や同時代の歴史家ドゥーカスも記しており、現在でも有力視されている。幾度もの自身が生存できる条件での降伏勧告を拒絶している事もあり、国と共に死ぬと言う英雄的行為に走る事も十分に考えられるためである。芝居がかった台詞は誇張かもしれないが、似たような事を言った可能性はある。

・逃げ出そうとした所を、背後から切りかかられて死んだ。

  • 皇帝が健在なら血筋を残す事で再興の道はあるとして、周囲の強い要望により、重要人物だけ逃げると言うのは珍しくない。そして、逃げ出す最中に運悪く死亡する事も多い。しかし、逃げるのであれば敗北は必至の状況で出された降伏勧告を拒絶する意味は無く、降伏を受諾してモレアス専制公領か、トレビゾンド帝国で雌伏の時を待てば良いので、これは考え辛い。推測だが、敗北する状況で逃げ出した側近や高級将校を皇帝と見間違えた可能性がある。

・絶望し首を吊って死んだ。

  • 追い詰められた状況下で敵の手にかかるよりは……と言う事で自害するのは往々にしてある。自害しなければ、凄惨な目に合わされるのは中世では珍しくないためである。しかし、自害して首を吊る位ならやはり降伏勧告を突っぱねる意味は無いため信憑性に欠ける。ただし、周囲から責任を追及されリンチされた上で吊るされたりする可能性はある。

上記が主な説だが、混沌とした状況で皇帝を最後まで見ていた者が無事生きて、その状況を記していた可能性は低く、彼がキリスト教の英雄になったのは、コンスタンティノポリス陥落後100年以上後に書かれた「偽スフランゼス年代記」によるところが大きい。

これは、コンスタンティノス11世の死後100年以上あとに書かれた物で、キリスト教的視点やコンスタンティノポリスが滅びるまでの出来事を美辞麗句や設定を盛って描かれているため、現在では信憑性に欠ける物である。元々はギリシア人のナポリの大主教が書いた物であり、祖先の悲願である東ローマ帝国の復興を煽るためにキリスト教徒に向け、側近のゲオルギウス・スフランゼスの名を騙り書いた物である。

ただ、何度も降伏を拒絶したのは事実であり国(都市)と共に滅びる覚悟があったと思えるため、最後まで立ち向かった説は今でも根強く信じられている。

彼の死をもって長い間続いたローマ帝国の系譜は潰える事となった。


来歴編集

1405年2月9日

マヌエル2世と母である、ヘレネの間に四男として生まれる。

幼少時から優秀であり、母のお気に入りだったとされた他、後に東ローマ皇帝となる兄のヨハネス8世からも期待をかけられていたという。


1425年

マヌエル2世が死去し、兄のヨハネス8世が皇帝となる。


1428年

東ローマ帝国の領土であるモレアス専制公領のミストラに赴く。

当時精神が不安定で修道士になりたいと言っていた兄のテオドロス2世の代わりに赴くはずだったが、その頃には統治に再び意欲的となっており、緊張関係となる。ヨハネス8世の説得により、モレアス専制公領はテオドロス2世、コンスタンティノス11世、末弟のトマスの3人で分割統治する事となる。同年の7月にエピロス専制公国の君主カルロ1世の姪であるマッダレーナ・トッコと結婚した。ヨハネス8世らと共に領土拡大に成功したほか、1429年には大司教領のパトラスを攻撃し併合する。しかし、1429年11月に妻のマッダレーナは死去する。


1436年

兄のテオドロス2世と険悪になり、武力衝突手前にまで発展したが、ヨハネス8世の仲裁により停戦する。この状況は1443年にテオドロス2世よりモレアの統治権を譲り受け、テオドロス2世はセリュンブリアの専制公となり収束した。(その代わりにテオドロス2世は帝位継承者となった。)


1442年頃

レスボス島のジェノヴァ人君主の娘であるカテリーナ・ガッティルシオと結婚するも、結婚後間もなく死亡している。同年6月にナポリ王国の支配権を獲得した。また、アラゴン王のアルフォンソ5世寛大王にも接近し、関係を強化しようとつとめた。


1443年

ヴァルナ十字軍に呼応し、モレアのヘキサミリオン城壁を再建しコリントス地峡から出撃した。

1444年にはアテネを支配していたフィレンツェ人のネリオ2世を降伏させ、ギリシア地域で各地を征服。その活躍ぶりはギリシア人勢力最後の希望の星とされ、対ペルシア戦争の英雄テミストクレスに例えられて賞賛された。しかし、同年にヴァルナ十字軍は決戦の地で双方に多大な犠牲を出しながらも瓦解、敗北する。


1446年

ムラト二世が復位し、反撃に出たため自身はテッサリアから撤退しモレアに戻った上でヘキサミリオン城壁で戦闘を行った。2週間にわたる激戦が行われ、コンスタンティノス11世の軍は勇敢に抵抗したが城壁は突破されてしまい、モレアは激しい略奪にあった。冬が到来する事もあり、オスマン帝国軍は撤退したが6万人が捕虜として連れ去れた上でコンスタンティノスは弟のトマスと共にオスマン帝国への貢納を行い、和睦を結ぶしか無かった。これにより、コンスタンティノス11世はオスマン帝国へ武力で対抗するのは無謀と悟り、以後はオスマン帝国とは平和的関係を保ちつつも隙をうかがっていくことになる。


1448年

コンスタンティノス11世は次期皇帝にテオドロス2世を支持していたが、6月27日にテオドロス2世はペストにより死去。更に、10月31日に次の皇帝を定めぬままにヨハネス8世も崩御した。ヨハネス8世に子は無く、継承者の年齢順に言えばコンスタンティノス11世、デメトリオス、トマスの3人であったが、コンスタンティノスは首都から離れた場所におり、首都に近い場所でデメトリオスが帝位を狙っていた。デメトリオスは親オスマン派であり、ヴァルナ十字軍や第2次コソヴォの戦いでキリスト教連合軍が相次いで敗れたために合同派は支持を落としており、反合同派によってデメトリオスは支持された。しかし、マヌエル2世の妃であり皇子たちの母であるヘレネは年長のコンスタンティノス11世が帝位を継ぐべきであると主張。宮廷の有力者も大半はコンスタンティノス11世を支持し、船で首都に向かっていたトマスもコンスタンティノス11世を支持した。コンスタンティノス11世が帝位を継承するまではヘレネが摂政として政治を執り行った。


1449年

1月6日にコンスタンティノス11世はミストラで即位式を上げ、東ローマ帝国の皇帝となった。

コンスタンティノポリスでは無く、ミストラで即位式を上げたのは弟のデメトリオスに先んじるためでもあった。同年3月にコンスタンティノポリスに入り、母ヘレネの仲介のもとデメトリオスはミストラなどのコンスタンティノス11世の親王領を引き継ぎ、トマスも引き続き現在の領土を領有する事となった。ヘレネは3人で助け合う事を誓わせたもののデメトリオスとトマスは領土に戻るとすぐに争いはじめ、後年コンスタンティノス11世に軍事援助を求められた際にも応じなかった。そして、オスマン帝国のスルタンであるムラト二世に対して贈り物を持たせた使節をエディルネへ派遣する。この使節の派遣は成功をおさめ、ムラト二世は激しくオスマン帝国に向かってきたコンスタンティノス11世の即位を承認した。同時に大宰相であるハリル・パシャにも贈り物(賄賂)を送り、スルタンが東ローマ帝国に目を向けないように根回しを行った。


1450年

母であるヘレネが死去する。弟たちとは政治的に争う仲となってしまったので、心を許せる家族はいなかったとされる。夏に国庫収入を確保するため、殆ど関税を払わないヴェネツィア商人に対し新税を課したが、抗議の特使が来てムラト二世を引き合いに出されたもののヴェネツィアとの条約違反では無いとして押し通した。当時ヴェネツィアはイタリアで戦争をしており、またムラト二世がヴェネツィアに有利な交易特権を認める事は無いと看破していた。この対処は弟たちも同様の事を行い、紛争になりかけているが、東ローマ帝国滅亡とともに立ち消えとなる。


1451年

新興の商業都市ラグーザと通商条約を結び、コンスタンティノポリスに居留地を設けさせた上で、領事を置く事を許可した。ラグーザ商人に対する関税を2%と定め、東ローマ帝国に貴重な収入をもたらす事に成功する。同年2月オスマン帝国のムラト二世が崩御、メフメト二世が即位する。

この間、メフメト二世は小アジアの遠征などに赴いており、二正面作戦を避けるために東ローマ帝国とは和平協定を結んでいる。

同時にコンスタンティノス11世はオルハン皇子を外交カードに使用し、扶養料(身代金)の引き上げと対立スルタンに即位させると言う警告でオスマン帝国に揺さぶりをかけようとした。

メフメト二世は特に怒りを露わにしなかったために、怒りに気付くのは後々の事となってしまう。これが、コンスタンティノス11世最大の失策であり、滅亡へのトリガーとなってしまった。


1452年

東ローマ帝国領内でオスマン帝国の要塞「ルメリ・ヒサール」の建造が開始される。

これに抗議の使節を送り工事の中止を要求したが、「皇帝の領土は城壁の外には無い」と言い渡され、初めて昨年の要求が原因で怒りを買っていると気付いた。急いで和平の使者を送ったが、最早交渉は無意味であると悟るのにさほど時間はかからなかった。西欧のキリスト教圏の諸国や教皇に使節を派遣し、十字軍の結成を打診したが、条件としてコンスタンティノポリスでの教会合同の典礼を言い渡される。その条件をのみ、12月12日に合同典礼を執り行った。

大半の民衆はその場におらず、誰が見ても失敗であったが典礼を執り行った枢機卿のイシドロスは教皇が納得しない限り十字軍の結成は無いと見て報告書には大成功であったと送っている。

また、イシドロスは50~200人の傭兵部隊を引き連れてきており、コンスタンティノポリス防衛に寄与したほか、城壁修復の資金も持ってきている。

コンスタンティノス11世は更にカトリックの君主に個別の救援要請を行い、救援を行った際の報酬を提供したが、精々多少の領土や島程度であり、報酬としては不十分だったのは否めない。

その上で、ヴァルナ十字軍やコソヴォでの敗戦から立ち直っていない国々も多かったために多大な援助は送られなかった。


1453年

1月にジェノヴァの軍人である、ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ・ロンゴが数百名の兵士を伴って到着した。コンスタンティノス11世は彼らを大歓迎し、リムノス島を与えると約束した。また弟たちにも援軍を要請したが、既にメフメト二世が先手を打っており、デメトリオスやトマスも援軍を送る余裕は皆無であった。

同年4月オスマン帝国軍10万が到着し、コンスタンティノポリスが包囲される。

メフメト二世からはコンスタンティノポリスを引き渡すことを条件に皇帝の助命と東ローマ帝国の存続を許される勧告が幾度と出されたものの全て拒絶している。

同年5月29日にコンスタンティノポリスは陥落し、コンスタンティノス11世は死去。48歳没。


コンスタンティノポリスの陥落についてはこちらを参照→コンスタンティノープルの陥落


フィクションでの登場作品編集

16

騎兵のサーヴァントとして実装。

Cv.神尾晋一郎

詳細はこちら

期間限定イベント「15人の理知的なメガネたち」で登場したが、登場時は「マイケル」と名乗っており、真明は不明だったが終盤で明かした。後に、2部6.5章「死想顕現界域トラオム」が発表されると共にゲーム内でも先行して実装となった。

宝具はコンスタンティノポリスを再現した三重の防壁を展開する物だったが、描写されているハギア・ソフィアに彼の生前には無かった2本のミナレット(モスクに設ける尖塔)が描写されており、後に不具合として修正された。

人気ゲームである事に加え、女性人気が非常に高いため、Pixivに登録されている9割以上のコンスタンティノス11世の画像は彼である。

また「コンスタンティノス11世」よりも、「コンスタンティノス」の方が多くの画像が出てくる。


余談編集

  • コンスタンティノス11世は母親がヘレネであるが、最初のビザンツ皇帝のコンスタンティヌス1世の母親はヘレナと言う名前であり列聖されていた。偶然の事と考えない者もおりヘレネも神聖視され、後年はコンスタンティノス11世とヘレネを描いた肖像画などが描かれたと言う。
  • オスマン帝国に併合された後は、ギリシア人にとっての英雄となり、大理石と化したコンスタンティノス11世は復活した後に東ローマ帝国を復興させると言う伝説が生まれた。
  • オスマン帝国が衰退すると独立運動の機運が高まり、コンスタンティノス11世は解放の象徴として扱われた。またギリシャの首都アテネには銅像がある。
  • 独立したギリシャ王国は様々な動乱の中で1973年に王制が廃止される事となったが、この最後の王の名前もコンスタンティノスであった。
  • 研究者によっては彼は12世、及び13世と扱われる事がある。第四回十字軍がコンスタンティノポリスに攻め込んだ時に選出された皇帝「コンスタンティノス・ラスカリス」を11世と数えた場合に12世となる。しかしコンスタンティノス・ラスカリスは一晩で逃げだした後に帝位を移譲しており正式な皇帝として見られる事はあまり無い。13世となる場合は上記に加え、7世紀の皇帝コンスタンス2世の本名がコンスタンティノスだったため、以後のコンスタンティノスが一つづつ繰り上がるとする数え方である。

関連リンク編集

東ローマ帝国

コンスタンティノープルの陥落

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