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ユスティニアヌス1世

ゆすてぃにあぬすいっせい

ユスティニアヌス1世(生没483年~565年)は東ローマ帝国皇帝(在位527年~565年)。東ローマ帝国としては最大の領土を築き上げ、現代国家の法律に影響を与えるローマ法大全を編纂させる。「ユスティニアヌス大帝」、「眠らぬ皇帝」とも呼ばれる。
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「我にかかる事業をなさせ給うた神に栄光あれ! ソロモンよ、我は汝に勝てり!」


概要編集

ユスティニアヌス朝第2代目皇帝(正帝)で、皇后テオドラ皇后。同王朝の初代皇帝で貧農から皇帝になったユスティヌス1世の女系のかつ、その養子にあたる。一説ユスティニアヌス朝創設と養父の皇帝即位に関与したとも。


皇帝になる以前の名前はペトルス・サッバティウスで、皇帝に就任以降の正式名称はフラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌスである。


経歴編集

東ローマ皇帝ゼノン治世中の483年5月11日にダルダニア州タウレシウム(現マケドニア共和国スコピエ近傍)において出生。


実父は農民サッバティウスで実母はユスティヌス1世の姉・ウィギランティアであり、ユスティニアヌス自身も地方の下層階級出身。叔父のユスティヌスは即位する前には近衛隊の兵士であり、甥のユスティニアヌスを養子としてコンスタンティノポリスの都へ呼び、法学や神学、歴史学を学ばせた。


518年に先帝アナスタシウス1世が崩御すると、元老院によって当時近衛隊の将軍であったユスティヌスが後継者に選ばれる。


叔父が皇帝ユスティヌス1世として即位すると、ユスティニアヌスはその側近となり、521年には執政官、527年4月には副帝に就任し、実質的な後継者になる。


また、およそ20歳年下の妻テオドラはバツイチの元踊り子と結婚しようとするも、当初元老院議員と踊り子は結婚できなかったため、ユスティヌス1世の皇后エウフェミナや貴族たちの反発を招く。皇帝は法律を改正して結婚を許可している。しかしテオドラは賢明であり、後に夫の治世を支えることになる。


皇帝即位後編集

527年8月1日に叔父が死去すると、ユスティニアヌスが同日皇帝に即位する。また、同年8月9日にテオドラを正式に皇后とした。


下層出身で上級貴族との縁が薄い新帝は、貴族たちの反対を押し切って大胆な人材登用を進める。司法長官にローマ法大全編纂の中心となったトリボニアヌス、宮内長官にペトロ・パトリキウス、財務長官にはカッパドキのヨハネス、そして軍司令には後に名将として知られるぺリサリウスといった人材を抜擢する。


しかし、急速な変革や有能だが人気がない人物の登用への反発、贔屓にしていたコンスタンティノープル競馬場の「青」チームのチンピラ化により、532年にニカの乱が起こり、暴徒となった元老院議員や市民は先々代皇帝アナスタシウスの甥のヒュパティウスを担ぎ上げて皇帝歓呼を行う事態となった。

一度反乱鎮圧に失敗して亡命しようとするも、テオドラに説得された末に、ぺリサリウスによる再度の急襲により鎮圧に成功した。


ローマ帝国と連続性がある東ローマ帝国の皇帝としてローマ帝国の再興を目指し、名将ベリサリウス宦官ナルセス等を用いて、イタリア半島全土と北アフリカ沿岸、イベリア半島南部の一部を再征服(奪還)し、地中海沿岸の大半に広げる。


また古代ローマ以来の法律を整理し、「ローマ法大全」を編纂し、ビザンティン帝国とも呼ばれる東ローマ帝国の法律並びに欧州の大陸法に影響を与えた。


一方で建築・建設事業にも熱心であり、ハギア・ソフィア大聖堂や聖使徒教会の再建、バシリカ・シスタン(地下貯水槽)やブコレオン宮殿前の港、アナトリア3番目の川であるサカリヤ川のサンガリウス橋などの建設などを行う。なお、ハギア・ソフィア大聖堂再建工事後に上記の台詞を言ったと伝わり、ブコレオン宮殿を別名「ユスティニアヌスの家」、サンガリウス橋を「ユスティニアヌス橋」とも呼ぶ。


543年に俗に「ユスティニアヌスのペスト」と呼ばれるペストパンデミックが東ローマ帝国に波及し、ユスティニアヌス本人も感染するも回復した。しかし、548年には癌と推定される病で皇后テオドラを失った。



565年11月14日未明頃に死去し、テオドラ皇后の眠る聖使徒教会に特別な霊廟が作られた上で葬られる。皇后テオドラとの間に実子がおらず、テオドラの連れ子のヨハンネスとテオドラ、妹の子のユスティヌス2世を養子にしており、ユスティヌス2世が帝国を継承する。


他方、ユスティニアヌス1世の治世中にアルメニア人宦官ナルセスやアルメニア・アルケサス朝の末裔の一人である将軍を起用したことで、東ローマ帝国でのアルメニア系の台頭の一因となった。

ちなみに、ユスティヌス2世と同じく妹の子で姪・プラエイエタの女系子孫がヘラクレイオス朝やマケドニア朝の皇帝になっているとされる。


評価編集

治績から後世「ユスティニアヌス大帝」(Justinian the Great)と呼ばれてるほか、生存中の仕事ぶりから臣下から「眠らぬ皇帝」とも呼ばれている。


彼が建てたハギア・ソフィア大聖堂はその後の東ローマ帝国において正教会の総本山として繁栄する。イタリア・ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂建築も支援し、ビザンツ美術の優れたモザイクを後世に残した。


ユスティニアヌスの編纂したローマ法大全は、その後の帝国や欧州ばかりか現代世界の法律の基礎となった。この業績から、西欧では最も高く評価される東ローマ皇帝である。


軍事的にも地中海世界の大半を再統一した巨大な功績がある。一方で、「ユスティニアヌスのペスト」によるパンデミックに加え、その遠征による財政悪化や無理に現地勢力を攻め滅ぼしたことによる治安の不安定化などが後の東ローマ帝国弱体化につながったという批判もある。


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