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ベリサリウス

べりさりうす

東ローマ帝国の将軍。ユスティニアヌス1世を支え、その軍事的才能から「スキピオ・アフリカヌスの再来」とまで呼ばれた。
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概要編集

フラウィウス・ベリサリウス(500?505年〜565年)は、東ローマ帝国の軍人である。ユスティニアヌス1世を支えた。歴史家エドワード・ギボンは彼を『スキピオ・アフリカヌスの再来』と評価した。

当時のローマ帝国は東西に分裂しており、西ローマ帝国は476年滅亡。ゲルマン民族の侵攻、ササン朝ペルシアの脅威により、かつてのローマ帝国は見る影もなくなっていた。


ベリサリウスの生まれは諸説あるが、現在のバルカン半島部トラキア地方で、農民出身だと考えられている。ユスティヌス1世時代に兵士となり、彼の甥で次代の皇帝・ユスティニアヌス1世即位の後、帝国の軍団司令官の1人となり、対ササン朝ペルシア防衛戦に派遣された。531年・カリニクムの戦いにおいては敗北するも、少数の兵力でありながら強固な防御陣を構築し、ペルシア軍侵入阻止に成功。

この戦いによって皇帝の目にとまり、首都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)の司令官へと栄進。532年「ニカの乱」においても暴徒を競技場へと追い込み、鎮圧させる事に成功し、ユスティニアヌス廃位の危機を阻止した。


異民族戦争編集

530年、北アフリカのゲルマン人国家、ヴァンダル王国において政変が起こった。東ローマに敵対的なゲリメルが王位につくと、ユスティニアヌスは征服を決意。

25歳の若きベリサリウスを総司令官に任命。533年、海からカルタゴに上陸し寡兵ながらも勝利を続け、534年にはゲリメルを捕縛することに成功。しかし宮廷などで「謀反」の声が囁かれ始めたため急ぎ帰国、首都において凱旋式を行う栄誉にあずかった、

534年、イタリア半島を支配していた東ゴート王国で政変が起こると、ユスティニアヌスはこれを口実に侵攻を開始。535年、ベリサリウスは、わずかな手勢と共に海路を渡りシチリアを制圧。しかし東ローマでも旧ヴァンダル王国領において反乱が起こり、これの鎮圧を命じられた。この間、東ローマの将軍・ムンナ率いる軍隊が東ゴート軍に壊滅させられた。


失職編集

反乱鎮圧後の536年、再びイタリアに進軍。レッジョ、ナポリを制圧し、ローマも征服した。この後東ゴート軍は新しい王を立てて反撃を開始し、ローマを包囲する。ベリサリウスは1年半にわたるローマ包囲戦に勝利したが、フランク族の侵入なども受け、戦線は膠着状態に陥った。これにユスティニアヌスの嫉妬とペルシアの侵攻が重なり、540年、イタリアでの指揮権を剥奪された。


この直後シリアに派遣され、ペルシアの大軍の補給線を遮断することで休戦に持ち込み、再び侵入阻止に成功した。しかし、またも皇帝の嫉妬を招き、すべての財産は没収され幽閉された。

晩年は、皇位を巡る陰謀に加担したとしてユスティニアヌスの命令で逮捕されるが、結局無実と判明し釈放された。憤死したともいわれており、晩年も不遇であった。両眼をえぐりとられたとか、乞食にまで落ちぶれたという伝説もある。また、家庭においても不幸であったといわれる。


565年、護国の英雄は、惨めに世を去った。


評価編集

全ての戦いで寡兵を強いられ、名が知られるようになったニカの乱では僅か3000の兵を引き連れ、3万の暴徒を鎮圧したとされる。いわば寡戦の天才であり、戦略史からみても類稀な将軍であったといえる。


余談だが、ベリサリウスはユスティニアヌスと同じく大変な恐妻家であり、妻・アントニナは夫のそばで従軍し、これをよく支えたとも。妻が原因で兵の心が離反したともいわれている。ベリサリウスが北アフリカ侵攻の際、飲み水が足りなかったことがある。しかしアントニナはこれを見越しており船の底に水の樽を隠しておいたので乾きに対処できたという逸話も残っており、それ以来妻に頭が上がらなくなったのだという。


関連タグ編集

ローマ帝国  戦略家  寡兵  恐妻家



参考編集

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